チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

名ソプラノ歌手、アラ・ソレンコワ来日(1957年)

2019-03-08 20:16:33 | 来日した演奏家

週刊朝日1957年12月12日号に、旧ソ連の名コロラトゥーラ・ソプラノ、アラ・ソレンコワ(Alla Solenkova, 1928-2005)の東京公演の写真が載っていました。

↑ 記事によると当時彼女は29歳(計算あってる)。神田共立講堂。ピアノはエフゲニー・カンゲル(Eugene Kanger)。金屏風が大活躍ですね。

 

聴衆の心に深くかつ長く残る素晴らしい歌唱だったようです。

自分もYouTubeで「さくらさくら」を聞いてちょっとジーンとしました。

ソレンコワ・イン・ジャパン」というCDがあるんですね。残念ながら在庫切れ。機会があったら上の画像を見ながら聴いてみたいです。

 

蛇足ですが週刊朝日の同じ号に載っていた広告です。

 


チェリスト、ジョゼフ・ホルマン来日時の写真(1923年)

2018-11-24 00:10:18 | 来日した演奏家

『国際写真情報』1923年(大正12年)5月号の表紙を来日したオランダの名チェリスト、ジョゼフ・ホルマン(Joseph Hollmann, 1852-1926)が飾りました。


↑ 奥様と。おそらく、同年に竣工した旧帝国ホテル(ライト館)での撮影。

帝国ホテルでは、ホルマンはやはり来日中のフリッツ・クライスラーと10年ぶりに再会しています。


↑ やはり5月号より。

尚美学園大学芸術情報学部紀要第4号クラシック音楽文化 受容の変遷―外来演奏家によるコンサート史への一考察―(皆川弘至氏)によると、ホルマンは1923年4月8日には帝国ホテルで、5月26日には南葵楽堂(なんきがくどう、東京・麻布)でリサイタルを開催しています。

ちなみにピアノを弾いたウィリー・バルダス(Willy Bardas, 1887-1924)は同資料によると翌1924年5月24日にヴァイオリンのナタリー・ボシュコ(Nathalie Boshko Brown, 1893-1990)の東京・丸の内の報知講堂でのリサイタルにも伴奏者として登場していますが、その4ヶ月後の9月29日にベルリンで37歳の若さで亡くなっています。

↑ オランダWikipediaより。右後方の男性がバルダスか? 一番左はBurmesterという人かも。調べ中。

。。。情報を追加していきます。


N響常任指揮者シュヒターのカラー写真(1962年)

2018-08-14 13:20:34 | 来日した演奏家

『藝術新潮』1962年4月号のステレオの広告にN響常任指揮者ヴィルヘルム・シュヒター(Wilhelm Schüchter, 1911-1974)が出ていました。カラー写真は初めて見ました。

↑ 真剣に楽譜を見ていますね(八王子方面のかた、ご指摘ありがとうございました。近々お礼に参ります)

佐野之彦著『N響80年全記録』によるとシュヒターはどんな小さなミスも許さない「鬼コーチ」で、容赦のない厳しさに恐れおののく楽員が大勢いたそうです。意地悪で人格にも大いに問題があったと。しかし締め上げられたN響は大きく成長したということです。

そんなシュヒターが素晴らしいと絶賛する日立ステレオ「シンフォニカ」(DPS-640)は広告宣伝とはいえ本当に良い音だったことでしょう。



ちなみにシュヒターが開いている楽譜はなんの曲でしょうか?後期ロマン派チックかも。


ヴィオラ奏者ミヒャエル・マン来日(1953年)

2018-03-09 00:13:56 | 来日した演奏家

「アサヒカメラ」1954年3月号より1953年に来日し演奏会、講演会を催したミヒャエル・マン(Michael Mann, 1919-1977)です。

↑ 大竹省二氏撮影。思いっきり日本風な部屋ですね。大竹さんの家でしょうか?

彼はミュンヘン生まれのヴァイオリン、ヴィオラ奏者で、小説家トーマス・マン(Paul Thomas Mann, 1875-1955) の三男。

1942年から1947年にかけてはサンフランシスコ響のヴァイオリン奏者をつとめたそうです。1949年にはソロ・ヴィオラ奏者として登場しました。

当時マンはアメリカに住んでいて、インドへの音楽研究旅行の途中日本に立ち寄ったということですが音楽会の場所・曲目等が判明したら追記します。

ちなみにその後彼は神経障害のためプロ奏者の道を断念し、カリフォルニア大学のドイツ文学教授になりました。

↑ このLP(LPEM19126)またはCD(LEXC2002)にはマンが弾いたオネゲルとクルシェネクのヴィオラソナタが収録されています(1951、1952年録音。NMLで聴くことができます)。

父トーマスがマーラーと知り合いでマーラーを「ヴェニスに死す」の主人公のモデルとしたことと、息子ミヒャエルが弾いたクルシェネクがマーラーの次女アンナと一時結婚していたことは偶然の巡り合わせなんでしょうか。


ヨハン・シュトラウス一族唯一の現存者、エドゥアルト・シュトラウス2世来日(1956年)

2017-07-04 00:02:58 | 来日した演奏家

【2015年2月24日の記事にチラシとチケット半券の画像を追加しました】

1956年(昭和31年)7月31日、ワルツで有名なシュトラウス一族の末裔、エドゥアルト・シュトラウス2世が東京交響楽団の招きにより指揮者として来日しました。

東響の常任指揮者、上田仁氏が海外に招かれて帰ってくるまでの3ヶ月間、シュトラウス氏が「留守番」をしてくださったということです。

Eduard Strauss II. (1910-1969) 来日時の写真。『音楽之友』1956年9月号


エドゥアルト・シュトラウス2世とシュトラウス一族との関係は?

「ワルツの父」、ヨハン・シュトラウス1世(1804-1849)には3人の息子がいます。
長男 ヨハン・シュトラウス2世(1825-1899) 一番有名な「ワルツ王」
次男 ヨーゼフ・シュトラウス(1827-1870)
三男 エドゥアルト・シュトラウス1世(1835-1916)

来日したエドゥアルト・シュトラウス2世は三男のエドゥアルト・シュトラウス1世の孫だそうです(エドゥアルト・シュトラウス1世の息子であるヨーゼフの息子。多少ややこし~)。←ここに家系図がありました。

とにかく、シュトラウス一族の、それも結構血の濃い子孫だということにウソはないですね。

Eduard Strauss I

 

↑ 「ワルツの父 ヨハン・シュトラウスの曾孫」は本当のことだけど1世と明記しないところに若干ズルさが見え隠れ?

 

↑ 若気の至り的なドイツ語へのこだわりを「は」が堂々ブチ壊し。

 

↑ アサヒビール提供のコンサートもありました。プールでコンサートって涼しそう。『音楽之友』同号より。



日本での初コンサートである7月27日・日比谷公会堂での「ウィーン音楽の夕」ではシュトラウス一家の音楽のほかに、シューベルトの交響曲第5番、モーツァルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を指揮しました。

当時の『音楽之友』では「クルト・ヴェスのデレデレしたワルツよりサッパリしていて後味がいい」など、日本人評論家には概ね好評です。江戸っ子のヤケクソな感想にも聞こえますが、シュトラウスさんも当時の日本のオーケストラから本場のワルツの音を少しでも引き出そうと苦労されたでしょうね(下の写真の顔)。

↑ 7月27日夜の日比谷公会堂。冷房がきかず、しにそうに暑かったそうです。同誌10月号より。

 

↑ エドゥアルト指揮の青きドナウと皇帝円舞曲の17センチLP