私たちは、今日有り余るほどのモノに埋もれて暮らしている。けれども、なぜか次から次へとモノを欲しがる。やがてゴミになるものを躍起になって生産する。文明人は、無意識の中にたえず満たされない飢えがあり、脅迫神経的な欲求不満を潜ませている。E・H・フロムは言う。「消費は結局人工的に刺激された幻想の満足であり、具体的な本当の自己から阻害された幻想の遂行である」
消費者はもしかして幻想で本当の自己を奪われる。消費はニーズから生まれるのではなく幻想から生まれる。最初に車を買った人は以降、新車が出る度に次はこんなのを買いたいという気持が育てられ、やがてカーマニアにでもなれば、ニーズよりも幻想が購買動機になっていく。
すべての商品がそういう幻想に依存しているのであれば、既に極限に達しているかに見える大量生産、大量消費社会は、ゴミによって行きづまるだけではなく、消費者の幻想からの覚醒によっても行き詰まることになる。
衣食住といった人間の生活ニーズは大体新石器時代までに原理的に満たされていた。つまり、食べられるものと食べられないものとの判別、動物や植物の飼い慣らし(農林業、ゴミの処理)、食物の調理・保存、染色・織り・編み、土器、武器、船、農具、家屋、水利、土木などである。これらの技術は近代科学が成立する以前に完璧に成立しており、これらの証拠は古代の都市遺跡にはいくらもある。
人間の作り出した生産物は、人間が消費した後、他の生物が順番に消費し、循環しながら無機化されて自然に帰っていった。人間の歴史は100万年ぐらいといわれるが、そのうち99万9900年ぐらいまでは、その法則に100%支配されていた。
炭酸ガスはゴミである
しかし近代化した産業社会、すなわち資源を遠方から運び、大量生産、大量消費、ゴミは環境に廃棄という一方通行の経済は、自然は循環するという事実によって行きづまりを見せ始めた。現代文明は大量にモノをつくりだす技術を手に入れたが、ゴミを自然に帰す技術で行き詰まってしまった。
ゴミとは何か。炭酸ガスは清掃局が回収できない、排気ガスもしかりである。これらは広い意味でのゴミであるが、これに対する抜本対策はほとんど無い。
これに対して「ゴミの資源化だ、リサイクル化だ」「静脈産業(リサイクル産業)だ」ということを言う人が多い。一見まことにもっともな意見であるが、どうもヘンだ。それは炭酸ガスをゴミと見なしていない不当性の上に、ゴミが出る原因(大量生産・消費)については目を塞いでいることだ。すなわち、大量生産・消費はそのままに、大量廃棄だけを新たな技術によって解決しようという考え方である。
リサイクル化とは、リサイクルという名目で資源を新しく消費することである。これは循環とは違う。循環とは物質とエネルギーが質量を保全したまま(外から物質とエネルギーを付加しないで)一定の法則に基づいて運動することであり、ゴミを加工して製品をつくることではない。製品を作るにはゴミを運搬したり、加工するために電力とその原料である石油を使い、道路を使い、車を使い、土地を使い、水も使い、それらの元手としての石油も使い、したがって炭酸ガスを大量に出す。 何のことはない、清掃局の集めるゴミは減るかもしれないが、炭酸ガスや排気ガスというゴミは今より増えるのである。計算してみるがいい、リサイクル社会は炭酸ガスの増分が出る社会である。炭酸ガスを削減するには炭酸ガスが出る原因としての大量生産、大量消費にメスを入れることしか方法がないのであり、これを修正した経済のかたちを作ることであるということを認識する必要がある。
消費者はもしかして幻想で本当の自己を奪われる。消費はニーズから生まれるのではなく幻想から生まれる。最初に車を買った人は以降、新車が出る度に次はこんなのを買いたいという気持が育てられ、やがてカーマニアにでもなれば、ニーズよりも幻想が購買動機になっていく。
すべての商品がそういう幻想に依存しているのであれば、既に極限に達しているかに見える大量生産、大量消費社会は、ゴミによって行きづまるだけではなく、消費者の幻想からの覚醒によっても行き詰まることになる。
衣食住といった人間の生活ニーズは大体新石器時代までに原理的に満たされていた。つまり、食べられるものと食べられないものとの判別、動物や植物の飼い慣らし(農林業、ゴミの処理)、食物の調理・保存、染色・織り・編み、土器、武器、船、農具、家屋、水利、土木などである。これらの技術は近代科学が成立する以前に完璧に成立しており、これらの証拠は古代の都市遺跡にはいくらもある。
人間の作り出した生産物は、人間が消費した後、他の生物が順番に消費し、循環しながら無機化されて自然に帰っていった。人間の歴史は100万年ぐらいといわれるが、そのうち99万9900年ぐらいまでは、その法則に100%支配されていた。
炭酸ガスはゴミである
しかし近代化した産業社会、すなわち資源を遠方から運び、大量生産、大量消費、ゴミは環境に廃棄という一方通行の経済は、自然は循環するという事実によって行きづまりを見せ始めた。現代文明は大量にモノをつくりだす技術を手に入れたが、ゴミを自然に帰す技術で行き詰まってしまった。
ゴミとは何か。炭酸ガスは清掃局が回収できない、排気ガスもしかりである。これらは広い意味でのゴミであるが、これに対する抜本対策はほとんど無い。
これに対して「ゴミの資源化だ、リサイクル化だ」「静脈産業(リサイクル産業)だ」ということを言う人が多い。一見まことにもっともな意見であるが、どうもヘンだ。それは炭酸ガスをゴミと見なしていない不当性の上に、ゴミが出る原因(大量生産・消費)については目を塞いでいることだ。すなわち、大量生産・消費はそのままに、大量廃棄だけを新たな技術によって解決しようという考え方である。
リサイクル化とは、リサイクルという名目で資源を新しく消費することである。これは循環とは違う。循環とは物質とエネルギーが質量を保全したまま(外から物質とエネルギーを付加しないで)一定の法則に基づいて運動することであり、ゴミを加工して製品をつくることではない。製品を作るにはゴミを運搬したり、加工するために電力とその原料である石油を使い、道路を使い、車を使い、土地を使い、水も使い、それらの元手としての石油も使い、したがって炭酸ガスを大量に出す。 何のことはない、清掃局の集めるゴミは減るかもしれないが、炭酸ガスや排気ガスというゴミは今より増えるのである。計算してみるがいい、リサイクル社会は炭酸ガスの増分が出る社会である。炭酸ガスを削減するには炭酸ガスが出る原因としての大量生産、大量消費にメスを入れることしか方法がないのであり、これを修正した経済のかたちを作ることであるということを認識する必要がある。