「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

英語教育と文学

2008-09-15 00:56:48 | 授業
以前に福岡のテンプル大学の講座でパトリック・ローゼンキャー先生(http://www.tuj.ac.jp/newsite/main/undergrad/about_tuj/faculty/patrick_rosenkjarj.html)によるワークショップに参加したことがある。

講座のテーマは、英語教育の中に文学をいかに活かすか。当時の私は、むしろ文学を素材として使うことには反対であった。文学特有の細かなニュアンスや独特の語彙が生徒には重荷になりすぎると考えていたからだ。

最初のうちはやや気後れもしていた。参加者のほとんどがネイティブ・スピーカーだったから。ところが、ワークショップが進むにつれ、どっぷりとローゼンキャー・ワールドに引き込まれていった。そして、ここで学んでいることが自分の授業に大きな変化をもたらすだろうということを確信したのである。

中でも、特に印象的であった場面がある。それは、文学的であるテクストと文学的でないテクストにはどのような違いがあるかという発問を受けたときである。

参加者は、小説や詩などを文学的であるとし電話帳やマニュアルなどを文学的な要素がないと答えた。中には漫画などのように意見が分かれるものもあった。ローゼンキャー先生による種明かしは次のようなものである。

「言い換えても価値がかわらないものは文学的でない。言い換えてしまうと価値が失われるものが文学的である」

例えば、「ロミオとジュリエット」を粗筋で読んで「ロミオとジュリエット」を読んだことにはならない。これに限らず、何であれ小説の粗筋を掴むことと小説を読むことは、けっして同義ではない。

プロットが重要ではないとは言わないが、文学に価値を与えているのは、そこで使われる言葉であり表現であるはずだ。一つのことを書き表すのに書き手は、慎重かつ積極的に「言葉」を選び、その一つ一つに思いを込めているのだ。

「言葉」を教えることを仕事としている私たちが、書き手が言葉に注入したエネルギーをそぎ落とし、骨組みだけをえぐり取るような文章の読み方を奨励してもよいのだろうか。それにより、本物の学力は身に付くのだろうか。

竹岡先生の指摘されるとおり、今のセンター試験では大量の英文を素早く掬い読みする力のみが問われている。国レベルの試験でこのような出題がなされるとき、全国の高校へのバックウォッシュは本当に望ましいものになるのか疑問である。

国語教育に学ぶ

2008-09-12 19:00:58 | 授業
ベネッセ社の高校向け進路情報誌VIEW21の記事が目を引いた。『「読む」ことの意味に気付き、本当の授業を知った』静岡は磐田南高校の渥美健先生による記事である。先生のご担当は国語だが、記事の内容には共感するところが大きかった。記事は以下のサイトでも読むことができる。

http://benesse.jp/berd/center/open/kou/view21/2008/09/01jidai_01.html

「我々が身に付けさせたい国語の力は、授業の内容を覚えて、定期テストで点数を取る力ではない。初めて見た文章を自分の力で読み取る力だ、と。確かにそれまでの私は、定期テストはできても模試になると点数が取れない生徒をどう指導すればよいか、答えを見つけることができていませんでした。生徒の中には「国語は勉強をしても学力は伸びない」と諦めている者もいました。今思えば当然です。それまでの私の授業は、教科書や指導書に頼ったもので、生徒に考えさせるものではなかったのですから。寺田先生と出会ってから、文章を通して人間を読み、考えるという、いわば生きるために必要な力を養う時間が、国語の授業だと考えるようになったのです。」

「定期テストでも応用問題を出題しました。例えば、『徒然草』なら授業とは別の章段を出題するわけです。授業でもテストでも、とにかく生徒に考えさせたのです。1年生の時から一緒に鍛えた学年は、記述模試で県で2番の成績になりました。生徒も手応えを感じていたでしょう。文章に向き合う機会を与えれば、こんなに読めるのか…本当に驚きでした。」

