いつものように、公園のベンチで朝の瞑想をしていたら、目の前を異様なものが移動していく。
そんなものが目に入るということは、いかに瞑想がいいかげんであるかということだが、その瞑想の原っぱを横切ったものは、公園を棲みかにしている野良猫だった。
異様にみえたのは、そいつが鳩をくわえていたからだ。
鳩の羽がやつの口元からひろがっていて、まるでライオンのたてがみのように堂々としてみえた。
大きな獲物をくわえているせいか、歩き方も妙にゆったりとしている。どうだと言わんばかりの威厳さえある。
こんなやつに馬鹿にされてはかなわないと、必死に瞑想に戻ろうとしたのだが、野性をあらわにした野良の姿に、ぼくの心は千々にかき乱され、瞑想はいつものように迷走を始める。迷い迷って図らずも、ぼくも野良になってしまった。
名前はまだ無い・・・
・・・あいつは、吾輩のことを野良としか呼ばない。名前なぞ無いと思っておるのだろう。
だが名前はあるのだ。餌やりのおばちゃんが呉れた名前だから、気に入ってるわけではないが一応の名前はある。
どうせありふれた名前だから、名前のことはどうだっていい。漱石大先生の猫だって名前はなかったのだ。
それよりも、吾輩の庭でぼうっとしているあいつだって、吾輩からみれば名無しの権兵衛にすぎない。
あんなやつは馬鹿に決まっておる。毎朝同じことばかりしている。きっと、それしか出来ないのだろう。ただ歩いて座って、それでなにが楽しいんだかわからない。そんな暇があったら、鳩の一羽でも獲ってみたらどうか、それが生き甲斐というもんだろう。
あいつは、ただぼうっとしているのではないと言うだろう。
なんでも、頭の中で言葉とかいうものを探しているようだ。いっぱし詩だか小説だかを書いてるつもりらしい。それって、あの漱石大先生の真似事ではないか。不遜にもほどがある。
大先生のことは、吾輩らの間では伝説になっているから、いささかのことは知っておるつもりだ。
だが容貌からして、あいつは大先生には到底およばない。吾輩や大先生には立派な髭があるが、あいつには汚い無精髭しかない。そんなんで大先生の真似をしようなんて、身のほど知らずというもんだ。
やはり馬鹿にちがいない。
言葉なんてものは、吾輩らには数語もあれば事足りるってもんだ。
だが、あいつは言葉を持ちすぎて、使い方も分からずにもて余しておる。ガラクタばかりかき集めて、やたら詰め込むことしか知らない。大切な言葉もそうでない言葉も、ちゃんぽんにしてパニックになっておる。
だから朝からぼうっとして、頭を冷やしておるのだろう。
きのう集めすぎた言葉のガラクタを、やっきになって整理しようとしているにちがいない。言葉には推敲とかいうものがあるらしいが、ガラクタをいくら推敲しても、残るのはガラクタなのだ。
吾輩には、増えすぎた言葉は、単なる煩悩としか思えない。
言葉が少ないおかげで、吾輩らはシンプルな生活が出来ておる。
朝だろうが夜だろうが、腹が減れば何かを食う。春夏秋冬、暑いときは日かげ、寒いときは日なたがベッドだ。発情したら素直に発奮して恋もする。言葉が無ければ思考も思案も必要ない。明日を思い煩うこともない。
漱石先生ものたまっておられる。
「猫などは単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る。おこる時は一生懸命におこり、泣くときは絶体絶命に泣く。」すなわち「行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、行屎送尿(こうしそうにょう)」だと。
あいつがどんなに語彙豊富だとて、こんな立派な言葉は持ち合わせてはいないだろう。
あいつは馬鹿だから、瞑想などしても煩悩を増やすばかりだ。
行住坐臥なんてもんじゃない。指定席のごとく、いつも同じ汚いベンチに座っておる。そんなところでいくら瞑想もどきをやったって、行屎送尿なんて高尚なものどころか、単なる野ぐそに立ちしょんべんだ。
言葉の使い方を知りたいのなら、煩悩を整理したいのなら、吾輩の庭を土足で歩き回ったりせずに、高い山にでも登れ。吉野の大峯山へ行け。365日、いやもっと、千日も山道を駆けてみろ。
だが、あいつには出来まい。きのうの道をきょうも歩く。きのうのベンチにきょうも座る。きのうの言葉をきょうも反芻する。無駄なことばかりしておる。
言葉が少ないぶん、吾輩の方がはるかに明解だ。
どうだ、これだけ言われれば、空っぽの頭にもすこしは血が上っただろうか。逆上もよほど大切なものだと漱石先生もおっしゃった。
「逆上を最も重んずるのは詩人である」と。「この供給が一日でもとぎれると彼らは手をこまぬいて飯を食うよりほかになんらの能もない凡人になってしまう」と。
もっとも、詩人は逆上などという俗な言葉は使わない。「インスピレーションという新発明の売薬のような名」をもったいそうに唱えるらしい。
彼らの武器は、インスピレーションと言葉だ。
だが、それだけでは詩は書けない。詩は煩悩だ。解脱だ。インスピレーションからの解脱、言葉からの解脱だ・・・
・・・にゃにゃにゃんと、野良の言葉におもわず逆上してしまった。
やっと猫の妄想から脱出してみると、やつは鳩をくわえたまま尻を振って去っていくところだった。
公園の野良たちは、どいつも丸々と太っている。みごとなメタボだ。それでないと冬は越せないのだろう。やつらは自然の摂理で生きている。風と草しか見ていない。いつもそっぽを向いてどこ吹く風、ぼくに挨拶するやつなど一匹もいない。馬鹿は相手にしないつもりらしい。
やつらは、すでに解脱している。
(写真は『吾輩は猫である』初版本の扉絵。角川文庫より)