8年8ヶ月に及ぶ闘病だった。
平成17年11月、脳梗塞に倒れたが懸命のリハビリで介添えは必要だったが一時は歩行もできた。
最期まで意識があり、見舞いの人に目で頷いていた。
思えば昭和18年、祖父の血判を就いた嘆願書で志願、満16歳で戦場にたった。
祖父は一人息子の父をどんな気持ちで送り出したのだろうか。
当時の日本の有り様がかいま見られる状況だ。
宮崎県、満州と戦地に赴いたが満州で終戦を迎え父は帰還した。
戦後、母と結婚、何もない時代に4人の子をもうけ農業の傍ら様々な仕事をし育て上げた。
苦労して苦労して、自分はともかく子供のためと働いてくれた父母。
その母は今から20年前、突然の交通事故で亡くなった。
父の悲しみはこの日から始まり、ストレスで胃ガンにもなった。
最愛の母を亡くした父のショックがわかるようだった。
父を支えるため、私の妹たちも「母の分まで」と思うように懸命の看病をした。
休みもなく働きづくめだった父もこの8年あまりは、毎日のように病院や施設に通う子供達に囲まれ辛いながらも穏やかな日を過ごした。
5月22日、最期の入院となった。
6月に入り、医師から余命1週間と告げられ、連日病院通いをした。
そのためか1週間が3週間となり、6月24日、87歳で生涯を閉じた。
いい父親だった。
納棺師に頼み、安らかな笑顔をつくってもらった、顔にはほお紅がつけられ生前そのままの顔だった。
6月27日、荼毘に付された、合掌。
平成17年11月、脳梗塞に倒れたが懸命のリハビリで介添えは必要だったが一時は歩行もできた。
最期まで意識があり、見舞いの人に目で頷いていた。
思えば昭和18年、祖父の血判を就いた嘆願書で志願、満16歳で戦場にたった。
祖父は一人息子の父をどんな気持ちで送り出したのだろうか。
当時の日本の有り様がかいま見られる状況だ。
宮崎県、満州と戦地に赴いたが満州で終戦を迎え父は帰還した。
戦後、母と結婚、何もない時代に4人の子をもうけ農業の傍ら様々な仕事をし育て上げた。
苦労して苦労して、自分はともかく子供のためと働いてくれた父母。
その母は今から20年前、突然の交通事故で亡くなった。
父の悲しみはこの日から始まり、ストレスで胃ガンにもなった。
最愛の母を亡くした父のショックがわかるようだった。
父を支えるため、私の妹たちも「母の分まで」と思うように懸命の看病をした。
休みもなく働きづくめだった父もこの8年あまりは、毎日のように病院や施設に通う子供達に囲まれ辛いながらも穏やかな日を過ごした。
5月22日、最期の入院となった。
6月に入り、医師から余命1週間と告げられ、連日病院通いをした。
そのためか1週間が3週間となり、6月24日、87歳で生涯を閉じた。
いい父親だった。
納棺師に頼み、安らかな笑顔をつくってもらった、顔にはほお紅がつけられ生前そのままの顔だった。
6月27日、荼毘に付された、合掌。