読むという行為はけっして受動的な活動ではなく、能動的で想像的な活動であるはずだ。英文をデコードするような英文和訳が好ましくないのは、文に積極的に関わっていくという読解の本質的な部分が排除されているからだろう。

テキストを深く掘り下げ理解するための仕掛けを授業に組み込めば、知的好奇心が刺激され生徒の意欲関心は深まる。ドリルや暗記に必要以上の力を注ぎ込まなくても自然と実力はついてくるのではないか。

言葉の力をつけるという意味では国語も英語も本質的に同じはずである。読解力の育成に限らず国語教育の優れた実践例から学ぶ余地は十分にある。

Feeling Dirty 木村達哉先生の英語教師塾 in Kobe (その3)

2008-08-29 17:32:30 | 授業
シリーズ第三回目は要約の課題から。要約に関しては個人的にあまり嬉しくない思い出があり、苦手と言うより嫌いな問題パターンだ。まあ、それはともかく、要約は受験指導では避けて通れないところであり、他の先生方の授業を見学できるのは有り難いことである。また、木村先生から要約技術に関する素晴らしいアイディアを頂いたことはすでに記した。

しかし、個人的には今の主たる関心事は読解の深み。要約のために取捨選択をかけながら読むという技術の必要性は深く認識しつつ、敢えて要約課題を使って読みの深さについて述べてみたい。というわけで要約技術論は先延ばし。

以下のパッセージは、ちょっと面白い趣旨の温暖化に関する論説文の結びの部分である(一部リライト)。その前に簡単に前半の内容を紹介する。

「温暖化については実は正確に分かっていないことが多い。また、新しい科学的な報告からすると、温暖化のスピードやその大きな被害の現実化は初期の予想よりも遅れそうだ。もしそうであれば、代償、危険度、効果などを冷静に見極めて温暖化対策を講じるべきだ」

これに続いて、

If global warming is really happening, but it won't bring imminent disasters, a gradual approach is worth considering. (中略) A gradual approach also makes it cheaper to exchange dirty technologies with cleaner ones. It costs much more to close down a coal plant earlier than planned than to replace it with something cleaner at the end of its useful life.

この文章の中で面白いと思うのはdirty - clean と、coal plant。 dirty - cleanはもちろん単に汚い、清潔のレベルではない。

dirty = 地球温暖化を加速する(温暖化ガスを多く発生する)
clean = 地球温暖化をあまり加速させない(温暖化ガスをあまり発生しない) 

さらに、coal plantがより"clean"なものに取って代わられなければならない対象であることを考えれば、おそらくこれは「石炭工場」ではなく「(石炭を用いる)火力発電」であろうという論理的な推測が可能になる。さらに、それに対してsomething cleanerは「水力、風力、太陽熱などの発電」であろうと思いを巡らせ、この範疇に原子力を入れるのは可能だろうかなどと考えることにもつながっていくだろう。

読む力をしっかりつけるためには、このように批判的視点を持ったり発想を広げたりして考えながら読むことが必要なのではないか。辞書を使いながら、文(章)構造を解析するという従来型の学習だけでは越えられない壁が存在するのである。ちなみにdirty - clean、coal plantについて上記のような意味を手元の辞書に見つけることはできない。

夏休み前の授業から

2008-07-26 11:15:02 | 授業
勤務校では本日から夏休み。しかし、土曜の今日も課外はあり。

夏休み前の授業では進度をやや緩めて投げ込みの教材も使ってみた。短いパッセージを正確に読む類のもの。長い文を読むのはスピードや文脈の意識が高めやすいという利点がある。だが、それとは別に精密に読む訓練もしなければ思わぬところで足を掬われるだろう。

伝統的な手法で授業を流すことはせず、まずは個人でじっくり考えさせた後、グループワークで相互確認。こうすることで生徒は主体的に取り組むようになる。真剣に取り組まないと友人が迷惑するから。グループワークやペアワークをコミュニケーション活動に限定するのはもったいないことだ。

