風の記憶

≪記憶の葉っぱをそよがせる、風の言葉を見つけたい……小さな試みのブログです≫

風邪とたたかう

2017年01月20日 | 「新エッセイ集2017」

髭が赤くない医者は信用できないから、ぼくは風邪を引いても医者にはかからないことにしている。
けれども、そうするには、それなりの覚悟と体力、忍耐力なども必要になってくる。
容赦なく攻めてくる敵に対して、孤軍奮闘するようなものだから、勝つためには、まずは敵を知らなければならない。
昼間は咳や鼻みずの責苦があることはもちろんだが、ぼくの場合は夜戦の方が問題となる。敵はぼくが眠った隙をついて襲ってくる。無防備な夢の中で、敵の猛攻を受けることになるのだ。

まず第1夜は水攻めである。
ぼくの脳みそが、桶のようなものに入れられて水漬けになっている。ただ、それだけのことだが、受取り方によっては、湯船にでも浸かっているような、浮遊感覚をともなった快い眠りに思われるかもしれない。
ところが、これが苦痛なのだ。眠りを快く感じるためには、適度の弛緩や夢の内容に動きがなければならないが、敵にそんな心遣いは一切なし。ただ水の中に放り込まれたままで、それはむしろ捕縛されている感覚といえる。金縛り状態ともいえる。だから、ぼくは幾度も脱出を試みる。ああ、もうたくさんだ、と夢の中で叫びながら夢の外へと逃げ出そうとする。
こんな抵抗を1時間おきくらいに繰り返す。そのたびに、頭を静めるためにトイレに行き、台所で水を飲む。別に喉が渇いているわけでもないのだが、水に責められた悪夢の残像があるので、水を補充しておかないと、もし脱水状態にでもなったら大変だと、とんでもない錯覚をするのだ。
つじつまが合わない思考法をしている。これは脳が犯されているのと寝ぼけているのと、その両方のせいにちがいない。さらには、現代医学を信用しようとしない報いなのかもしれない。
こうして悪夢の第1夜を、悪戦苦闘の末になんとか脱出する。
昼間は咳と鼻みず、それと、うっかり昼寝をすると夜とおなじ強敵が現れる。昼夜猛攻を受けたのでは体力がもたないので、できるだけ昼寝はしないように頑張る。風邪に犯された頭脳は、まことに奇妙な論理を展開するようだ。

そして再び、悪夢の夜がやってくる。さすがの敵も作戦をすこし変えてきた。
第2夜は石攻めである。
眠りに落ちるやいなや、ぼくの脳は石にされてしまった。正真正銘の石頭、もう何を考えることもできない。とうとう頭が石になってしまったと、そのことばかりを延々と考え続ける。
これはもはや夢とはいえない。フリーズしてしまったパソコン画面のようなもので、固定した観念像がぼくの脳壁にべったりと貼り付いているのだ。
ひとの脳は、あれこれと様々なことを思考するようにできているはずだから、たったひとつのことを考え続けることほど苦しいことはない。それも自ら望んだものなら快感かもしれないけれど、この場合はスフィンクスよりも厄介な、風邪という理不尽な怪物に押し付けられた難題なのだ。
ぼくはまた昨夜と同じように、苦悶しがら夢の外へ脱出しようとする。トイレのあと、台所へ行き水を飲む。今夜の給水の理由は、ぼくの脳が石になったのは渇水のせいだと判断したからだ。思考力までも、からからに乾いて干物になったようだ。
床につくと、再び戦闘開始。
石あたま、脱出、石あたま、脱出、石あたま、脱出、石・・、脱・・、石・・、脱・・・・・・・、ああ疲れた。
やっと明け方をむかえて長い夜から脱出する。石のかたまりだったぼくの脳は、小さな無数の石ころになっていた。すこしは頭の体積が軟らかくなったように感じられる。でもこれは、戦力の衰えた脳が、都合よく逃げの体勢にはいった兆しかもしれなかった。
いずれにしろ、夜が明ければひと息つける。レースのカーテンがほんのり白くなったのにさえ救われる思いがした。

