チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

来日した有名なクラシックの作曲家

2022-12-07 17:29:53 | 来日した作曲家

日本に来たことがある作曲家って親しみが湧きますよね。ネットにはあんまりまとまった情報がないようなので初来日順に並べてみました。(広義のクラシック。修正、追加していきます)



セルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953) 1918年 予定外にたまたま来日したが帝国劇場でリサイタル

エンゲルベルト・フンパーディンク(1854-1921) 歌手のほうじゃない、『ヘンゼルとグレーテル』のフンパーディンクです。調査中。

フリッツ・クライスラー(1875-1962) 1923年4月初旬 帝国劇場などでリサイタル

イジドール・アクロン(1892-1948) 1923年と1931年 ハイフェッツのピアノ伴奏者として来日。

ヘンリー・ハドリー(1871-1937) 1930年 新交響楽団を指揮

アレクサンドル・タンスマン(1897–1986) 1933年

アレクサンドル・チェレプニン(1899-1977) 1934年 日本の作曲界と縁が深い

フェリックス・ワインガルトナー(1863-1942) 1937年。新響を指揮

マンフレート・グルリット(1890-1973) 1939年。後半生は日本で活躍され日本で亡くなったそうです。

ニコラス・ナボコフ(1903-1978)1956年。

パウル・ヒンデミット(1895-1963) 1956年ウィーン・フィル(初来日)と

ベンジャミン・ブリテン(1913-1976) 1956年シンフォニア・ダ・レクイエムをN響で日本初演。

ヘンリー・カウエル (1897-1965) 1957年。東京に数ヶ月滞在する間にアンタル・ドラティの委嘱で"Music 1957"を作曲した。

マトヴェイ・ブランテル (1903-1990)  1958年11月6日 カチューシャ「リンゴーの花ほころーびー」

ジョルジュ・オーリック(1899-1983)  1959年。親日家でその後も何度も来日。

イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971) 1959年N響を振った。

ゴッフレード・ペトラッシ (1904-2003) 1959年

アンドレ・ジョリヴェ(1905-1974) 1959年。N響を振って自作を披露。1970年再来日。パチンコにハマった。

ナルシソ・イエペス(1927-1997) 1960年。その後も度々訪日。

アーロン・コープランド(1900-1990) 1960年初来日のボストン響を指揮。1961年4月「東京世界音楽祭」のため再来日。1962年2月3日日米文化教育会議の代表者として再々来日。(確認中)

アラン・ホヴァネス(1911-2000)1960年?

レナード・バーンスタイン(1918-1990) 1961年初来日

ヤニス・クセナキス(1922-2001) 1961年4月東京文化会館落成に伴う「東京世界音楽祭」のため来日。

ロディオン・シチェドリン(1932-) 1962年1月24日来日。労音での講演、芸大・武蔵野音大などを訪問

ジョン・ケージ(1912-1992) 1962年来日公演

オリヴィエ・メシアン(1908-1992) 1962年6月20日夫婦で来日。最初は高輪プリンスに宿泊。2度目の来日は1978年。

カール・オルフ(1895-1982) 1962年9月NHKの招きで来日、音楽教育について講演。9月27日東京文化会館にて小澤征爾指揮の東混で「カトゥーリ・カルミナ」日本初演。

ゴットフリート・フォン・アイネム(1918-1996) 1962年初来日。1992年再来日し「薔薇の影」日本初演。

ドミトリー・カバレフスキー(1904-1987)1963年国際音楽教育会議で来日、N響を指揮。

アラム・ハチャトゥリアン(1903-1978) 1963年 読売日響、京響を指揮。コーガン、オボーリンと協奏曲も。

アーサー・ブリス(1891-1975) 1964年にロンドン交響楽団とともに来日し自作『チェックメイト組曲』を指揮。

ホアキン・ロドリーゴ(1901-1999) 1964年初来日。1974年再来日。

カールハインツ・シュトックハウゼン(1928-2007) 1966年『テレムジーク』初演

ハンス・ヴェルナー・ヘンツェ(1926-2012) 1966年ベルリン・ドイツ・オペラと『若い恋人たち』初演

ピエール・ブーレーズ(1925-2016) 1967年大阪国際フェスティバルでN響でトリスタンを指揮

ヘンリー・マンシーニ(1924-1994) 1967年

ルチアーノ・ベリオ(1925-2003)1969年初来日、親日家。

ペール・ヘンリク・ノルドグレン(1944-2008) 1970年から3年間芸大で学ぶ。1987年にも来日。

ハインツ・ホリガー(1939- ) 1970年2月、夫人のウルスラ(hrp)と初来日

アンドレ・プレヴィン(1929-2019) 1971年初来日。ロンドン交響楽団と

モーリス・ジャール(1924-2009) 1972年2月に単身来日して日比谷公会堂で分裂直前の日フィルを指揮(←Edipo Reさまのコメントより。ありがとうございました)

ジャン・カルロ・メノッティ(1911-2007) 1974年

ニーノ・ロータ(1911-1979) 1975年初来日。

クシシュトフ・ペンデレツキ(1933-2020) 1976年初来日。大阪国際フェスティバル。1979年の同フェスでは自作(Vn協など)とショスタコーヴィチの交響曲(5,6番)を指揮(N響)