そんな中で多くの生徒が「足を掬われた」パッセージを一つ。

With clocks having become so accurate, do we know what time is? David Allen, of "the National Institute of Standards and Technology, believes that clocks are very limited devices. The past, he says does not exist except in our memory; nor the future, except in our expectations "The most a clock gives is the time an instant ago, not even the time now." (中央大学)

誤解が目立ったのは、what time isをwhat time it isと解したものとthe most a clock gives を「時計が与えるほとんどのこと」などと解したもの。特に後者のような文で「できるのはせいぜいこの程度」という否定的なニュアンスが感じられないとより大きな誤解につながりそうだ。

その一方で、意外かもしれないがnor以下は意味の推測が容易であるからか誤解は少なかった。生徒にとって本当に難しいのは、複雑な構文ではなく抽象的概念のinterpretationなのだろう。抽象的な題材を平易な言葉で綴った文、例えば年少者向けの哲学入門書などを読ませると良い訓練になるのかもしれない。

書いてないことを読み取る力2(「リーディング授業より」その3)

2008-07-21 09:56:44 | 授業
コメントの欄にも書いたが、tensionにせよwhat happened or how the boys feel about it にせよ、実は生徒の反応はあまり良くない。授業評価で要望を書いてもらうと、「授業中に構文の分析をもっとやって欲しいという」記述が散見される。この辺の壁を越えないとこちらの意図も十分に伝わらないのであろう。

前回の書き込みのような質問を授業中に問いかけたときの反応例。
起こったこと → 転けて膝をすりむいた。
男の子がどう感じたか → 痛い、辛い。泣いて親の元にやってきたから。

本文の解釈がこの程度に留まっていては次に続くsend them back into the fightの、"the fight" が何のことだかさっぱり分からないはずだ。語彙レベルが高いとか背景知識が必要とか特殊な言い回しとかではなくて、英文の解釈が難しくなるのはこのようなケースだろうから、これを貴重な機会だと認識してしっかり考え思いを巡らせる訓練が必要だ。つまり、想像力も鍛えなければ育たないのだ。

当然のことながら、正しい解釈は、
起こったこと → ケンカで相手にやられた。
男の子がどう感じたか → 親に慰めて欲しい。

こう考えることによって、男の子に「強さ」と「平静さ」を求める親の姿勢がより鮮明になる。蛇足ながら、Mommy (Daddy) はmom (dad) の幼児語であり、(   ) に入るのは当然 girl である。

授業ではこれらに加え例によって受験には直接役に立たないであろう関連語の紹介。しかし、今回のsissyはちょっと悪のりがすぎたかもしれない。

書いてないことを読み取る力(「リーディング授業より」その2)

2008-07-20 05:40:20 | 授業
受験英語の範疇では様々な暗黙の了解が存在するようだ。その一つは「いわゆる長文問題の問いに日本語で答える場合になるべく本文中の表現を訳した形で答えよ」というもの。

不要な失点を抑えるためにはそのように教えることも必要なのだろうが、次の文章に対して以下のような問いかけをするのはどうだろうか。

1) [   ]内の記述に関して何が起こって、男の子はどう感じたと考えるのが妥当か。
2) "mom"と"Mommy"、あるいは"dad"と"Daddy"の間にどのようなニュアンスの違いがあると考えられるか。
3) (    )にはどのような言葉を入れるのが適当か。

 Contradictions and confusions about masculinity are abundant in our culture, the experts agree. For example, we remove toy guns and tell little boys they must not embrace violence. Then we watch them use twigs, rulers and pencils as weapon replacements. “Boys will be boys,” we say to each other, unsure what to do next.
 Parents and teachers shame boys into following the old and now useless idea of masculinity. Boys are taught not to cry, to hide their emotions and their hurts, and to stand on their own two feet ― to be strong and silent and tough.
 Thousands of tiny incidents occur every day, without parents ever realizing what they are doing. When little boys scrape their knees and come to their parents crying, for example, moms and dads tend to brush off the dirt and send them back into the fight without discussing [ what happened or how the boys feel about it ]. “Big boys don't cry,” or the ever popular “You're crying just like a (     )” are common phrases used by parents to get boys to be “manly.” Little girls with scraped knees are usually encouraged to linger for a while, to “tell Mommy (or Daddy) what happened.” Early in life, many boys stop trying to express their feelings and emotions.

