以前に福岡のテンプル大学の講座でパトリック・ローゼンキャー先生(http://www.tuj.ac.jp/newsite/main/undergrad/about_tuj/faculty/patrick_rosenkjarj.html)によるワークショップに参加したことがある。
講座のテーマは、英語教育の中に文学をいかに活かすか。当時の私は、むしろ文学を素材として使うことには反対であった。文学特有の細かなニュアンスや独特の語彙が生徒には重荷になりすぎると考えていたからだ。
最初のうちはやや気後れもしていた。参加者のほとんどがネイティブ・スピーカーだったから。ところが、ワークショップが進むにつれ、どっぷりとローゼンキャー・ワールドに引き込まれていった。そして、ここで学んでいることが自分の授業に大きな変化をもたらすだろうということを確信したのである。
中でも、特に印象的であった場面がある。それは、文学的であるテクストと文学的でないテクストにはどのような違いがあるかという発問を受けたときである。
参加者は、小説や詩などを文学的であるとし電話帳やマニュアルなどを文学的な要素がないと答えた。中には漫画などのように意見が分かれるものもあった。ローゼンキャー先生による種明かしは次のようなものである。
「言い換えても価値がかわらないものは文学的でない。言い換えてしまうと価値が失われるものが文学的である」
例えば、「ロミオとジュリエット」を粗筋で読んで「ロミオとジュリエット」を読んだことにはならない。これに限らず、何であれ小説の粗筋を掴むことと小説を読むことは、けっして同義ではない。
プロットが重要ではないとは言わないが、文学に価値を与えているのは、そこで使われる言葉であり表現であるはずだ。一つのことを書き表すのに書き手は、慎重かつ積極的に「言葉」を選び、その一つ一つに思いを込めているのだ。
「言葉」を教えることを仕事としている私たちが、書き手が言葉に注入したエネルギーをそぎ落とし、骨組みだけをえぐり取るような文章の読み方を奨励してもよいのだろうか。それにより、本物の学力は身に付くのだろうか。
竹岡先生の指摘されるとおり、今のセンター試験では大量の英文を素早く掬い読みする力のみが問われている。国レベルの試験でこのような出題がなされるとき、全国の高校へのバックウォッシュは本当に望ましいものになるのか疑問である。
講座のテーマは、英語教育の中に文学をいかに活かすか。当時の私は、むしろ文学を素材として使うことには反対であった。文学特有の細かなニュアンスや独特の語彙が生徒には重荷になりすぎると考えていたからだ。
最初のうちはやや気後れもしていた。参加者のほとんどがネイティブ・スピーカーだったから。ところが、ワークショップが進むにつれ、どっぷりとローゼンキャー・ワールドに引き込まれていった。そして、ここで学んでいることが自分の授業に大きな変化をもたらすだろうということを確信したのである。
中でも、特に印象的であった場面がある。それは、文学的であるテクストと文学的でないテクストにはどのような違いがあるかという発問を受けたときである。
参加者は、小説や詩などを文学的であるとし電話帳やマニュアルなどを文学的な要素がないと答えた。中には漫画などのように意見が分かれるものもあった。ローゼンキャー先生による種明かしは次のようなものである。
「言い換えても価値がかわらないものは文学的でない。言い換えてしまうと価値が失われるものが文学的である」
例えば、「ロミオとジュリエット」を粗筋で読んで「ロミオとジュリエット」を読んだことにはならない。これに限らず、何であれ小説の粗筋を掴むことと小説を読むことは、けっして同義ではない。
プロットが重要ではないとは言わないが、文学に価値を与えているのは、そこで使われる言葉であり表現であるはずだ。一つのことを書き表すのに書き手は、慎重かつ積極的に「言葉」を選び、その一つ一つに思いを込めているのだ。
「言葉」を教えることを仕事としている私たちが、書き手が言葉に注入したエネルギーをそぎ落とし、骨組みだけをえぐり取るような文章の読み方を奨励してもよいのだろうか。それにより、本物の学力は身に付くのだろうか。
竹岡先生の指摘されるとおり、今のセンター試験では大量の英文を素早く掬い読みする力のみが問われている。国レベルの試験でこのような出題がなされるとき、全国の高校へのバックウォッシュは本当に望ましいものになるのか疑問である。