アルフレッド・リード(1921-2005) 1981年初来日

アンリ・デュティユー(1916-2013) 1981年?本人の89年のインタビュー記事で「日本には日仏協会の招きで8年前に一度だけ来ている」とある。

バーナード・ランズ(1934-) 1982年「Music Today」のため来日。

アストル・ピアソラ(1921-1992) 1982初来日

カレル・フサ(1921-2016) 1987年が初来日か? 愛工大名電高校の吹奏楽団で「プラハ1968年のための音楽」を指揮。

ルイジ・ノーノ(1924-1990) 1987年東大で特別講義。

ソフィア・グバイドゥーリナ(1931-) 1989年初来日。1997年11月時点で8回目の来日。

アルヴォ・ペルト(1935- ) 1990年春初来日。1991年再来日。その後も来日

スティーヴ・ライヒ(1936- ) 1991年10月、自身のアンサンブルを伴って初来日。2度目は1996年、「18人の音楽家のための音楽」を演奏。

ジェルジュ・リゲティ(1923-2006)1991年第3回高松宮殿下記念世界文化賞受賞のため

ペア・ノアゴー(1932- ) 1991年のサントリーホール国際作曲委嘱シリーズ第14回が初来日か

アルフレッド・シュニトケ(1934-1998) 1992年第4回高松宮殿下記念世界文化賞受賞のため夫人を伴って来日

エイノユハニ・ラウタヴァーラ(1928-2016) 1992年

フィリップ・グラス(1937- ) 1992年「浜辺のアインシュタイン」公演(品川・アートスフィア10月18~25日)に伴い来日

ルー・ハリソン(1917-2003) 1993年。東京・神田神保町「文房堂」ギャラリーでトーク&演奏会(7月20日、21日)

マグヌス・リンドベルイ(1958- ) 1993年。井上道義/都響により作品初演。8月28日サントリーホール

カイヤ・サーリアホ(1952-2023) おそらく国立音大の招待による1993年秋が初来日←『音楽芸術』1994年3月号「日本に来て日本を見たい思った」

ヴィトルト・ルトスワフスキ(1913-1994) 1993年第九回京都賞受賞のため来日。

ジョン・ウィリアムズ (1932- ) 1993年来日公演。

ジョージ・ベンジャミン(1960- )メシアン門下。1995年東京における「国際ヴェーベルン・シンポジウム1995」のため初来日。

オリヴァー・ナッセン(1952-2018)1995年?都響を指揮

ヘンリク・グレツキ(1933-2010) 1996年、シレジア・フィルとともに

ルイ・アンドリーセン(1939-2021)2000年

ハビエル・ブストー(1949- ) 2000年?

ヘルムート・ラッヘンマン(1935- )初来日はいつ?2000,2003,2009年には来日している。

エンニオ・モリコーネ(1928-2020) 2004年

ルドヴィコ・エイナウディ(1955- ) 2008年初来日。

スティーヴ・ドブロゴス(1956- ) 2008年初来日。親日家でその後何度も来日。←伊藤様、情報をありがとうございました

カレヴィ・アホ(1949- ) 2009年 読売日響による交響曲第7番の日本初演に立会う。

ジョン・コリリアーノ(1938- ) 2012年

ヴァレンティン・シルヴェストロフ(1937- )  2017年11月

ボブ・チルコット (1955- ) 親日家で何度も来日しているが初来日はいつ?2020年の来日は中止

ジョン・アダムズ(1947- ) 2024年1月

 

【2014年1月23日の記事を修正しました】


オリヴィエ・メシアン初来日、『日本に演奏して』(1962年)

2021-05-12 22:58:58 | 来日した作曲家

オリヴィエ・メシアン(Olivier Messiaen, 1908-1992)は1962年6月20日、イヴォンヌ・ロリオ(Yvonne Loriod, 1924-2010)と共に初来日し、主に「トゥーランガリラ交響曲」の上演、監修のために一ヶ月程滞在しました。

二度目の来日(1978年)

『藝術新潮』1962年9月号にメシアン自身による『日本に演奏して』という記事が掲載されています。

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日本に演奏して 

オリヴィエ・メシアン

パリの東北端の高台、氷雨や雪の日には出入りにも困難だと嘆かれるヴィラ・デュ・ダニューブという村落めいた地区に長年住みつき、どんなにその非現代性、不便さを説かれても転居する気にならない私だが、その我が家の門口に「スランガ」と呼ばれる木が一本ある。毎年六月のはじめになると純白の小さい花をいっぱいに咲かせ、爽やかな匂いを漂わせてくれるのだが、花の盛りはわずかに四日である。その季節に講演旅行などで留守にしてせっかくの花を見逃してしまう年もある。我が家の花でさえ見そこなうことがあるのだから「日本のさくら」「日本の紅葉」という特有の自然美にめぐり合わなかったことはあっさりとあきらめている。

「いちばん気候の悪いとき、いちばん自然の貧しい時にいらっしゃって・・」と同情の言葉を何回も受けたが、私にとってはパリ音楽院の卒業試験の終る六月中旬以後でなくてはパリを長期間離れるわけにはいかないのであった。

野鳥を聞くことができるかどうか、それが唯一の心配だった。フランスでは六月すぎではもう鳥の声をきくには時期はずれなのだから。しかし、六月二十日日本についてその翌朝、高輪プリンスホテルの庭の深い木立ではいくつかの鳥の歌が私を迎えてくれ、そのなかには「ジュウイチ」の声があった。二十二日から二十五日まで軽井沢星野温泉に泊って、野鳥研究家の星野嘉助さんに案内されて森林をあるいたが「ジュウイチ」はたびたび私をよろこばせてくれた。「オオルリ」「コルリ」それから「キビタキ」だのと私の耳、私の頭の中では「鳥のカタログ」はどんどん充実していって楽しいかぎりだった。軽井沢の三日三晩の収穫は大きかった。なにしろ朝は四時から山にはいりこみ、夜はまた九時ごろまで探さくの足を休めなかったのだ。そして二十四種もの鳥の声を採譜できたのであった。

