年金削減廃止老いも、若者も安心して暮らせる世の中にみんなで声をあげれば世の中変わる

消費税5%に、自・公政権退場、核兵器廃止・自然・再生エネルギーで原発ゼロへ・憲法9条コワスナ。

処分場候補地周辺の事業許可制に 栃木・塩谷町が条例可決

2014-09-19 20:28:34 | 政治

転載

処分場候補地周辺の事業許可制に 栃木・塩谷町が条例可決

科学・環境2014/09/19 17:08【共同通信】

<iframe id="aswift_0" name="aswift_0" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" width="320" height="100"></iframe>

 東京電力福島第1原発事故で発生した放射性物質を含む指定廃棄物の最終処分場建設をめぐり、栃木県内の候補地に選ばれた塩谷町は19日、臨時町議会を開き、候補地の国有林を含む周辺一帯での廃棄物処理などの事業活動を、町の許可制にする保全条例案を全会一致で可決した。

 町は自然環境への影響が懸念されるとして最終処分場に反対しており、対抗する狙いがある。

 条例は、候補地近くにある尚仁沢湧水などを保護するため、町が今後指定する保全地域で廃棄物処理や採石業、ゴルフ場などの事業を始めたり、関連施設を建設したりする際は町の許可が必要と定めている。


福島原発事故:1週間後にも放射性雲 東北、関東へ拡散

2014-09-19 18:40:23 | 原発

毎日新聞より転載

福島原発事故:1週間後にも放射性雲 東北、関東へ拡散

毎日新聞 2014年09月05日 15時00分(最終更新 09月05日 19時28分)

原発事故後2回の放射性プルーム拡散
原発事故後2回の放射性プルーム拡散
 
2011年3月15日に撮影された東京電力福島第1原発3号機=東電提供
2011年3月15日に撮影された東京電力福島第1原発3号機=東電提供

 東京電力福島第1原発事故後、上空に巻き上げられた放射性物質の雲状の塊「放射性プルーム(放射性雲)」が、これまで知られていた2011年3月15~16日に加え、約1週間後の20~21日にも、東北・関東地方に拡散していく状況が、原子力規制庁と環境省による大気汚染監視装置のデータ分析から裏付けられた。1回目の放射性雲の影響で高くなった空間線量に隠れて、2回目の放射性雲が見逃されていた地域もあった。専門家は「データは住民の初期被ばく量を正確に見積もるのに役立つ」とみている。

 放射性雲の拡散はこれまで、「緊急時迅速放射能影響予測システム」(SPEEDI)を使ったコンピューター計算に各地の空間線量や航空機による観測データを突き合わせて推定してきた。

 今回、環境省が各都道府県に設置している自動車の排ガスなどを常時監視する装置に着目。東京大大気海洋研究所や首都大学東京などに依頼し、大気中に浮遊するちりを1時間ごとに捕まえたろ紙を9都県約90カ所の測定局から回収して、3月12~23日分の放射性物質濃度を調べた。

 その結果、福島市の一つの測定局では15日夜、放射性セシウム137と134の濃度が1立方メートルあたり最大計45.5ベクレルを計測した。16~19日も、原発から放射性雲が出続けていた考えられるが、西風で太平洋側に運ばれたため、大気中濃度は上がらなかったらしい。その後、風向きが変わり、20日午後3時に同計104.1ベクレルに高まり、その状況は21日朝まで続いた。

 雨が降った15日は放射性物質が地表や家屋に沈着し、空間線量が1時間あたり20マイクロシーベルト程度まで急上昇したため、放射性雲が飛来したことが広く知られているが、雨が降らなかった20~21日は、既に高くなっていた空間線量計の値が目立って上昇しなかったため、放射性雲が見過ごされてきたと考えられる。

 関東地方では、15日と21日の2回、帯状に高濃度の放射性雲の拡散が確かめられた。特に21日朝は茨城県南部や千葉県北東部で放射性セシウム濃度が急上昇。その後、東京湾北東沿岸部へと南西に移動した。その間、雨で沈着し、各地で「ホットスポット」と呼ばれる局地的に線量の高い場所を作ったとみられる。