(2002年度の 東京都立大(現首都大東京)の長文素材です)

リーディング授業より

2008-07-19 07:37:18 | 授業
以前にも書いたように、想像力を使って読むことを重視している。そして、その力を鍛えるためにはそれなりの教材が必要だとも述べた。しかしながら、学校で教えるときは常にチームプレーであり、教材を自由に選ぶことは出来ない。それでも、いわゆる普通の教材を使うときも、読解に想像力を活かすための指導の工夫はできる。

よくある手では、
「先に何が書かれているか論理的に推測しながら読むこと」
「未知語が出てきたら前後関係から意味を推測すること」
「文章がどのように構成されているかに注意を払うこと」
などがあるがさらに、
「既知語が未知の意味で使われている可能性を論理性の矛盾を検証して確認すること」
なども大切だ。授業で面白い例に出会したので紹介したい。本文の一部は省略してある。

……… , the Japanese, at least since the Meiji period, always seem to have been thinking about their identity. Is Japan part of the West or part of Asia? Is Japan a backward country, a modern country or a post-modern country? Is modernisation the same as Westernisation? Should the Japanese stay true to their traditions or should they aim to invent a new kind of society? At the heart of these worries, I think, we find an interesting tension. On the one hand, the Japanese have been very anxious to 'catch up' with the wealthier countries of Europe and the United States. This has stimulated an immense interest in all aspects of those countries and a determined effort on the part of the Japanese to master and absorb the cultures of those countries. This is obviously true in the areas of science, industry, technology, medicine and scholarship, but it has also been the case in music, literature, art, fashion and other purely cultural fields.
 On the other hand, at the same time they have been struggling to absorb and keep up-to-date with European and American culture, the Japanese have been very anxious to insist upon their difference from the West. ……

2002年の宮崎大学の入試から。筆者の言う"an interesting tension"について本文に沿って説明せよという問題である。これに対する某社の解答例を引く。
  「西洋文明を吸収し列強に追いつけという方向と、日本らしさを守れという相反する方向が緊張関係にあった」
また、該当箇所を含む一文を、別の社の訳例で見てみる。
  「これらの悩みの中心には、ある興味深い緊張を見いだせると思う」
どちらもtensionを「緊張」と訳出している。

大辞林で「緊張」を調べると、
1 心やからだが引き締まること。慣れない物事などに直面して、心が張りつめてからだがかたくなること。「―をほぐす」「―した面もち」
2 相互の関係が悪くなり、争いの起こりそうな状態であること。「―が高まる」「―する国際情勢」
3 生理学で、筋肉や腱(けん)が一定の収縮状態を持続していること。
4 心理学で、ある行動への準備や、これから起こる現象・状況などを待ち受ける心の状態。

解答例でいう「緊張」とはいったいどの範疇にはいるのか。一番近いのは2だろうが、もしそう捉えるなら、日本の社会の中で西洋化を志向する者と保守的な者の間で争いが起こりそうだったという解釈になってしまう。

ところが、Oxford Advanced Learner's Dictionaryでtensionを調べてみると、
"a relationship between ideas or qualities with conflicting demands or implications" とある。
さらに、Longmanでは、"a situation in which different needs, forces or influences pull in different directions and make the situation difficult"とある。

本文中のtensionはこれらの英英辞典の定義の意味で使われており、本文に沿って日本語訳を与えるとすれば、「互いに矛盾する二つの思い」、「二つの対立的な感情」などといった言葉が考えられる。

tensionという言葉が持つ「対立的なニュアンス」をこの文章から感じとるのは難しいことではない。an interesting tensionに続くon the one hand …の部分と、on the other hand 以下の関係を見れば明らかだ。さらに、この文章の後半でも、日本人は近代以降、西洋へのあこがれと独自の文化を保持したいという気持の両方を持ちつつここまできたのだと締めくくられるのである。