日本の野鳥についての予備知識はかなり持っていたつもりだった。というのは作曲家・松平頼則さんが鳥の声の録音テープを数本私にとどけて下さっていたからである。しかし実際にきいてみるとナマの声は別個の感じがする。松林のなか、急流のほとりで思いがけない方向から、不意にきこえてくる声はその自然との調和の美しさばかりでなく、声そのものも或いはリピートがいくつもあったり、リズムの変化もあって複雑、多様なのである。キビタキなどもあるときはモデラートであり、アッチェレランド(漸次急速に)になったり、その変化は面白いのである。

京都で大原總一郎さんにお会いしたとき、「ワグナーの『ニュルンベルグの名歌手』のおわりの方にたしかキビタキの声の模写と思われる個所があるからこの鳥はドイツ、オーストリア地方にも棲息しているのだろう」とのお話があったが、私の知るかぎりではこの鳥はヨーロッパにはいないようだ。もしヨーロッパでキビタキをききつけたらその時は即刻ご報告していさぎよく不明をわびるつもりでいる。

詩的なのはヨタカの声だった。録音できくと単調で陰気なだけだが、浅間の姿を望むところで月の光をあびてきいたときには遠いところに心を引き裂いて持ち去られるような感動をあたえられた。

野鳥に関するプランは軽井沢行だけだったが、「トゥランガリラ交響曲」の録音の仕事が終った日に、私は矢代秋雄さんから富士山麓の須走の野鳥園に行かないかと誘われると、数日間スタジオに引きこもっていたあとだから大自然へのノスタルジアがむらむらとわき上がり、スケジュールの都合を無視して山中湖に旅立った。山中湖の一夜が白々と明けるころ水際に見えた富士の崇高さには思わず嘆息してしまった。野鳥園は開園直後だったので集められた野鳥たちはまだ「籠の鳥」の悲境にあり、歌をきかせる余裕はまったくなかったものの、幸いにも高田さんという野鳥研究家が原始林に案内してくれ、いくつかの鳥の声をきくことができた。忘れ難いのは「コジュケイ」だった。「コジュケイ」や「クロツグミ」は本当に美しい歌をうたう。

あちこちで断片的に語ったが、私が「鳥のカタログ」で使った方式は鳥の声を現場採譜して私の作曲理論によって発展させるが、一つの鳥の声が三分間の音楽になるまでには同種類のものを五十も六十もきかねばならぬし、ソロだけでは足りなくて幾羽もの合唱を採譜する必要もある。そして私はその鳥の生活環境、棲息地帯を音に再現してそこに鳥の歌声をはめ込む、つまり、額ぶちにはめた絵にするのである。今までこうしてブルターニュのシギだのソローニュの池のすずめなどが鳥のガレリーに展示されてきたのだった。その土地のすんだ空気、田園の匂い、海の色彩、その量感などがハーモニーに生かされるのが私の願望なのであった、とこんなことをしゃべっていたら性急な人が問いかけてきた。「メシアンさん、それでは近いうちに『浅間のヨタカ』というものが創作されると期待してよいでしょうか?」と。少し残酷な質問だ!いまはただ日本の鳥たちに自由自在に私の頭の中で飛びまわり、さえずってほしいだけなのだから!私はもったいぶって答えたものである。「私は将来のプランを絶対に語らない主義でしてね」と。

「トゥランガリラ・シンフォニー」の日本初演ということが今回の私とイヴォンヌ・ロリオの日本訪問の中心プランだっただけに、軽井沢から帰京した翌朝はじめてNHK交響楽団の練習に臨んだときは、複雑な感情が私の頭を領していた。楽団の技量は六月の定期公演をきいてわかっていたし、小澤征爾氏の才能にも十分信頼はおいていたものの、しかし、初演というものはいつでもどこでも予期しない困難事がつきまとうことを知っているからだ。二十六日から七月三日まで朝は十時きっちりにはじめて、午後三時まで昼食の一時間をのぞいて指揮者と楽団とはしっかりと合体して、息もつかせぬほどの緊張した稽古がつづけられた。

公演の日(七月四日)の午前中の文化会館大ホールでの総げいこの時には、まったくブラボーと感嘆の声を禁じ得なかった。そして公演の出来ばえについては、それが今まで世界の大オーケストラによる幾度かの演奏のうちでも最もすぐれたものの一つだということをはっきり断言したい。私は指揮者にまねかれてステージに立ったが嬉しさのあまり言葉ものどにつかえ、うろたえた姿をさらしたが、それほど感激が大きかったのだ。

小澤さんの指揮については恐らくいくつかの新聞の批評に語りつくされていると思うが、私自身一言つけ加えないではいられない。世間では彼を天才といっているようで、もちろん、リズムに対する鋭敏性は生まれつきのものだ。しかし、指揮者はいつも「楽団」に直面していてその一人一人の能力とその限界判断を正確に感じとり、その能力を最大に引き出させて、しかも全体の中に投入して完全な一つのものに盛り上げる力が必要なのだ。ただの才能だけでは間に合わぬ。あの若さでまるで六十歳の老練な指揮者のようにすべてをやってのけているのだ。全くあの晩の演奏には一つの導入のまちがいもなかったし、一つの狂った音も鳴らなかった。それに全楽員の真剣な態度にも敬意を表する。

