こんばんはー!
今、Break the Silence/ Break the Violence という、パネルディスカッションのライブ配信を聴き終わったところです。午前0時に終わる予定の配信に気がついたのが、午前0時で、もう終わっちゃってるだろうな、と思いつつもダメもとで行ってみたら、真っ最中!結局1時間半弱の延長で終了しました。
なかなかに興味深い、、、とかいうとなんだかな、、って感じだけど、差別っていうことの本質をもっと知らないといけないな、と思い知ったって感じかなと。
前半にどういう話が出ていたかは分からないけど、メインのテーマは、
「黒人差別はダンスやミュージックにどう影響を与えたのか。そしてその「ブラックカルチャー」は世界にどう影響を与えたのか。私たちはなぜこれについて今考えるべきなのか。」
と銘打たれていた。
この配信を知ったのはさっきも書いた通り、ついさっきなのだけど、今日はどちらにしてもこの「本質を知る努力」ってことについて書くつもえりでいたので、さらに理解が進んだというか、もっと知らねばいけないなっと思い知ったというか、、、
日本だけなのか、世界的になのかは分からないけど、
まあ自分がいるのが音楽の世界だからどうしてもそこを中心に考えることになるけど、
なぜ、
どうして、
どんな背景があって、
どんな歴史があって、
そこにはどんな意味が込められていて、
いつから、
など、それをやる意味みたいなものを見つめたがらない気がする。
「見つめたくない」という側面と「見つめたからって何か得になるわけじゃない」「面倒くさい」という側面とあるように思う。
例えばだよ、
日本だと「宗教」っていうとみんな胡散臭い気分になって、あーハイハイって感じでちょっと見てみぬふりしたい感じがあるよね?
それでいて、初詣もするし、お墓参りもするし、なんならクリスマスを祝って、教会で愛を神様の前で誓っちゃうよね。
それって、どういうことかな?!とか、ほぼ考えない。
今も「三密」とか、もうお札ですか?魔除けですか?って感じで、それが本当に新型コロナの感染防止に役立つのかとか、そもそもそれがどういう病気なのかとか、もはや何も考えない。データも求めない。とにかく「三密だ!!」ってな感じで、私警察的なことになったりもする。もはや宗教、、、
そして、演奏に関しても、そのルーツは何かとか、その意味は?とか、どんな感情が込められているのか?とか、そういうことを調べたり、深めたりするよりも、「演奏が正しくできること」だけに主眼が置かれがち。
もう、「できちゃえばそれでOK」「できることが正義」的な。
そして、今アメリカで暴動が起きてるけど、それについてメディアで、
「大変なことになってますね。コロナでストレスも溜まってますし」
って。
そりゃー、コロナの自粛に辟易してるかもしれないよ。それにそのせいで暴動に参加してる人も中にはいるかもしれないよ。
だけど、本当の本質はそこじゃない。
アメリカという、白人社会の中で、長く受けてきたAfrican–Americanに対する不当な人種差別、、これを知らないと、この暴動の本質を見誤ることになる。
かくいう私も、ほんのちょいかじり始めただけで、本当のところは全然わかってないと思う。
実際、今日の生配信を聞いていて、
日本人が黒人音楽やファッションをやることはどうなのか?
って話になったとき、
ただの真似としてやるんだとしたら、自分たちの文化の盗用だ。
自分たちの文化を受け入れ、理解して音楽やファッションをやるのであれば、それは
リスペクトになる。
ファッションは真似ているのに、黒人が差別されているというときに、無視したり、黒人をみて怖がったりするのだとしたら、それは受け入れているとは言えない。
(意訳)
と話していて、そのほかに、
N–Wordという、聞き慣れない言葉のことが、
仲間内でbitch(これも良くない言葉)と言うのは良くても、他人に向かって言うのはナシだというのと同じく、N–Wordはアフリカ系アメリカ人の仲間内で言うのは良いが、その他の人は使うべきではない、
と話されていて、N–Wordの意味が分からなかった私は、まぁいけない言葉なんだなーってのは分かったけど、それが何かわからず、調べてみたら、
Nから始まる黒人奴隷を差別的に呼んでいたニガーということばのことだと、そこでようやく分かった。
こういうのって、本当に知らないことだらけだ。
でも、その「知らない」ってことで、相手や物事を自分や自分のコミュニティの尺度で測ってしまうと、間違いや争いや時には差別のもとになってしまう、ということを理解して気をつける必要がある。
音楽だって、メロディーだけ聞いたら、ライトでかっこいいねーって曲も、意味や歴史を知ると、ものすごく切なくて悲しい歌だったりすることも多い。
それを、イエーイ!かっこいい〜、ターノシーィ!とやるのも、まあ良いのかな?と思ったりすることもあるにはあるけど、
でもそれって、意味を知ってる人からすると、物凄い違和感だし、場合によっては侮辱と取られても仕方ないのかなと。
わからんけど、
例えば、神主さんの「かしこみーかしこみ!!」って祝詞を挙げてる状況を、
日本人が真似してキャッキャ言ってるのは、特になにも感じなそうだけど(神主さんは気を悪くしている可能性はある)、
外国人がデフォルメして真似してキャッキャ言ってたら、
日本バカにすんな!とか思いそうじゃない?