「緊張」という言葉を用いた2つの出版社を批判しているわけではない。突き詰めて聞けば、おそらく久保野先生がよくお話しになる東大の「眉毛をつり上げて」に関する予備校の回答と同じような説明を受けることになるのだろうと思う。

私が指摘したいのは、tension =「緊張」といった思いこみが足枷となり、作者の主張する論点がぼやけ読解が深まらない危険性があるのではないかということだ。逆に「対立」という言葉を意識して、後半を読めば作者が何を言いたいのかすっと理解できる。(興味のある方は宮崎大学の問題を御覧ください)

本当に問題にしなければならないのは、我々教える側が、tensionに「緊張」以外の訳を許容する柔軟さがあるかどうかだ。

授業はambivalentという言葉を紹介して締め。要するに、どんな場合においても異文化に接触する際には程度の差こそあれアンビバレンスは不可避なのだ。スターウォーズがお好きな方にはおそらく納得してもらえるのではないだろうか。



授業手順

2008-05-31 11:51:35 | 授業
前回、訳に関する授業手順について述べたので、その他についても纏めておきたい。

まず、ハンドアウトについて。予習用と授業用の2種類の教材を用意している。どちらもB4横書きで裏表印刷。予習ハンドアウトはチャンクごとに全文を訳す課題に加えて、文法・語法、内容的なポイントを確認させる課題。

授業用ハンドアウトは表が左に全文、右にはパラグラフごとの概要を日本語でまとめたもの。ところどころ穴が抜いてある。裏面は左半分に穴埋め音読用に穴が開いた全文。右半分は重要な表現をチャンクで抜き出したものとその日本語訳。真ん中で仕切って左に英語、右に日本語が載っている。

最初の活動はリスニング+黙読による概要把握。授業ハンドアウト表面を用いて。パラグラフごとにCDを流し、穴を適語で埋め概要を完成。

次は予習ハンドアウトの文法・語法、内容的ポイントの確認など。内容的なポイントの確認では「書かれていないことを読む力」を問う発問をいつも探している。

続いて、授業用ハンドアウト裏面左の重要表現集を音読。音読は1つの表現につき2回ずつ読んで1ラウンド、2ラウンド目は日本語訳のみを見て指導者の発音に続いて2回読み、3ラウンド目はペアワークで日本語→英語というもの。

このあとに例の和訳自己添削が入り、その後は時間の許す限り音読三昧。当然のことながら音読はRead & Look upやスピード・リーディング、オーバーラッピング、シャドーイング、穴埋め音読など手を変え品を変えて飽きないように。その他には金谷先生のLSDなどをやることも。

時間が十分にないのでかなり端折った手順になるが、それでも生徒の多くがよくこちらの意図を理解してくれていると思う。音読をしたいのだが人の邪魔にならずに音読できる場所が学校にはないだろうかという相談を試験週間に受けたときには感心した。

当たり前のことを当たり前にしない

2008-05-31 10:45:14 | 授業
これを言うと意外だという反応を受けることが多いのだが、授業の予習として全訳を課している。ただし、授業の流れはいわゆる訳読式ではない。

あらかじめ全文をチャンクで切ったものを縦に並べ、その右に訳が書き込めるような予習ハンドアウトを渡している。いわゆるコラムナー・リーディングに近いが、センタリングするスペースの余裕はないのでコラムナーもどきである。当然、前から訳す方式になり、「よい」と認める「訳」の範囲も大きい。

これを課すことによる狙いはいくつかある。一つは辞書を使う腕前を上げること。B社の調査では、いわゆる偏差値の高い子は辞書の使い方が上手いというデータがはっきりと出ている。全文訳を課すと辞書を引く回数は当然上がる。それにより検索スピードや辞書を効果的に使う能力を上げることを目論んでいる。