あの公演のあとであの曲について専門家の人々といろいろ話し合ったが、清瀬保二さんが「トゥランガリラ」はフランス音楽というものが今までわれわれに与えてきた概念を越えたヴォリュームとヴァイタリティに溢れている点を指摘したあとで、どうもフランスではベルリオーズの諸作品に一脈通じるのではないかと言われたのには微笑を禁じ得なかった。正しく私にとってベルリオーズは無縁の人ではないからである。二人とも同じ人種なのだ。つまり、彼はグルノーブルの出身、私もまた生まれはアヴィニヨンだが、父がグルノーブルで英文学の教授をしていた関係上この地は私の第二の故郷なのであった。ベルリオーズの想像力、創作欲の羽ばたきを育てたのはあのアルプスの白雪、森林の神秘、それは少年時代の私を取り巻く自然だったのである。

さて、もう一度、「フランス音楽」というものに戻るが、クープラン、ラモー、ドビュッシー、ラヴェル、それからベルリオーズといういずれも独自の音楽をつくっているように、「日本音楽」もまた多くの形式と質によって代表されているではないか。短い今回の滞在で私が知り得たのは氷山の一角にすぎないであろうが、それでも筝曲にも多くの傾向があるのを学んだし、三味線でも文楽と地唄、また長唄とのちがいがわかるし、謡曲もあれば雅楽もあることは、日本の音の世界がいかに豊かであるかを物語っていよう。

文楽はちょうど三和会の東京公演があったので「トゥランガリラ」の録音の休み日を利用して案内してもらった。私が感心したのは「寺子屋」であった。この私塾で起った封建時代の悲劇の複雑な筋と、そしてその多くの人物を描きわける語り手(訳者注・豊竹若大夫)の声量と技巧、太ざおという三味線のしぶい音色は全くユニークなものだ。

↑ 文楽を見る

「能」については、これまた友人達からレコードを送られていて相当理解していたつもりだったが、本物に接すると自分の想像をはるかに超越した美しさ、優雅さに感嘆してしまった。簡素な外観と深奥な内容との対照の妙。鼓の音のニュアンスの豊かさ、あのかけ声は私の心に沁みとおり、微妙なあの「間」のとり方は多くきけばきくほど魅惑されてしまう。出し物は「小督」「蝉丸」「紅葉狩」だったが(訳者注・観世定期能)、私は「蝉丸」が最も好きである。

私は能と文楽を見られたら歌舞伎は割愛してもよいと言っていたのだが、欲の深い性質だから東京を離れる日が近づくとやっぱり歌舞伎も見ておこうと言い出し、言い出すと何度でもくりかえして要求したあげく、「盆興行はお化け芝居」で面白くないと言われるのを押して歌舞伎座に出かけた。やっぱり来てよかったのだ。伝統的な幕のあけ方の伴奏になるキの音の清潔感。「かさね」の芝居では終始観客はゲラゲラ笑っていたが、物語の根底をなす因果応報という仏教の哲学がどうして笑いごとではない。勘三郎という俳優は全くセリフを解しない私たちにも十分納得のいく表情を顔と身体全体でやってのけている。三十年も前にドイツでお化けの出る一幕物を見た後、数カ月も夢にみてうなされた話を幕間にしたら、付添の人が最後の幕は見ないで帰ろうと提案したが、一旦感興をおぼえた以上、中途で止めるわけにはいかない。剛情をはり通して結局殺しの場面まで見てしまった。みんなが笑っているうちは恐ろしくなかったが、最後に私のわきの花道にニューッと出た亡霊にはたまげた。全くてっていした写実だ。

京都では大原氏邸で井上八千代さんの舞踊を鑑賞する機会に恵まれた。畳の上を滑る白足袋のうごき、扇の扱い方など、能にたいへん近くて、さらに柔らかみのある華麗さに恍惚とした。「虫の音」という曲では松虫の声の模写が面白かったので、踊りのあとで地方(じかた)の人たちに何回もひいてみせてもらった。「雅楽」をきくことも「能」と同じに重要なプランだった。中国がこの音楽の発祥地であるにしても、今日演奏されている雅楽はやはり日本の風土、日本人の美学的センスに養われて育った、特殊の音楽だと思う。先年新中国を見学された清瀬保二さんは中共政府は文化財として雅楽の復興に着手していると言われたが、特定のふんいきを背景にして生まれてきている曲目のいわれをきき知る私たちはその背景、環境を抹殺した条件でこの音楽が理解できるのかなと不審に思うのだが・・。私たちはその意味では幸いである。大内山の木立深く、雅楽部の清浄な舞殿できく管弦は最高である。松平頼則さんと一緒に楽譜を参照しながらきいたので楽しみが倍加された感じであった。和琴とか、笙、しちりきとかいずれもその音色、その量感ともにすぐれた楽器である。「還城楽」の豪壮さ!暑熱の白昼、正式の衣装をつけて舞って下さったのには感激した。雅楽拝観後のスケジュールがぎっちりつまっているのも承知の上で、私は大手門から出るとすぐさま銀座に車を走らせて雅楽のレコードを買い漁った。その時は雅楽以外のものは私にとって存在しなかったのだ!