ひと昔前の海外の映画に出てくる日本人の典型って、
前歯が出てて、メガネかけてて、背が低くて、ペコペコしてて、カメラを首からかけてる
ってヤツだったじゃん?
あれ見て、気分が良くなった日本人って多分ほとんどいない。完全にディスられてると思ったはず。
じゃあ、映画を作った人たちは、日本人をディスりたかったのか?というと、そうとは言い切れないと思うんだよね。
単に、特徴を盛り込むとそうなる、ってだけな可能性は高い。
私たちだってひと昔前には、中国人の真似と称して、「◯◯アルヨ〜、アチョ〜!!」とか言ってましたよ。
でも、実際そんな風に喋ってる中国の人に会ったわけでもないし、あくまで勝手なイメージ。
それを見て、中国人が気分が良かったかはわからない。多分、なに言ってんだ?ってちょっと腹立たしかったんじゃないかな?
あとは、日本の侍とか戦国武将なども、海外のを見ると、どうしてそうなった???と思うこと多いよね。それも、まあ分かってないから、ってことだけど、ついつい「いやいやもうちょい勉強しましょうよ」と突っ込みたくなる。
こんな感じで考えていくと、音楽も譜面通りやれてるから良いじゃん?とか、かっこいいから良いじゃん?というのは、見る人がみたら(聞く人が聞けば)甚だおかしな、場合によってはバカにしてる?みたいになってる可能性も否定できない。
それは「下手だから」とかではないはず。
そういうことじゃなくて、「分かってない」っていう感じが、「なんだかなぁ」を生むのではないかな?
さりとて、100%ネイティブ的に理解できるか、100%情報を取り入れることができるか、って言ったら、もう一生がいくらあっても足りないに違いない。
そもそも自分のことだってよくわからないんだから、そんないろいろバッチリ理解できるはずなんてないわ。
でも、知ろうと努力していたり、知りたいと思っていたりする、その姿勢が大事なんじゃないかな?
知りたいんだー!!!!と一生懸命やってる人を見て、
それがたとえ10%しか分かってなかったとしても、その努力ってのは、何かに現れ、それがリスペクトとして伝わるんじゃないかと。
その国に対するリスペクト、
作曲者や作詞家に対するリスペクト、
文化に対するリスペクト、
歴史に対するリスペクト、
そういうものがあれば、たとえそれが完璧ではなくても、絶対に出てくるモノ(我らなら音楽)は違ってくるはず。
技術的には、なにも変わらないかもしれない。
でも表現的には、なにも変わらない、なんて言えるかなぁ?
今、「アメリカ黒人の歴史」を勉強してるわけだけど、少なくともゴスペルやブルースに対する見方は全く変わった。
あれをただの「スタイル」だと思ってたら、へーんな着物の着方してる何ちゃって日本人みたいな感じよね。
着てるモノは一緒だけど、そこに歴史やバックグラウンドがないから「キマらない」。
あー、日本人なのに歌舞伎とか茶道とか、そういうモノ、上っ面しか知らないなー。。。そういうのも、日本人としての「中身」だよね。。。詰めておきたいね。
そんなことを思いましたよん。
「知らない」ってことを見つめたくないって人もいるよね。そこに気づいたら、めっちゃ深くて自分が全然知らなかったことに気づくのが怖いから、見たくないっていうね。
それ、分かります。分かりますけど、それだと裸の王様だから、、、
一歩一歩しか進まないけど、進んでりゃーそのうち、「結構来たね」と思えてくるさー、と信じて進むのじゃー!!
そんなかんなで今日はおしまーい。
それではみなさん、まーた明日(*´∀`*)ノ″
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