もう一つは初見の英文に強くなること。斉藤栄二先生は訳の負担を減らし、浮いた時間や労力を音読や暗写などに回してインテイクの効率化を図る手法をよく提唱しておられるが、この方法だけでは初見の英文に対する対処力はあがらないというのが今の私の考え方。もっとも、斉藤先生もそのあたりは十分ご承知で、各校の実情にあわせてアレンジして使ってくださいと仰っている。

さらに、全文訳を頻繁に行うことによって作業スピードが上がることも期待している。予習ハンドアウトは私がやっても30分近くかかる。生徒は辞書を引きながら、止まって考えながらなのでそれ以上かかるだろう。他教科の予習・復習などもあるので英語にやたら時間をかけるわけにもいかない。当然、スピードを意識した学習ができることになる。

授業では予習ができている子にのみに私の訳例を渡して自己添削。机間巡視して一人一人に手渡ししているが、配布にかかる時間も2,3分でたいした労力ではない。約15分で生徒は自己添削を終え、そのあとに訳例はすべて回収し手元に残らないようにしている。訳にかける時間は長くても20分くらいである。

いわゆる訳読式授業の一番の問題点は訳そのものではないのではと考える。良くないのは、一人の生徒を指名し訳を言わせて、訂正し、解説するといった授業スタイルだ。指名された生徒はそのときは密度の濃い学習ができようが、それ以外の生徒が効率的に学んでいるという保証はない。しかも、予習をしていなくても運良く(悪く?)指名されなければ、なんのお咎めもなく授業時間をやり過ごせるのである。

生徒の力を考慮してできそうな問題をできそうな子に与えるというのはある意味最低ではないか。指名して答えさせ、訂正・評価して解説を加えるといった当たり前の授業手順にこそ落とし穴があるのではないだろうか。

有意な差の有意さ

2008-02-26 23:57:30 | 授業
研究論文や発表の締めに欠かせないのは「有意な差」という言葉である。教育実践に関して仮説を立て、その正しさを証明すべく比較実験を行う。統制群との差を数値化して明示し、有意な差が出たとして仮説は正しいと結論づけるわけである。

この手法自体に異論を唱えるつもりはない。自説に信憑性を持たせる有効な方法である。問題はそれを受け止める側がどう捉えるかだ。有意な差はその差が出たコンテキストの中で有意なのであり、そこには必ずしも普遍性があるとは限らない。


ここ数年、音読やシャドーイングなどの活動の注目度が非常に高い。このブログでも何度か述べているように、自分のスタンスとしては、こういった活動の有用性は認めるが、そこに万能薬の効果を望むのは誤りだと考えている。私の目には今の状況はファナティックと呼ぶべきものに近いのではと思われてならない。

昨年、ある英語教師の集まりで(いつものように)音読活動に傾倒することの危険性を訴えた。参加者から積極的な賛成意見はほとんどなく、会合の締めにはお目付役の指導主事さんからも音読は先行研究からその有意性が実証されていると言われてしまった。

私自身、授業の大きな部分で音読的活動を使っていて、音読を排除しようとしているわけではない。言いたかったのは音読活動だけに頼り切って本当に良いのだろうかということだ。


英語教育の過去を振り返るといくつかの「流行」が確認できる。そして当然のごとく、それら流行の引き金となる研究は「有意な差」という言葉で締めくくられている。しかし、いつの場合も振り子は揺れ続け「流行」はいつしか廃れてしまっているのではないか。

我々現場の実践者が、某かの権威によって引き起こされる「流行」を鵜呑みにし、自分の頭の中で咀嚼するという行程を経ずに、そっくりそのまま指導に導入しているとすれば危険なことこの上ない。不具合が出たとき最終的に被害を受けるのは生徒なのだから。

上手くいっていると実感できるのならまだ良いのかもしれない。しかし、機能していないのが見えていながら、根拠がある(はずの)指導手順だからという理由で見直しの対象から外されているとすれば、なんと不幸なことであろう。

以前に聞いたSandra McKay先生の「権威を鵜呑みにするな」という言葉が思い出される。

むろん、この言葉を引くのも自己矛盾ではあるが・・・。