↑ 井上八千代の踊りを見るメシアン(京都・大原總一郎邸にて。以下の画像は小川光三氏【1928‐2016】撮影)

法隆寺の壮大さ、いくつかの門と回廊の調和、東院への道の両側にある松の老樹、かねてから写真で知っていた木造の百済観音のみごとな姿、夢違観音立像のやさしい微笑など、私はノートに記入し切れないほどの芸術に接したのであった。金堂と五重塔の面白いシメトリー、まったくユニークである。法隆寺から唐招提寺にいくとなにかほっとした安らぎを感じる。威光や壮大さよりもここには詩が香っているようだ。千手観音の大手、小手の微妙さに驚嘆する。薬師寺では薬師如来とその両脇に「日光」「月光」の侍者が並び立つ壮観に立ち去りがたい思いで眺め入ったことである。

音楽家の私達の心に深い愛着をおぼえさせるのは大仏殿前の八角灯籠である。日本で最も古い灯籠だそうだが、火舎(ほや)の扉には笛を吹く天人が浮彫されている。いかにもみずからの楽の音に恍惚としている表情がうかがわれる。

灯籠といえば夕ぐれの春日神社で長年の執着の的であった「三千の灯籠の並木」のあたりを逍遥して私は大満悦であった。杉や樟の老樹を縫ってえんえんとつづく灯籠の列――それに灯火がともされたらどのような色彩を呈することだろう。

京都の町では柳が目についた。細い川の流れに沿って柳の枝葉が深々と垂れ、低い屋根、白い壁の家が並ぶ木屋町という通りは車で走りすぎるのが惜しまれた。知恩院の池には睡蓮が浮かんでいた。私は思わず叫んだものである。「モネ君、君よりも以前にここには印象派がいたのだ!」と。

↑ 知恩院本堂にて

それから桂離宮にいくともう私は完全に狐憑きみたいになり、拝観者の列から遠くにとりのこされてはたびたび巡視者に注意されるしまつだった。竹や楓やつつじが(残りの花を二、三つけていて)私をひきとめてしまうからだった。そしてこれらの樹木の姿をうつす池のほとりでまたもや私は叫んだのである。「ドビュッシー君、君よりも以前にここには『水の反映』を作った人がいたのだ!」と。

↑ 桂離宮にて

宮島の厳島神社に詣でたとき、はじめは潮がひいていて、いささかがっかりしていたが、紅葉台という丘に上がって内海を見下ろしてから帰ってくると折よくみち潮になってきて、赤い鳥居が残照の散り交う水中に浮かんだのも注文通りだった。その上、一茶苑での夜食に瀬戸内海の魚のかずかずを賞味していると一点の曇りもない月が出た。桂離宮の天皇たちの月見の宴にも劣らぬ豪華さだ!勿体ないような旅ではあった!

短い旅程の中から広島まで行かれたのはかねてからの知人、エリザベト短大の学長ゴーセンス神父の友情によるものであった。白状すると暑熱と仕事疲れとで広島駅に降りた時は蒸釜から出るようにボーっとしていたのだが、駅頭では男女学生の合唱隊が待ち伏せしていて「祈りませ聖母」といきなりうたい上げて私を驚かせ、私を正気にもどしてくれたのであった。

広島の歴史的受難を世界中で知らぬものはいない。駅頭で新聞記者からこの町へのメッセージを、と求められて私はこう答えた。「私がここに来たということ、それがメッセージです」と。平和記念塔に異国の旅人としての花を捧げたあとで、大聖堂へと向う道々、私は心の中でくりかえしたものだ。やっぱり来てよかったのだと。ここには東京や大阪に見られない近代的な広い道路が走っているが、並木の樹木はまだ幼く弱々しい。しかしこの若い木は何年か先にはうっそうとした緑林にかわるだろう、廃墟から再生した魂の純潔さ、強さを物語るように。

大聖堂の前には神父たちや修道女、信者たちが私達を待っていてくれ、オルガンの奏楽が私を迎えたのであった。セザール・フランクの詩篇の一章が流れる聖堂にひざまずいて私はしばらく祈りつづけていた。受難者たち――死んだ人々と残された人々と――の上に平安の訪れんことを。合唱隊がフォーレのレクイエムから「天国にて」をうたいはじめていた。

訳・編・山口芙美(プロモーター)

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。。。メシアンは日本の文化ベタ褒めですね!

最後に、ロリオ夫人の『メシアンと私』です。私はメシアン専門のピアニストではないのよ、とおっしゃっています。

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メシアンと私

イヴォンヌ・ロリオ

パリの音楽院でメシアンのアナリーゼとハーモニーのクラスを修了した私はその後彼の作品をいくつか初演することになり、今でもヨーロッパ、アメリカなどの現代音楽祭には招待されてメシアンの作品を度々演奏しています。そして今回の来日では「トゥランガリラ交響曲」のピアノソロの部分を受け持ち、またリサイタルでは第一部がピアノソロで「幼児キリストにそそぐ二十のまざなし」を、第二部ではメシアンとのデュエットで「アーメンの幻影」をひき、メシアンの講演会では「ヌーン・リトミック」と「鳥のカタログ」の抜粋をひくという具合で、まったくのオール・メシアンプログラムであったので、私がメシアンのピアノの専門家のように取り沙汰されてしまったのですが、これには誇張があることを申しておきたいのです。

メシアンのピアノ曲は私より前からひいていたピアニストもあり、現在も方々の国でひかれているのです。ただ、今回メシアンとともにひいた「アーメンの幻影」は初演以来二人で度々やっていますし、「トゥランガリラ交響曲」は初演以来私がひいていますのでこの曲については特別な愛情も持っていますし、演奏についても、自分なりの信念を持つことができるようになってきたことは確かです。

「トゥランガリラ」はあの通りのロマンティックな、そしてまばゆいばかりの色彩感にあふれている曲ですから、ひきながら自分自身も高い空までかけ上がっていったり、また逆に地の底、海の底に引っ張りこまれるようになったり、まったく無限の空間、無限の深さを感じさせられます。現代作品を多くひくことから、メシアンの作品も数多くレパートリーに持つことになったわけです。

