「ほら、あそこに」と言って、
ひとさし指で何かをさし示すとき、自分の指先の形に、ふと父の指先の影を見ることがある。そのときの自分の手に、父の手を見ているような錯覚をするのである。
この感覚は、咳払いをするときなどにも感じることがある。もちろん父の咳払いは、私のものよりも勢いがあり、父の手は私の手よりも大きかった。
父は背も高かった。成人した私よりも1センチ高かった。体形は私と同じで痩身であったが、私のように華奢ではなく、骨太でしっかりしていて背筋も伸びていた。足も私の足よりも大きく、父の靴を見るたびに、私は劣等感を味わったものだ。父の靴は、いつも私の靴を威圧していた。
子供の頃は、父の大きな声が怖かった。
私の名前を呼ぶ父の声が、今でもときおり聞こえてきて、私は思わず緊張してしまうことがある。もう父の声はこの世には存在しないのだが、私の記憶の中で叫び声は続いているのだ。
「泣いてはいかん」という声が聞こえる。「なんでも食べろ」「文句を言うな」「もっと早くしろ」などと、父は叫び続けるのである。
泣き虫で気の弱い少年が、べそをかかずに生きるということは容易ではなかった。けれども、背中から父の声が追いかけてくるのだ。さらに「早くしろ、早くしろ」という声が追いかけてくる。急ぐ必要のないことまで、急かされているように、つい足早になってしまう。
父の大きな影がいつも覆い被さってくるのだった。
私は18歳のときに家を出て、父の手から離れたが、その後もずっと、父の声から逃れることはできなかったような気がする。「泣いてはいかん」「文句を言うな」「もっと早くしろ」、いつも父の声が聞こえていたのだった。
父は86歳で死んだが、その死に方も潔かった。
その前夜、父はきれいに髭を剃って寝た。そして、そのまま目覚めることがなかった。本人も周りの人間も、誰も知らない間に、ひっそり父の心臓は鼓動を止めていた。
私は死に方においても、もはや父を凌駕することはできないだろうと思った。最後の最後に父をとび超えるには、私はもう腹を切るしかないのである。
父は80歳で店の看板を下ろした。私は60歳で力尽きた。金を稼ぐことにおいても、私は20年のハンデを父に負ってしまった。
私はいま、この20年のハンデをどうやって辻褄を合わせようかと思案している。
いくら考えても、泣き言ぐらいしか出てはこないだろう。それでもいい、もう泣きたいときには泣こうと思う。ひとなみに年は重ねたが、私の中に巣くっていた泣き虫を退治することは出来なかったのだ。こうなったら、私の中で泣き続けている虫でも探してみようと思う。父ももう居ない。残された時間を急ぐことはないのだ。ゆっくりと時間をかけてやってみよう。
なあそうだろ、親父さん、などと考え始めた頃になって、私のひとさし指に重なって、父のひとさし指が見えてきたのだった。私は何かを指さしながら、はっとして自分のひとさし指を見てしまう。それは父のひとさし指でもあり、一瞬そこにある父のひとさし指もまた、何かをさし示しているようにもみえるのだ。
きっと、お二人ともどこかではるかに父親を超えているにもかかわらず、それに気づいていない、あるいは無意識のうちにそれを拒んでいるのかもしれませんね。
時々、長女に同じようなことを感じることがあります。私などよりはるかに優秀な市民に育ったと私は思っているのですが、娘はまだ母親を超えていないと思っている節があります。親としては早くその気持ちから脱して、自分の強みに気づいてほしいと思っています。きっと、yo-yo さんのお父様もそうではないでしょうか。
いつも読んでいただき、ありがとうございます。
あの天才音楽家のモーツアルトと並べられて、とても照れております。
ぼくなど遥かに次元の低いところで、父親を意識しているに違いありません。
だけど親子の関係についての、こもれびさんのご指摘には強く共感する部分がありました。
いちばん身近かな肉親の声は、モーツアルトの楽曲を聞くように、いつも明るく励ましてくれるようです。