田園調布の山荘

「和を以て貴しとなす」・・ 日本人の気質はこの言葉[平和愛好]に象徴されていると思われる。この観点から現代を透視したい。

なぜ?「農業を守る」と――素直に語ることが難しい

2008年11月27日 23時58分37秒 | 時評
隠れた意識の中には「構造改革に遅れた農業は要らない」という論理が見え隠れしています。
永年日本の農業は遅れているといわれ続け、生産者も含めてそう思い、卑屈になったり自信を失ったりした人も少なくないようです。
しかし、日本は農業が遅れているというのはどういう意味なのでしょうか。「農業とは何を指すの?」「誰に比べて?」「どこと比べて?」て、「何が遅れているの?」そして「比較尺度は?」

恐らく技術とか経営管理が先進国と比べて遅れているということです。そのために構造改善事業などが行われたのですがそれを数十年もやって成果はなかったのでしょうか。
農業で生きていくためには経営をしっかりやらねばならない、技術を磨かねばならない、当然のことです。けれども、遅れているから新たに「構造調整」が必要、ガバナンスが必要となると一挙に緊張します。

農業は万人の命をつなぐ産業
土地に刻まれた智恵の源泉

広辞苑には農業は、「人が地力を利用して有用な植物を栽培耕作し、また有用な動物を飼養する有機的生産業で、広義には農産加工や林業も含む」と書かれています。農業とは人間が大地に着地して大地から命をいただく絶対的な手段です。地球上で農業が営めるところ(耕作地あるいは農地)は限りがあります。

農業は必ず地域農業として存在
商業は地域を越えて存在

農業は「守らなければならない」というのは耕作地を守らなければならないといえば少しはわかりがいいのではないかと思います。この地上に耕作地をこれ以上作り出すことが出来なくなり、人口増とか水不足とかの重要な要因もありますので耕作地の保全ということは誰でも納得しうることではないかと思います。そして耕作地は農業を続けることでしか守れません。だから耕作地の保全=地域の保全であるといっても間違いではありません。農業は必ず地域農業という形式で存在します。
農業は土地によって気候や風土が異なるため、不可避的にさまざまな形態があり各々に個性があります。当然のことですが、農産物も地域の風土気候を反映したものになっています。また、規模も大きい(粗放)のも小さい(集約)のもさまざまです。さらに、農業を営む人は商売としてやるものから自給のためにやるものまで千差万別です。その生産方法や土地との結びつきの方式、すなわち経営方式や農村の営みは千差万別で、固有の文化を生み、地域を生みました。遅れているとか進んでいるとかという判断はトータルにはできないのです。
地球上あらゆる所に寸土を見出しては農村を設営し、それを持続させているというだけですでに立派な農業構造を持っているのです。農業は多くの人智が刻まれているソフトウエアーであると思います。

商業が農業の構造を「作ってあげる」ことは無理

㈱地域事業研究所は、農業(漁業、林業も)に足場をおき、工業または商業をこれに結合させて、農業を営む範囲(つまり地域)で農工商業が連絡をよくして、環境も守りながら他の地域との競争力のある産業が成り立つ道を研究しています。ちなみに商業とは何か。これも広辞苑によりますと、「商品の売買によって生産者と消費者との財貨の転換を媒介し、利益を得ることを目的とする事業、商い」です。工業の定義は省略します。商業とは商売人が地域間で情報を伝え合って、オークション(問屋とか市場)を開き地域と地域の両方を同時に利する仕事です。商業は地域に根ざすも、地域を越えた活動をします。商業機能がなければ地域の農業は経営として持続することが出来ません。だから実は商業も農業と同時に発生し共生してきました。工業も同様です。農業が商業や工業と結び合えば、その特徴は農業の特徴に引っぱられます。それは逆転できません。工業や商業はその経営の特徴、例えば株式会社化などで農業経営に刺激を与えることは出来ますが農業を土地や労働力を自ら使って再編する力を持ちません。商業や工業から、「こういうものを作って欲しい」ということが言えても、農業を「マニュアルをやるからこうやれ」ということを押しつけることは農業の定義から無理なのです。農業は牧畜などの移動農業も含めて、やる人が土地に縛り付けられているため、商業、工業とは性質が違います。商業、工業は地域の土地、労働力、資源から相対的に空間距離を置ける、あるいはこうした経営資源を(一部)移動して活用できます。地域空間を行き来する商人は都市(市場)を形成しました。商業、工業は移動不可能な、地域間で交換不可能な農地や農業労働力を経営資源として、市場で換金できる株式のように債券化して地域農業の縛りを受ける経営に代入することは不可能です。裏を返せば属地的な農業経営を商業や工業のシステム、もっとはっきり言えばグローバルな金融債権システムで制御するには本質的に無理であると思います。