ジョリヴェの「ピアノ協奏曲」、シェーンベルクの「コンチェルト」、ミヨーの「協奏交響曲」、オネゲルの「コンチェルティーノ」なども度々ひいています。アルベニスの「イベリア」(全曲)とファリャの「スペインの庭の夜」の二曲は最も好きな作品です。

古典ではモーツァルトが特に好きです。今まで自分のリサイタルではモーツァルトとメシアンの組合わせを度々やっています。不思議にこの両作者のものがお互いに助け合うというか、自分ながら両方ともうまく、楽にひけるのです。日本にきて、はからずも同門の安川加寿子さんの演奏をきくことができたのは本当に幸いだと思いました。欲を言うと二人でモーツァルトの「二台のピアノのための協奏曲」をひいてみたかったのですが――。

よく考えてみるとメシアンのピアノ曲と私の縁はやっぱり特別なのかもしれません。と言うのは、レコードの吹き込みではメシアンの曲が比重が大きいし、その上、私のもらった「グランプリ」はいずれもメシアンの曲(※)なのですから。


幼な子イエスにそそぐ二十のまざなし
神の降臨のための3つの小典礼
トゥーランガリラ交響曲

メシアンの初来日については情報をここに追加していきます。


アレクサンドル・タンスマン来日公演の曲目とインタビュー(1933年)

2020-12-14 15:57:07 | 来日した作曲家

ポーランド出身のフランスの作曲家、アレクサンドル・タンスマン(Alexandre Tansman, 1897-1986)が1933(昭和8)年に来日し、ピアニストとして自作を演奏しました。



第1夜 1933年3月19日(日) 仁壽講堂(東京・内幸町)

1. 古風な様式による舞踏組曲(Suite dans le style ancien)

2. ヴァイオリン・ソナタ第1番(ヴァイオリン:林龍作1887-1960)

3. ピアノ・ソロ
 ・6つのマズルカ(1928)
 ・4つの即興曲(1922)
 ・大西洋横断ソナチネ(1928)
 ・交響曲第2番イ短調よりラルゴとスケルツォ(1926)

4. アンコール
 ・ポーランド舞曲
 ・ドゥムカ
 ・ポルカ

第2夜 1933年3月21日(火) 仁壽講堂

1.ピアノ・ソナタ第2番(1929)

2. フルート・ソナチネ(フルートは誰だか不明。調査します)

3.ピアノ・ソロ
 ・アラベスク(1931)
 ・テンポ・アメリカーノ(1931)
 ・間奏曲(1926)
 ・4つのポーランド舞曲(1931)

4. アンコール
 ・マズルカ
 ・交響曲第2番イ短調よりスケルツォ

さて、3月22日(水)には大田黒元雄ら新興作曲家連盟主催のタンスマン歓迎会が開催されています。

↑ 歓迎会のようす。遠山一行記念日本近代音楽館所蔵。



食後は来会者の要望によりタンスマンは田舎風ソナタ(Sonata rustica)全曲とマズルカを演奏し、詳細な解釈を与えたそうです。

更には以下のような質疑応答がなされました。

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質問:貴下の生年は文献によって色々異なっておりますがどれが本当ですか。

タンスマン:1897年がほとんどです【自分でもどれが本当かわかっていない?】

質問:ポーランドの作曲家、例えばシマノフスキ氏やパデレフスキ氏についてのお話を伺いたい。

タンスマン:パデレフスキ氏はもうとても老年で昔日のような演奏はできない、がアンコールの頃になると熱がようやく出てくるらしく昔の面影をうかがわせる。シマノフスキ氏は私等の大先輩で音楽学校の校長をしていた。今日会った東京音楽学校の校長さんはどの種類の音楽家ですか。

回答:あの方はお役人の事務家です。

質問:フランスの作曲家、例えば六人組の人々についてはどんなご意見ですか。

タンスマン:ミヨー氏とオネゲル氏の二人が断然他の人々と段違いになってしまって比較にならない。プーランク氏は可愛らしい音楽を書く、けれどただ可愛らしい音楽を書くだけではどうも...、オーリック氏は消えそうだし、残りの二人デュレ氏とタイユフェールさんはうっかりすると名前を忘れてしまう。

質問:ドイツはいかがですか。

タンスマン:ヒンデミット氏が断然群を抜いています。

質問:シュレーカー氏は?.....例えばオーケストラ曲は

タンスマン:彼のオーケストレーションは私にはどうも同感できません。重苦しくて(schwer)

質問:貴方の音楽中には多くの五度和声的要素を認めますが、意識的に用いられたのですか、無意識的に入ったのですか。

タンスマン:無意識的です。なぜならば、私のまだ若い頃新しい音楽といってもワーグナー位なもので、シェーンベルクやドビュッシー等を全然耳にしない頃に作曲したものにもうその要素が入っています。例えば日本の和歌に作曲した「日本のメロディー」等

質問:四分音階についてのお考えは?

タンスマン:演奏を聞きますと、トリスタンのような響きがするか、あるいは調子が外れたような感じがする。十二音階的な音楽がまだ充分開拓されていない位で聴く人の耳がそれを受け入れるまでには相当の時を要するでしょう。

質問:経過音的には?

