よっちゃんの独り言

日々の感想を独り言で発信しています

こんなに高い処で・・・

2020年03月30日 | 日記
東京電力の送電線タワーが建設されている

これまでの送電線では電力の需要に対応できないため、新たに建設されている

当地は山地ではないが、小高い山もありその最高地点に進められている

建設地点までは仮設の空中ケーブルや地上ケーブルが敷設され、重量物の運搬が行われていた

そして

鉄塔の骨組みが引き上げられ、偉容が姿を見せてきた

遠くから遠望すると骨組みが進んでいる2基の鉄塔が見える


そして少しづつ近づくと


さらに
人が見える
高さは50mはある


これも人間の仕事だ
命綱一つで両手を使って組み上げている
どんな人がやっているんだろう
尊敬を超え感嘆してしまう


この人がいるから電気の恩恵にあずかることができている

感謝だ!


区長の務めを終えた!

2020年03月29日 | 日記
2期4年にわたる区長の務めを終えた!

当区では異例だったが当初1期2年の予定が2期務めることになり、心配もあったが無事終了することができた

昨夜、新旧役員が「引継式」を行った

思えば楽しくもあり辛くもあり、愚痴も言い続けた4年間だった

当然ながら地域は様々な考えを持つ方の集団だ

田舎といっても今や都市部とおおきな違いはなく、言いたいことははっきり言い、言いにくいこともはっきり言う時代だ

そんな中、113世帯、約300人の区をなんとかまとめられたのはラッキーだった

運動会や地域の祭り、親睦旅行などを取りまとめるのが区長の仕事だが、最近の傾向では「出てこない」 「参加しない」

出てきた人はおおいに楽しんでくれるのだが

地域コミュニテイが希薄になりつつあり、行政も苦労していると感じている

今後の課題でもありそうだが、これからの生き方の転換時期なのかも知れない

若い人がマージャンやゴルフをしないように、趣向も転換点なのかも


区長任期最終の昨年10月、当地は大水害に遭遇した

多くの家が浸水し、今なお避難している方、当地を離れる方も出ている

被災者支援に奔走、被災から数か月、行政と被災者との間で様々な経験をさせていただいた

約半年が過ぎ被災者からお礼の言葉をいただいている

家財のほとんどを処分することになった方からも直々にお礼をいただいた

当然のことをしただけだったが「うれしかった!」


水害後、一早く「自主防災組織の作成」を進めた

まず「声かけ避難」そして「誘導」 さらに避難所の開設、炊き出しなど

避難マニュアルを作った

区民全員の住所、氏名、連絡先等を記載した「住民名簿」を作った

この人にはどうして連絡するか、連絡のつかない場合どうするか、あらゆる災害を想定したマニュアルにした

なかには避難したくない人もいるだろう、その人はどうするかなど

役員会で議論した

市の防災官に指導を仰ぎ作成、さきに行われた区の総会で承認を受けた

先日、その防災官に規約、マニュアルを提出した

「よくできています」と言われた

あとは現実に災害が起きた時、このマニュアルで如何に動けるかだ

何度か訓練も必要だ

この意向を新区長に引き継いだ

なんとなく肩の荷が下りたと感じている


孫娘とサイクリング

2020年03月25日 | 日記
良い天気だった

午後から孫娘とサイクリングに出かけた

場所は御前山ダム周回コース

桜も咲いて爽快な気分になることができた


懸命にペダルを漕ぐが「足が笑ってしまい」孫に追いつけない

息遣いも荒くなり、「待ってて~~~」


年齢を感じるサイクリングになってしまった

庭に咲く花

2020年03月18日 | 日記
新型ウィルスによるコロナショックで大きなダメージを受け、貝になっていました

しかし、このショックはまだつ続きそうで、先の見通しが全くわからない状況だ

3月に開催が予定されていた事業や会議などことごとく中止または延期となり、カレンダーに空白ができた

そんな状況のなか、昨夜は区長会の会長と副会長で慰労会を行った


今日は雲一つない快晴だ

家の庭では春の花や芽が綺麗だ

これは「ソルダムの花芽」




こぶしの花


たんぽぽも鮮やかだ!