 


世界初の発電成功 アンモニアを燃焼 産総研と東北大が共同研究

2014-09-19 10:47:30 | 日記

福島民報より転載

世界初の発電成功 アンモニアを燃焼 産総研と東北大が共同研究

 

 産業技術総合研究所(産総研)再生可能エネルギー研究センター(郡山市)と東北大は、共同研究を進めていた水素を燃料とした発電技術で、灯油にアンモニアを混ぜて燃焼させる発電に成功した。産総研が18日、発表した。世界初という。 
 産総研によると、アンモニアは一般の燃料に比べ着火しにくく、燃焼速度も遅い。研究では液体と気体を供給できる燃焼器を試作し、はじめに灯油だけを燃焼させてガスタービン発電する。発電が安定した後に、窒素とアンモニアの混合ガスを加えて、少しずつアンモニアの比率を上げた。最終的には灯油の30%相当をアンモニアに置き換えて、21キロワットの発電ができた。 
 アンモニアは燃焼しても主に水と窒素しか発生しないため、燃料の一部を置き換えただけでも二酸化酸素排出量の削減効果が大きい。21日から米国で開かれる国際的な学術会議で成果を発表する予定。 
 産総研と同大は今年2月、東日本大震災からの復興・再生を目指した産学官連携・協力に関する協定を締結し、共同研究を進めていた。

( 2014/09/19 08:38 カテゴリー:主要 )


「自分の命は自分で決めさせて」~伊達市の19歳が語る「原発事故」と「被曝」と「避難」

2014-09-19 09:08:19 | 原発

民の声新聞より転載

2014年08月30日(土) 06時39分43秒

「自分の命は自分で決めさせて」~伊達市の19歳が語る「原発事故」と「被曝」と「避難」

テーマ:被曝

被曝の危険性があることは分かっている。原発の危険性も学んだ。でも今の生活も壊したくない━。福島県伊達市の予備校生(19)が、福島第一原発事故から3年余が経過した今の本音を語ってくれた。甲状腺検査の結果は「A2」。一方で、3年経ったことで生じる「大丈夫かも」という安心感。「自分の命のことは自分で決めたい」という彼女は、伊達市での生活を続けながら宇宙工学エンジニアの夢へ向かって歩く。



【恐れていた「地震・津波・原子力」】

 2011年3月11日。あの日は中学校の卒業式だった。

 帰宅し、自宅2階で家族とくつろいでいたところ、激しい揺れが始まった。テーブルの下で身を守るのが精一杯。窓ガラスが割れてしまってはいけないとカーテンは閉めたが、何もできなかった。落ちてきた湯呑みがお尻に当たる。気付いたら、室内は壊滅状態だった。

 断続的な余震のなか、父親と一緒に弟を迎えに行った。6歳年下の弟は当時、小学3年生。その弟が、父と姉に並んで歩き出した途端、泣きだした。怖かった。怖くて怖くて泣きたかった。でも、クラスの友達が泣かないように、しっかりと手を握って励ましていたのだった。

 横になれる状態でない自宅。真冬の福島。雪も降ってきた。寒さが身に沁みる。結局、使っていないビニールハウスで二晩を明かした。電気や水道といったライフラインは不通のまま。案じた母親が、福島市飯坂町の実家に子どもたちを預けた。ようやく充電ができた携帯電話には、真偽不明のチェーンメールが何通も届いていた。「テレビは全然観られなかった。ラジオも時々つけた程度。浜通りが大変なことになっているなんて分からなかった。ましてや原発が爆発したなんて…」。

 事態を知ったのは、弟とサッカーボールで遊んでいた時だった。「原発がヤバいらしい」とおばさんに声をかけられた。

 「よく『地震・雷・火事・親父』って言うじゃないですか。私、考えたんです。どれが本当に一番怖いかって。雷も、火事も被害を未然に防ぐことはできる。お父さんは怒ると怖いけど(笑)。でも、地震や津波、そして原子力は一番怖いですよ」
 その「怖い」事態が実際に起きてしまった。ほどなく、伊達市内の放射線量は20μSv/hを超えた。

