ひろば 研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

溝口三丁目散歩(11) 二子は「ふたこ」か「ふたご」か?

2015年03月18日 13時39分50秒 | まち歩き

前回に引き続き、二ヶ領用水を歩きます。曙橋から上流(西側)に歩くと、旧大山街道(神奈川県道14号鶴見溝ノ口線)と交差します。

 旧大山街道が二ヶ領用水を越える場所には、大石橋が架けられています。どう見ても、この灯籠のような石柱は比較的新しいものですが、いつ造られたのでしょうか。

 二丁目と三丁目との境界が二ヶ領用水で、街の雰囲気も少しばかり変わります。また、最寄り駅も異なります。二丁目は溝の口駅から歩くことになりますが(そもそも、溝の口駅の所在地が二丁目となっています。なお、武蔵溝ノ口駅は一丁目にあります)、三丁目は高津駅からのほうが近いでしょう。

小学生時代以来、この辺りを何度となく通っているのですが、こんな橋であったかどうか、よく覚えていません。以前は、他の多くの橋と同様に、鉄製の欄干ではなかったでしょうか。 

 大石橋の三丁目側です。この先は「溝口三丁目散歩(7)」で紹介しました。ここに「溝口・二子の問屋跡」があります。以前には建物があったという記憶があるのですが、よく覚えていません。

 川崎市の「大山街道コース」というページによると、ここに卸問屋の丸屋があったそうです。丸屋は、ここで相模は秦野の煙草、厚木の麦などを扱っていたのですが、主の鈴木七右衛門は溝口宿の問屋役でもあり、宿駅を取り仕切っていた、とのことです。なお、問屋とは、人や馬の継立などを行う業です。

 それにしても、いつも難しいと思うのは地名(と人名)の読み方です。川崎市には、千年と書いて「ちとせ」と読む所はあるものの、そう突飛な難読地名(町名)は多くないのですが、表記がバラバラであったり、読み方がいくつかあったりする地名が存在します。前者の代表的な例が溝口で、後者の代表的な例が二子です。

 溝口は、川崎市の公式な地名です。読み方は「みぞのくち」です。しかし、昔から「溝ノ口」と書くことも多く、公証人役場や郵便局などの名称も「溝ノ口」となっています。他にも、探せば例は見つかります。田園都市線の駅も、1966(昭和41)年1月19日までは「溝ノ口」でした。一方、同年1月20日から東急の駅名が「溝の口」となってからは、この表記も多くなりました。そのために、「溝口」、「溝ノ口」、「溝の口」と入り乱れた形になっているのです。

 一方、厄介なのが二子です。川崎市では「ふたご」を正式な読み方としています(川崎市のサイトで確かめました)。ところが、ここにある「溝口・二子宿の問屋跡」の案内では「ふたこ」と読ませています。また、地元(私も、溝口出身ではありませんが高津区出身です)では「ふたこ」と言う人も多く、私も二子橋を「ふたごばし」とは読まず、「ふたこばし」と読んでいます。「ふたこ」と「ふたご」の、どちらが正しいのか、歴史的にはどちらも正しいのか、などと悩みます。市の史跡案内でも「ふたこ」の読みを記していることからすれば、「ふたこ」も「ふたご」も正しいということなのでしょう。

 そう言えば、東急田園都市線の二子新地駅と二子玉川園駅も、二子については「ふたこ」と読ませています。元をたどれば玉川電気鉄道として、二子新地駅は1927(昭和2)年に、二子玉川駅は1907(明治40)年に開業しています。駅名と地名とで読み方が違うという例はいくらでもありますので何とも言えないのですが、誤って名付けた訳ではないでしょう。

 もっとも、川崎市高津区の国道409号にある南二子バス停と東二子バス停(どちらも川崎市バスと東急バスの停留所)については、どちらも「ふたご」の読みが採用されています。

 大石橋から、二丁目の稲毛屋金物店を眺めます。「溝口三丁目散歩(9)」で紹介したように、三丁目の上田家の分家がここです。溝口では、現在もこのような金物店がいくつか営業を続けています。

 この先、溝口神社の手前にある溝口駅入口交差点のそばには、亀屋会館がありました。国木田独歩も「忘れえぬ人々」という小説で取り上げており、実際に彼も泊まったことがありました。江戸時代から旅籠として、後に結婚式場などとして、300年以上も営業を続けたのですが、21世紀に入ってすぐに閉館となりました。


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