地域を深く分析、地域発展の淵源、自立の方程式を見つける
新しい技術はその上に花開く

㈱地域事業研究所は地域を見ます。地域を見て、農業は農業、商業は商業、工業は工業とそれぞれ固有の役割を持ち、相互に結びつきを強めていくことがその発展であるという理念を持っています。地域を分析することによって、その土地に刻まれている知恵や情報をさがし、地域の人が自立の方程式をくみ出して、農業と商業をまたは工業を経営として、さらに近代技術や情報の力で高度に連合させることが地域の未来と考えていますが、新しい技術を紹介してこのお手伝いをするという仕事を使命と心得ております。一番イヤなのは外挿された(外部、最近では外国から取り入れ)マニュアル?で農業を改革できるなどとし、これを宣伝したり導入したりする仕事です。特に技術が自然に代わる代用物であり自然の制約を受けることなく成長をもたらす手段であると盲信する技術万能主義(遺伝子組み換え技術などで伝統種苗を代替する)には慎重にありたいと思っています。農業にも商業にも工業にもそれを営む人によって、地域の条件に合わせて経営の対象とか規模が選ばれており、また個人個人で経営理念が異なっております。そして何よりも、それらは共生の歴史を持ち、地域経済を作ってきました。その仕組み図は自立の方程式として存在し、地域活性の知恵として存在し続けていると信じております。今それが無視され地域は弱っているように見えますが、これはもう一度つなぎ合わせる努力が要るでしょう。そこには主役として経営観を持った担い手が存在しなければならないでしょう。グローバルな競争に立ち遅れたので、構造調整をしなければならないといわれ、さればと外部から補助金やマニュアルをもらい、個々の経営に至るまで例えば農水省に改革の手術を委託するのでは、担い手像がなくソフォーズ、コルフォーズ時代の集団労働的な色彩のするソ連農業への見方と同じです。構造調整とは個人個人の経営理念からこういう構造にしたいという答が生地域農業全体で向かう問題です。

無知と無力の告白
薄っぺらの絵図面で農業改革を語ること

多くの識者、経済学者などは工業や商業の成功をもって農業もかくあるべしと思っています。しかし、彼等は農業という言葉を地域農業としてとらえることはしません。「孤独の」農場経営モデルの集合として抽象的に扱います。その観念的集合が彼等にとって「農業構造」になるのです。そしてその観念的構造はグローバルなもので、地域経済の現状分析には無関心です。どうせそれは構造調整されて淘汰されていくものと思っているのかも知れません。米国や豪州などでは大農場システムが加工流通構造とその展開市場である世界各地の大都市のアウトドア化した消費と結びつき繁栄を見せています。そこでわれもわれもと、意識の高い、技術の高い農業モデルを作り外食産業や観光産業、食品加工会社のビジネスモデルに参加する戦略を志向します。商業が先進的な展開事業としてそれをやっていくことは当然とも言えますが、農業へ商業モデルで深入りすると意外な取引費用を背負い込むことになるかもしれません。一人ひとりがどういう経営を選択するか、「経営自主権」は農業の本来の地域的制約条件から影響を受けるので、与えられた農場モデルでほいほいと工業や商業の経営構造レベルと調整して作り替えることは非常に難しいと思います。農業に対する無知は人類史上を通じてまだ続いていると思います。最近ではソビエトのソフォーズ、コルホーズの失敗や中国の人民公社制度の破綻は、地域農業への分析を欠き、農民の「経営自主権」を封殺したからでしょうが、この失敗はこれからも起こるのではないかと思います。最近では稲の種子の技術革新と化学肥料・農薬の進歩で「得たり!!」と思って構想され、東南アジア諸国に大々的に受け入れられた緑の革命といわれた「構造調整」は、小農民を貧困から救い出し、立派な経営者に変える農場システムとして期待されましたが、この絵図面は極めて非現実的なものでした。これは原料生産とその加工、流通業界との連絡をよくするということで地域の範囲を飛び越えてグローバルに拡がる加工、商業が提案した農業構造改善案でした。外国でバイオテクノロジーを使って開発された種子が加工工場の加工に適しているというだけで導入されました。農業の発展、低開発国からの脱出は、緑の革命を実施することであるとされ、諸国で新品種の栽培マニュアルの実施が近代化(構造調整)であるとされました。その結果、農業の最も重要な資源である地力と水管理を奪い、折角の技術進歩も現場の条件を無視して行えばとんでもない取引費用を負担しなければならないことを知りました。しかも地域の消費者から見ると食料を「原料」にしてしまいました。生食で食べる、色々なものを食べる、季節で食べるという食の消費の多様性のパラメータが失われ、消費者はその分損をしました。