1408449834985.jpg

2年半ぶりに受けた県立福島医大の甲状腺検査。

前回は「A2」判定だった


【早くに気付いた〝安全推し〟への疑問】

 小学生の頃から原発には関心があった。

 学校の教科書には、原発のメリットだけが記載されていたが「先生に恵まれました。きちんと原発のリスクも教えてくれたから」。当時、夏休みともなると、決まって福島市内で〝安全PR〟のためのイベントが開かれていた。毎年のように見に行ったが、鵜呑みにはしなかった。中学3年生の夏休み。宿題の一つに、新聞記事のまとめがあった。テーマを決め、関連する記事を集めてまとめる。テーマには「プルサーマル」を選んだ。再処理で回収されたウランとプルトニウムのリサイクル。本も読み、調べれば調べるほど、「安全性ばかり強調されている。〝安全推し〟はどうなのか」と疑問が生じたという。

 だから、自宅に戻ってから窓に目張りをし、父親から「そこまでやらなくても」と言われるほど防護に努めたのも必然だった。高校進学はⅠ期で決まっていたため、高線量下で強行された県立高校の合格発表を見に行くことはなかったが、それでも入学手続きが要る。合格した県立高校に行かなければならない。マスクやマフラーで肌の露出を抑え、帰宅後は入念に顔を洗った。それだけ気をつけていても、高校進学後の2012年1月に受けた甲状腺検査の結果は「A2」(5ミリ以下の結節や20ミリ以下ののう胞あり)だった。

 「将来、結婚して出産する時、子どもに悪影響が出ないか。心配ではあります」

 しかし、事故から3年余が経過した今も県外避難をしていない。大学進学が実現した後も、自宅から通うことを考えているという。なぜか。そこには、多くの福島県民が抱いていると思われる葛藤があった。
1408449656709.jpg 
阿武隈急行・保原駅前のモニタリングポスト。原発事

から3年以上が経過したが、放射線量は0.3μSv/h

を上回る=伊達市保原町東野崎


【自分の命は自分で決めたい】

 「放射線は無色で目に見えないから、自分の身体へのリスクと結びついていないのかも…。それに、原発事故直後、伊達市も20μSv/hあった。それで今のところ自分には健康被害が出ていない。だから大丈夫なんじゃないかと思っているところもあるのかもしれません」

 この3年間、両親は自分のために様々な被曝回避に取り組んでくれた。経済的な理由や親の介護などから県外避難が難しいことも知っている。でも、ここまで両親がやってくれているのだから、他の家よりは安全ではないかと考えているという。1人暮らしへの不安や寂しさもある。

 少し考え込んだ後で、力を込めて彼女は言った。「目指していた高校に合格して、その先にやりたいことがある。避難をすることで、今の生活が壊れてしまうのが怖いんです。それに自分の命のこと。自分で決めてもいいじゃないですか」

 夢は宇宙工学のエンジニア。「探査機のエンジンを開発したい」と笑顔で語る。一昨年には、JAXA(宇宙航空研究開発機構)の合宿型体験学習プログラムに参加。宇宙飛行士・山崎直子さんの話も聴いた。その夢に近づくため、東北大学工学部への入学を目指している。「でも、ダンサーの夢もあきらめたわけではないですよ。どちらも叶えたい」。今年の受験は体調を崩してしまったこともあり残念な結果に終わってしまったが、仙台市内の予備校に通いながら、来春の合格を狙う。

 「被曝や避難に対する考え方は白か黒かで二分できるものじゃないです。白に近いグレーも黒に近いグレーもある。もしかしたら他の色が混じるかもしれない。放射線を空気と同様にとらえている人も多いけど、リスクを減らそうと一生懸命に動いている人もいる。県外の人には、そういったことも分かってほしいな」

 約2年半ぶりに、福島県立医大の甲状腺検査を受けた。エコー検査を終え、「モニターの画面にはのう胞が映っていた」と振り返った。



(了)


あきらめず声をあげよう

老いも若きも安心して暮らせる世の中を 最低年金月七万円 戦争する国つくりダメダメ 投票に行かなければ何も変わらない