これは「にらの花」に似ているが・・・


芝桜も


コロナの一刻もはやい収束が待たれる



9年前の3月11日

2020年03月11日 | 日記
東北自動車道を「花巻温泉のホテル佳松園」に向かっていた

カーラジオから国会中継が聞こえていた

地元選出の参議院議員 岡田広さんが質問をし聞き入っていた

午後2時46分、「緊急地震速報」

間髪を入れず大きく揺れた

走行していた場所は宮城県栗原市だった

あとで知ったが「震度は7」

激しい揺れで急ブレーキをかけ、走行車線をはなれ停車した

停車した場所は築館ICを過ぎた橋梁の上だった、ここは危険と思い約300mほど走り停車した

続けて大きな余震が

ここにいるのも危険と感じ、最寄りのパーキングに向かった

志波姫PAだった

走行を止めた車がたくさんいた

ここにいても立て続けに大きな余震がきた

トイレに入ったが、体を揺すられるような大きな余震だった

恐怖を感じ、高速道路内にいるのはまずいとIC出口に向かった

若柳金成ICがあった、これより先は通行止めと

一般道に出てホテルに電話をしたがつながらず、この状況ではキャンセルもやむを得ないと思い、帰ることを決断

ところが、国道4号線は大渋滞が始まり、橋のつなぎ目には高い段差ができやっとの思いで渡る箇所がたくさんあった

この日、夕方から雪となり、凍える寒さだった

ラジオからは地震の規模や現状が報告され、地震は東北地方ばかりでなく北海道、関東、北陸まで及んでいることを知った

帰ると言ってもここから我が家まで約600km

まずガソリンが足りない

どこかで補給しなければ戻れないが、あたりは全面停電で真っ暗

無駄に動いてガソリンを消費してはまずいと

周囲は雪が白く積もり始めていた

ここでじっとしていても始まらないので、帰れるところまで行こうと妻と決めた

娘達から安否確認のメールが届くもこちらからの返信がうまくいかずいらいらがつのった

家や娘達は大丈夫と知り一安心ではあった


国道4号は仙台に向かうほど大きな渋滞となり、1時間に1kmも進まない状況が続いた

そのとき

真っ暗な国道沿いにガソリン待ちの長い車列が出来ていた

なんと手回しでガソリンを販売してくれていたのだ

これはどうしても並ばないと

2時間ほど待ったろうかやっと順番がきた

「ガソリンは皆さん10リットルまでです」と

「10Lでは家まで帰れない、なんとか20L入れてと」お願いした

事情を説明すると20L入れてくれた

うれしかった、約2年後このガソリンスタンドにお礼に行くことができた

とりあえず戻れる確信ができ少し安心したが、道のりはまだ300km以上ある

深夜0時に仙台市内を通過した、この時仙台湾方面から「真っ赤な炎が」

国道4号を名取市内に入って「そうだ我が家は国道4号より国道6号で行った方が空いているし近い」と思った

岩沼市内で国道6号線にまわった

国道6号は空いていてしばらく快適に車をすすめ、常磐線山下駅近くまで行くと「この先通行止め」と

「なんと津浪があったらしい!」

ここではじめて「津浪」があったことを知った

やむを得ず国道4号に迂回しようと真っ暗な夜道を移動した

今思うと道路や空き地にたくさんの車があったが、あれは余震を心配し、避難していた人達だと知った

国道4号の周囲では「トラックが崖から転落していたり、がれきが道をふさいでいたり」ほぼ全面渋滞が続いていた

夜が明けようとしたころ須賀川に到着、ここから国道118号を経て午前9時過ぎ我が家に戻ることができた

実に24時間のドライブだった

9年前の記憶をたどり書いたが、この記憶は未だに鮮明に残っている

この震災で東北地方のたくさんの方が犠牲になった

9年経ったいまでもその傷が癒えることはない大惨事だった

深くご冥福を祈りたい