地域の発展に欠かせぬ自主的な経営とその革新

農業はすべて地域農業で、地域という定冠詞のもとで行われます。しかし農業経営はもう少し抽象的に論じても構いません。例えば一人の人間が農場の所有者としてそれぞれに支配人を置き、日本とブラジルで農場を経営するという経営構造を持つことは不可能ではありません。ですから農場経営は誰がどこでやってもよいし、地域に縛られずできるわけです。しかし農業は常に地域の生態系を活用するので地域農業であります。
 
「あなたも農業経営者に」「市場はあなたが握れる」などの放送は実は商業者が発信しています。最近では農業についての政府の解釈もグローバル化する商業でその流通構造に提供する農場を営むことを農業=農業経営といい、農業が地域の生態系を管理していること、その力が地力を作っていること、農村とは資源を管理している社会であることなどにはあまり関心を示しません。商業が農場を所有することで、農業を指導し、場合によっては囲い込めると思ってこういうのですが、商業で勝てば農業生産力も伸びるというものではありません。

貨幣によるインセンティブが効かない-農業はグローバル資本主義の業病

お金の力は無限で、お金と技術で世界のすみずみまで農業を制御できると考えていれば無邪気という他はありません。大農場になればなるほど農業の労働力は雇用にならざるを得ませんが雇用される人々は、その国、その地域の伝統文化からくる価値観(アイデンティティ、宗教観)、言葉、知識水準果ては民族主義などで、これを乗り越えて量産体制に対応する労働の規格化/組織化をすることが困難で、特に人間の集団的な創造性を経営の中で発展させることが難しいことが経験的に分かっています。市場原理は貨幣・信用によって地球上あらゆるところを浮上して歩くことの出来るという商業の運動仮説ですが、最近もっとも激しく運動している金融資本主義はリードタイムの長い産業(特に農業)が民主的、紳士的な手続きで、制御しにくい農業労働者を組織化し、農業経営が収益を上げてくれるまで「待ってくれない」ので、専制的、略奪的にやっているところしか相手にしてくれないと思います。金融資本と農業の関係は18世紀以来の、アメリア大陸農業の歴史と共に歩んだ農地信託銀行のバンカメ(バンクオブアメリカ)の行跡を見れば一目瞭然で、最近では1980年代にブラジルを襲った国家財政の破綻によるハイパーインフレで優良農業経営者や農協が連鎖的につぶれ、資本(借金)を集めれば集めるほど農場経営の被害が拡がったと事件を見れば分かります。ごく最近では1997年のアジア金融危機の時には曲がりなりにもバランスしていたタイの農村の商業資本主義経済が一挙におしつぶされました。農業は金融資本主義とは和解し合えない、市場原理にもっとも距離の遠い産業であると言うことが出来ます。商業(流通構造事業体)は、地域空間的な差異、内容的には地域と地域の間の人々の価値観のギャップを埋め合わせる労を取るサービスにすぎず、自らは価値の生産を行わないが農業に依存するというあやうい矛盾律で成立しています。「市場を握っていれば商人が(農業でも)管理出来る」などというのは限定的に使うべきで、土地や労働力の活用で貨幣によるインセンティブとガバナンスが困難なこと、農業は資本主義、最近の金融資本主義の機動性を妨げる業病であることを知るべきであると思います。(以上)


最新の画像もっと見る

コメントを投稿