タンスマン:経過音的には今日、弦楽器等の演奏で既に用いられているでしょう。

質問:ベートーヴェンの交響曲のオーケストレーションについてはどんなお考えですか。

タンスマン:モーツァルト風な第一交響曲のオーケストレーションが良くできている。それから、第七、第八になってまた良い。第三の辺や第九等は重厚すぎる気がする。

質問:第九の第三楽章なんか長過ぎるように思われませんか。

タンスマン:現代人には長すぎるようです。ブラームスのピアノコンチェルトの第一楽章等と同様に。

質問:ベートーヴェンの管弦配置に手を入れる問題はどのように考えられますか。

タンスマン:それは一口になかなか言えない問題だけれど、ダイナミック的な配慮で楽想を活かすことに努力してみる。そしてもしそれでも、どうしても主題が出ないようならば、楽器の編成に手を入れてもよいと思う。例えば、一本のホルンを二本に重ねるとか、今日の吹奏法が進歩した状態からして、旋律をオクターブ上げるとか。例えばワインガルトナーがワーグナーのタンホイザーで行った有名な改良のように。但し全然音色の違った楽器を持ってくることは問題外です。


最後に大田黒氏とタンスマンの挨拶です。

大田黒「日本に来た世界的な作曲家は貴下が二番目です。最初はプロコフィエフ氏であったが、その時代はまだ彼を理解するだけ日本楽界が進歩していなかった。それ以後長い間大作曲家が我が国を訪れたことがなかった」

タンスマン「私は多年憧れていた日本に来ることが出来て、そして思いがけなくも貴国の作曲家達から招かれてここに愉快な夕を過ごすことができたのを、何の歓迎にもまして嬉しく思います。どうもありがとう」

以上、『音楽評論』創刊号(1933年4月号)より。



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。。。いまの時代、タンスマンは「大作曲家」という感じはしませんけど、今回タンスマンの音楽をいろいろつまみ聴きしてみて、よみがえれタンスマン!という気持ちになりました。

(2017年7月22日の記事の一部を修正しました)


コープランド初来日、ボストン交響楽団と共に(1960年)

2020-12-08 22:20:38 | 来日した作曲家

ボストン交響楽団は当時の常任指揮者であるシャルル・ミュンシュに率いられて1960年に初来日しました。

↑ 1960年の来日が決まった際の1959年12月20日の新聞記事。
「6~8週間で日本、フィリピン、台湾、韓国などの各地をまわる」とあります。

 

そのとき、アメリカ人では屈指のクラシック作曲家、アーロン・コープランド(Aaron Copland, 1900-1990)も指揮者のひとりとして初来日しました。ちなみにもう一人の指揮者はボストン響のコンサート・マスターでもあったリチャード・バージン(Richard Burgin, 1892-1981)。

↑すべての来日公演が終わったのちの同紙の菅野浩和氏(1923-2011)による批評記事。1960年6月5日。

当然ながら記事はほとんどがミュンシュによる名演についてです。

一方コープランドの指揮については「コープランドが自作を交えた演奏会は低調で、もしこの日だけしかボストン響をきかない人がいたら、その人はこのオーケストラの真価を全く知ることができなかっただろう」と散々。

しかしそうだったとしてもその日の聴衆はコープランドの初来日公演に立ち会ったということを自慢できると思います。

この6年後、コープランドの1966年の来日についてはこちらも参考にしてください。

(コープランドの初来日公演については情報を追加していきます)


ストラヴィンスキー来日(1959)~演奏会の四者の感想

2020-11-29 23:02:20 | 来日した作曲家

1959年4月から5月にかけて開催された「大阪国際フェスティバル」のために、イーゴリ・ストラヴィンスキー(Igor Stravinsky, 1882-1971)が4月5日(日曜日)に来日し、一ヶ月滞在しました。夫人と、弟子で指揮者のロバート・クラフト(Robert Lawson Craft, 1923-2015)が同行しました。

↑ 杉浦康平氏(1932年生まれ)によるポスター(1030×728mm)。60年も前なのに古さを感じさせません

 

NHK交響楽団を率いて「火の鳥」、「ペトルーシュカ」、「花火」、「夜鳴きうぐいす」をフェスティバル・ホールで演奏した5月1日(金)は補助席を出しても足りなくてオーケストラ・ピットにまで席を作ったほどだったそうです(このときの「火の鳥」がYouTubeで見れます)。

 

その演奏会に関する、聴衆、評論家、オーケストラ、そしてストラヴィンスキー自身の感想をまとめてみました。

 


1.【一般の聴衆代表:岡部伊都子氏(1923-2008、随筆家)~「芸術新潮」昭和34年6月号】

「現存する最大の作曲家、そして音楽に関心をもつものは避けて通ることのできない近代音楽の魂であるストラヴィンスキーが、自分で自作の指揮をするのだから興奮しないではいられない。

5月1日、ストラヴィンスキー指揮のNHK交響楽団をきくために集まった人々の顔は、一種とくべつな熱烈さと純粋性にあふれていた。(中略)東京の文士や作曲家の姿も散見する。みんな、ストラヴィンスキーを自分の中に抱いている人々だ。

七十七歳になっているというストラヴィンスキーは、老人らしくたよたよとして舞台にあらわれる。正面にむかって九十度の深いおじぎをする。日本人でもめったにしなくなった深いおじぎである。そして無雑作に指揮をはじめる。(中略)面白いことは全楽器が大奮闘しているフォルティッシモのときには、彼は指揮を中止してハンカチで額の汗をふいている。そして音がしずまると、ガゼン彼の腕は激しく動き鋭いあいずを示す。(中略)NHK交響楽団も火のような清らかさで神経をハリつめた壮大な演奏をしていた。(中略)チェレスタに黛敏郎、タンバリンに指揮者岩城宏之が加わり、同じストラヴィンスキーの舞台にたつ喜びを味わっていたらしい。二度、三度アンコールにこたえて舞台の中央に戻ったストラヴィンスキーは、そのたびに客席に三度、あの深いおじぎをくりかえし、後のオーケストラ奏者に礼をする。(中略)前かがみになり、心臓の下に手をあてて、あらわれては消える老作曲家の姿に、涙のにじむのをとどめることはできなかった。」

