歩きながら作ずく思うことは、目に入るすべての空間が、すべて、歩き方や使い方の規制でぎっちり管理監督されていることである。その監督者は、お役所であり、細かい縦割りから規制内容が発せ荒れて利う。公園に入ると、至るところに掲示板があって、こまごまとした注意が並ぶ。川岸を歩くと、河川敷を占有しているさまざまのセクターから、球技やペットの運動、音楽や野外パーテイ、トイレの使用、駐車、み処理やら、すべて××××禁止の告知板が目に止まる。
空間を細かく切り刻んで、その管理をマニュアル化しているわけだ。これは自然の風景やヤギの自由空間という、感動を受け取る量が減殺されていることになるが、歩行者はそのマニュアルで行動がこのように管理されているわけである。そして時として、マニュアルに「想定外」の事象が起きる。たとえばデング熱や噛みつきカメなど出現の事象である。そしてそれが起きるごとに縦割りの管理形態の下で、それぞれにマニュアルは改訂され、積み重なり、お金もかさみ、全体がかえって理解しにくくなっていく。マニュアル化すればするほど、想定外を「想定」しておかねばならない。マニュアル公害かもしれない。公園や河川敷の管理ぐらいならそれも頬笑ましいことかもしれないは、もしこれが、「駅」とか「空港」、「港」、そして「基地」や「原発」などの空間管理のことであったら、一つの想定外が、連鎖的にいくつもの想定外を生み出し、誰も収拾できず、だれも責任を負えない「大惨事」を生むに違いない。装置化とシステム化のエンジニアリングで固められる空間が、このような素因を含んでいることに心しなければならない。
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