「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

The Chaser

2010-11-06 14:16:06 | その他
10年以上前にサンフランシスコに近いデービスで海外研修に参加していた。研修場所はUCデービスの語学研修所で、一般の留学生に混じって学んでいた。そのときのライティングの授業で、診断テスト代わりに読まされた短編小説が以下である。

http://members.accessus.net/~bradley/thechaser.html

読解のポイントとなる次のような問いが宿題として課された。
「glove cleanerとは何か」
「この話しのあと、どのようなことが起こると想像されるか、」
「Au revoirとはどういう意味か」

なかなか面白い話なので、ちょっと意地悪かなとは思いつつ、これを当時お世話になっていたホームステイ先の奥さんと、案内役の学生に読んでもらった。もちろん、問いについてどう思うかも尋ねた。案の定、二人のどちらからも正しく理解できているような反応はえられなかったのである。

ちなみに、奥さんは養護学校の先生、学生は英語モノリンガルのUCデービスの学生だ。

適切な表現ではないかもしれないが、この事実は「言語を表面的に運用する力」と「ことばの奧にある意味を見抜く力」は別物であることを示していると考えられないだろうか。つまり、母語の運用力に何ら問題のないネイティブスピーカーでも、「ことば」の力は不足しているということがありえるのではということである。

オールイングリッシュやドリル中心の授業で、生徒の側から上のような深い文章を読み解く力を引き出すことは可能なのだろうか。以前、横浜で金谷先生にお聞きしたのは、まさにこの点である。そして、そのときにいただいたのが、「そこを追究すると日本語の勉強になってしまう」というお答えだ。

私もそのとおりだと思う。しかし、だからこそ「母語を生かした外国語教育」という発想が必要なのではないだろうか。なぜなら、そこが言語の芯にある「エッセンス」であり、それを抜かしたことばに命はないからである。 そこに迫るために、知識やドリルが必要だという筋がなければ、たとえどんな力が付けられたとしても、それは空しい張りぼてではないか。

この世界では、「ネイティブチェック済み」という三文判のみで、為されるべき検証が為されず、指導者側の思考も停止してしまうということが起きがちである。オールイングリッシュやドリル偏重傾向が、それを加速させてしまう結果をもたらすことにはならないか心配するのである。

にほんブログ村 教育ブログ 英語科教育へ