 

→自分がもしその場にいたらやっぱり生ストラヴィンスキーを見ただけでジーンとなったと思います。YouTube動画では黛氏と岩城氏がなんとなく確認できました。


2.【評論家代表:吉田秀和氏~「音楽芸術」昭和34年7月号】

「このあいだ、イゴール・ストラヴィンスキーが日本にきて、自作の指揮をしていったのをきいて、この指揮をする作曲家のすがたがどこで接してみても、あまりにも、同じなのに、強い印象をうけた。(中略)とにかく、公衆との共感に、土地柄での差というものが、あるのだろうぐらいに、かねがね、思っていた。

それが、ストラヴィンスキーでは、ちがっていた。そういえば、大変失礼な言い草だが、当代一流をもって目されているフィラデルフィア・オーケストラやハンブルクの西北ドイツ放送局のオーケストラを相手にした時も、N響を相手にした時も、彼のわたしの前にえがいてみせた音楽は、本質的に同じものだった。東京の公衆と、ニューヨーク乃至はローマ、ハンブルクの公衆とは、そのうえ、大変ちがうものなのに。

一体、音楽家―演奏家にしても作曲家にしても―のなかには、「自分の公衆」というものを、特に、強く必要とするものと、それほどでもないものと、まあ、わけてみれば、二通りの区別があるのだろうか。

それは、また、単に、音楽会にあつまった時の人間の集団という意味での、「公衆」ばかりでなく、もっとひろく、深く、芸術家として、自分の芸術を育て維持し、発展させてゆくために、特に強く、自分にあった精神的自然的風土を必要とするものと、それほどでもないものと、二通りあるという風に考えられるのではなかろうか。」

 

→良く言ってるんでしょうか?まあ、悪く言ってるんでしょうね。「作曲家の指揮はつまらない」っていうのが常識らしいですが。。

 

3.【NHK交響楽団代表:オーボエ奏者の川本守人氏~佐野之彦著『N響80年全記録』(文芸春秋)171ページより】

「自分の作った曲に対する思いがこちらにひしひしと伝わってくる。『火の鳥』の練習中にセカンドヴァイオリンの譜面を直すんですからね。作ってから何年も経っているのに、これでもかと、納得するまでよくしていきたいという気持ちを感じました。偉大な作曲家というのはこういうものかと。あの姿勢には本当に感動させられました」

 

→ かなり気合の入った練習をしたんですね!

 


4.【ストラヴィンスキーのNHK交響楽団に対する感想~「音楽芸術」同月号】

「ここのオーケストラと仕事をしてみて、ぼくは、楽員たちが、テンポの感覚(センス)をもっていないことを、確信するようになった。御存知のように、テンポはリズムとは別のものだ。ところで、ぼくは、「雅楽」をきくと、そのテンポはすばらしい。だが、ぼくはその音楽は理解できない。楽員たちは、これと似たようなことを、やってるわけだ。ぼくの「火の鳥」で、ぼくはテンポに関するぼくの考えを、彼等に理解してもらうことが、とうとうできなかった。その他の点では、このオーケストラは非常に満足だった。彼等はすばらしく協力してくれた。だが、テンポは、あのひとたちは、どうしても、わかってくれなかった。

 

→ガチョ~ン

 


大阪でN響を指揮するストラヴィンスキー

(追記) ストラヴィンスキーのテンポに関する考えがどういうものか分からなかったのですが、『芸術新潮』昭和32年9月号の「ストラヴィンスキー・34の質問に答える」という記事のなかにそれらしきものがありました。

質問者 シェーンベルクは、良い演奏をするテンポは一つしかないと提唱していますが、これに賛成なさいますか?(シェーンベルクは、テンポの不確かな曲の実例として、ハイドンの《皇帝クワルテット》からとったオーストリア国歌を挙げている)

ストラヴィンスキー 私は、どんな音楽作品も、必然的にただ一つのテンポを持っているべきだと考えています。テンポがいろいろになるというのも、もとを正せば、演奏家が自分の演奏する作品にあまり親しんでないからか、または、それを解釈するのに個人的な興味を感じているからなので、ハイドンの有名な旋律の場合だって、テンポに何らか不確実さがあるとすれば、その誤りは、それを演奏する無数の人たちの驚くほかない振る舞いのうちにある。


→ テンポがただ一つと考えているからこそ、ストラヴィンスキーの指揮姿が吉田秀和氏にはいつでもどこでも同じように映ったんだな、と合点がいきました。ちなみに小林利之著『ステレオ名曲に聴く』(東京創元社)の165ページにも『...カラヤンの解釈を「全然まちがっている」と断言したのが、じつは作曲家ストラヴィンスキーです。彼の持論は「音楽は解釈されるべきものでない」というのですから、当然でしょう』という記述があります。

しかしながら、当時のN響が、テンポはただ一つという大して難しくもなさそうなことを何故理解できなかったのか依然として疑問が残ります。

もしかしたら日本人は日本古来の音楽の伝統にDNAレベルで支配されており、自分でも気がつかないうちに本能的に部分部分のテンポを変えてしまっているとか? (例: 酔っぱらいのカラオケおやじ)

(追記)

篠崎史紀氏エッセイ『ルフトパウゼ』にテンポ問題に対するひとつの答えがありました!

(2014年8月23日の記事にポスター画像を追加しました)