昼間は、カミさんの脅しも加わる。
風邪は万病の元だなどと、恐ろしい言葉を浴びせてくる。あなたのは風邪を通りこして、脳膜炎とか脳溢血とかじゃないかと、ぼくを更に死の淵へ追いやろうとする。ぼくにはもはや、昼も夜も援軍はいないのだ。
満身創痍、鼻をかみすぎて鼻は痛い。咳をしすぎて喉は痛い。髪は鳥の巣になってかゆいし、肛門もなぜか荒れて痛い。いまさら引くこともできず、身も心もぼろぼろになって第3夜に突入する。
やぶ医者よりもカミさんの診断の方が正しければ、今夜あたりは討ち死にするかもしれない。

敵は再び水攻めでやってきた。
どうやら原始的な戦法が好きなようだ。今夜の敵は、ぼくの脳を水浸しにしただけでは収まらず、更にぐるぐるとかき回すのだ。メリーゴーラウンドに乗って遊んでいるわけではない。なにかの周りを回っているようでもあるし、ぼくの周りをなにかが回っているようでもある。それも強要されるということは拷問に等しい。
3夜目ともなると、こちらもすこしは慣れたとはいえ、体力も消耗しているので苦痛に変わりはない。脱走、トイレ、台所、水と、惰性でひと通り夜中の儀式を繰り返す。
悪夢の合間には、さすがに不安になって脳のチェックをしてみた。
1+1=2、ようし、計算力はパス。昨夜食べたものは何か、湯どうふ。ようし、記憶力は普段よりも良いくらいだ。川柳のひとつも思い浮かぶか。そんな、普段でも難しいことができるわけがない。面倒臭い言葉遊びなんか勘弁してくれ。いまは右脳にまでかまっている余裕はない。右も左もパニックになっているんだ。
もはや夢も覚醒も区別がつかなくなって、ただ妄想する。
ひとが死ぬときの苦しみとは、きっとこのような苦しみにちがいない。ひとは死ぬとき脳みそが次第に萎縮して、最後にひとつだけ苦しみの領域が残されるのだ。いまは臨終の状態に近いのかもしれない。しかるのちに呼吸が止まり酸欠状態になり、やつと一条の光が射し、きれいなお花畑が現れるのだろう。臨死体験者が語る、あのお花畑だ。
どうやら妄想ばかりは元気なようだ。この分では右脳もまだいけそうだ。ようし、とりあえずパスにしとこう。それに、お花畑もまだ見えてこないし。

風邪はやはり夜の悪魔の仲間だった。まわりが明るくなると、敵もすこし腰が引ける気配がした。
4日目の朝になってようやく、ぼくの脳の回りを渦巻いていたものが静かになって、一条の光が射しこむように、細い糸のような水が流れはじめた。冷たい雫のようなものが脳から流れ出して、肩から胸へと、そして体の隅々へと下りてゆく。その雫の行方を夢ともうつつとも知れず追っているうちに、久しぶりに深い眠りに落ちていった。
連日の睡眠不足をとり戻すように、翌日は炬燵でうたた寝をした。その短い眠りの中で、柔らかい肌の温もりに包まれている夢をみた。花のような淡い香りもしているようで、心地よく触れ合っているのは明らかに異性の体であり、密着した肌の感触が指先に残った。目覚めた後もしばらくは、指の記憶を確かめようとする余裕が、ぼくの体に生まれていた。ようし、オスの機能もパス。おもわずガッツポーズの気分がよみがえった。
生還の喜びにひとり浸りながら、眠りにはやはり、安らぎや喜びがなくてはならないと考えた。眠りが戦いであってはならないのだ。
久しぶりの爽やかな気分で、ぼくは風邪との不戦を誓った。



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