越前は今庄宿の先にある板取。
日野川の支流である孫谷川。
おっ説明板がある。
読めん・・・
ならば、
щ(゚V゚щ) くるっとキャモ~ン!
味方の本登場です。
越前国もそろそろ終わり、これより近江国へ向けて峠に登っていく途中にある集落です。
ここは板取でも下板取という場所。
少し進んで、
上板取に入ります。
石畳。
芽葺きの古民家が数軒ありました。
「越の国へようこそ」
国境から最初の集落ですからね。
それにしてもよく保存されています。
人もお住いのようです。
さらに進むと、板取関所跡。
ここ。
さて旧北国街道は通常このまま栃ノ木峠と向かうのですが、
ふもとの今庄宿で二つに分かれた木ノ芽峠経由で敦賀へ向かう方の旧街道に向かいます。
そこに行くには、この今庄365スキー場を越えていかねばなりません。
これを登るのです。
といっても車が通れる道がありますよ。(ほっ)
かなり急こう配の坂道を登り上がると、駐車場がありました。
周辺ウォークマップを見ます。
なるほど少し歩けば旧北国街道(旧北陸道)があります。
ここから歩きます。
脇に木の棒が何本か置いてあったので、一本取ります。
旧街道に出ました。
言奈地蔵堂があります。
この道も旧北国街道です。
味方の本によると、
奈良時代、今庄から敦賀までのルートは、標高389メートルの山中峠を経由するもの、
次いで平安時代に開設された標高628メートルの木ノ芽峠経由となったが、いずれも北陸と京を結ぶ北陸道の原形である。
柴田勝家によって、敦賀を経由せずに直接今庄から木之本へ繋ぐ標高593メートルの栃ノ木峠経由の北陸道が開設されると、以後メインルートとなったが、
江戸時代においても山中峠、木ノ芽峠経由も盛んに利用され、栃ノ木峠経由が東近江路、木ノ芽峠経由が西近江路とも呼ばれるようになった。
では木ノ芽を目指して進もう
昔のままの姿でしょうね。
視界が開けた。
向こうに峠がある。
見えてきたぞ。
木ノ芽峠。
峠の茶屋です。
ふむふむ。
中に人が居られるようでした。
石標があります。
明治天皇木ノ芽峠御小休所附御膳水。
明治天皇巡幸ではここで御休憩され、
このお水でお茶を飲まれたようです。
この峠、多くの方が行き来したんでしょうね。
松尾芭蕉も、
新保か、幕末に水戸の武田耕雲斎率いる天狗党もここを通ったわけですね。
さて木ノ芽峠をあとにして、もう一つの峠を目指します。
栃ノ木峠です。近江国に入りました。
橋の向こうが越前国です。
考えてみれば、古代ならばこれより向こうが越の国(越前、越中、越後)となります。
※ちなみに加賀・能登は越前に含まれていました。
なぜ北陸道と呼ばれたのか?
とある書籍に書いてありましたが、本来なら東海道と同じように北海道と呼ばれるべきだった、
古代の畿内人が国境よりあちらを見ても山深くのイメージが強く、海道というイメージができなかったとか・・・、
この峠の由来、樹齢500年の巨大なトチノキがあったから。
残念ながら令和元年に朽ちて切られたようです。
あれか!
たしかに大きい、直径2mくらいかな。
旧街道は、この急な傾斜を上り下りしていたようです。
はい今回はここまで。
メイン画面に戻る
日野川の支流である孫谷川。
おっ説明板がある。
読めん・・・
ならば、
щ(゚V゚щ) くるっとキャモ~ン!
味方の本登場です。
越前国もそろそろ終わり、これより近江国へ向けて峠に登っていく途中にある集落です。
ここは板取でも下板取という場所。
少し進んで、
上板取に入ります。
石畳。
芽葺きの古民家が数軒ありました。
「越の国へようこそ」
国境から最初の集落ですからね。
それにしてもよく保存されています。
人もお住いのようです。
さらに進むと、板取関所跡。
ここ。
さて旧北国街道は通常このまま栃ノ木峠と向かうのですが、
ふもとの今庄宿で二つに分かれた木ノ芽峠経由で敦賀へ向かう方の旧街道に向かいます。
そこに行くには、この今庄365スキー場を越えていかねばなりません。
これを登るのです。
といっても車が通れる道がありますよ。(ほっ)
かなり急こう配の坂道を登り上がると、駐車場がありました。
周辺ウォークマップを見ます。
なるほど少し歩けば旧北国街道(旧北陸道)があります。
ここから歩きます。
脇に木の棒が何本か置いてあったので、一本取ります。
旧街道に出ました。
言奈地蔵堂があります。
この道も旧北国街道です。
味方の本によると、
奈良時代、今庄から敦賀までのルートは、標高389メートルの山中峠を経由するもの、
次いで平安時代に開設された標高628メートルの木ノ芽峠経由となったが、いずれも北陸と京を結ぶ北陸道の原形である。
柴田勝家によって、敦賀を経由せずに直接今庄から木之本へ繋ぐ標高593メートルの栃ノ木峠経由の北陸道が開設されると、以後メインルートとなったが、
江戸時代においても山中峠、木ノ芽峠経由も盛んに利用され、栃ノ木峠経由が東近江路、木ノ芽峠経由が西近江路とも呼ばれるようになった。
では木ノ芽を目指して進もう
昔のままの姿でしょうね。
視界が開けた。
向こうに峠がある。
見えてきたぞ。
木ノ芽峠。
峠の茶屋です。
ふむふむ。
中に人が居られるようでした。
石標があります。
明治天皇木ノ芽峠御小休所附御膳水。
明治天皇巡幸ではここで御休憩され、
このお水でお茶を飲まれたようです。
この峠、多くの方が行き来したんでしょうね。
松尾芭蕉も、
新保か、幕末に水戸の武田耕雲斎率いる天狗党もここを通ったわけですね。
さて木ノ芽峠をあとにして、もう一つの峠を目指します。
栃ノ木峠です。近江国に入りました。
橋の向こうが越前国です。
考えてみれば、古代ならばこれより向こうが越の国(越前、越中、越後)となります。
※ちなみに加賀・能登は越前に含まれていました。
なぜ北陸道と呼ばれたのか?
とある書籍に書いてありましたが、本来なら東海道と同じように北海道と呼ばれるべきだった、
古代の畿内人が国境よりあちらを見ても山深くのイメージが強く、海道というイメージができなかったとか・・・、
この峠の由来、樹齢500年の巨大なトチノキがあったから。
残念ながら令和元年に朽ちて切られたようです。
あれか!
たしかに大きい、直径2mくらいかな。
旧街道は、この急な傾斜を上り下りしていたようです。
はい今回はここまで。
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