越中は黒部川の中流、愛本橋へ行ってきました。
その少し手前にある黒部市歴史民俗資料館へ
入り口前にはこういうものも、
明治以降に架けられた鉄骨製の一部ですね。
ではいよいよ入ります。
江戸時代の愛本橋は、大変珍しい橋で、
日本三大奇矯と呼ばれていました。
ふむふむ
<ウィキより>
旧橋(刎橋)かつては全長61.42メートル 、幅3.62 mにも及ぶ刎橋であったため、山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋、山梨県大月市の桂川に架かる猿橋とともに日本三奇橋の1つといわれていた。
河道が移動する暴れ川であった黒部川下流部を避けて敷かれた旧北国街道の上街道に架かる橋で、加賀藩5代藩主・前田綱紀が架橋を命じたとされる。参勤路の難所である黒部四十八ヶ瀬を避けるために山沿いに新道を開いて黒部川に橋を渡して諸人の往来を容易にしようとしたが、家臣たちは領地防衛の要害地に橋を架けることに反対、綱紀ただひとりは「国の安危は得失にあり。山河の険阻によるべきにあらず。」と主張してこれを断行したといわれてる。
洪水時には大量の土石と水が集中し橋脚は流されてしまうために川の両岸から大木を突き出す構造の刎橋であった。
味方の本、щ(゚V゚щ) きゃきゃキャモ~ン!
三日市から泊まで間の二つのルートはこういう感じ。
一つは黒部川四十八瀬を渡る下往来(下街道)、もう一つは上流の愛本橋を通る上往来(上街道)です。
愛本橋は、
現在の橋より少し上流にありました。
なんじゃこりゃ
対岸に渡り謎の施設付近で、
洪水があったんだ。
愛本刎橋の痕跡を見つけたかったがわからなかった。
現在の愛本橋も美しいですね。
河原にやってきて黒部川を見ます。
黒部川は急流で有名ですよね。
はい今回はここまで。
メイン画面に戻る
その少し手前にある黒部市歴史民俗資料館へ
入り口前にはこういうものも、
明治以降に架けられた鉄骨製の一部ですね。
ではいよいよ入ります。
江戸時代の愛本橋は、大変珍しい橋で、
日本三大奇矯と呼ばれていました。
ふむふむ
<ウィキより>
旧橋(刎橋)かつては全長61.42メートル 、幅3.62 mにも及ぶ刎橋であったため、山口県岩国市の錦川に架かる錦帯橋、山梨県大月市の桂川に架かる猿橋とともに日本三奇橋の1つといわれていた。
河道が移動する暴れ川であった黒部川下流部を避けて敷かれた旧北国街道の上街道に架かる橋で、加賀藩5代藩主・前田綱紀が架橋を命じたとされる。参勤路の難所である黒部四十八ヶ瀬を避けるために山沿いに新道を開いて黒部川に橋を渡して諸人の往来を容易にしようとしたが、家臣たちは領地防衛の要害地に橋を架けることに反対、綱紀ただひとりは「国の安危は得失にあり。山河の険阻によるべきにあらず。」と主張してこれを断行したといわれてる。
洪水時には大量の土石と水が集中し橋脚は流されてしまうために川の両岸から大木を突き出す構造の刎橋であった。
味方の本、щ(゚V゚щ) きゃきゃキャモ~ン!
三日市から泊まで間の二つのルートはこういう感じ。
一つは黒部川四十八瀬を渡る下往来(下街道)、もう一つは上流の愛本橋を通る上往来(上街道)です。
愛本橋は、
現在の橋より少し上流にありました。
なんじゃこりゃ
対岸に渡り謎の施設付近で、
洪水があったんだ。
愛本刎橋の痕跡を見つけたかったがわからなかった。
現在の愛本橋も美しいですね。
河原にやってきて黒部川を見ます。
黒部川は急流で有名ですよね。
はい今回はここまで。
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