チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

カラヤン初来日時にカメラマンが苦労して撮影した写真(1954年)

2016-02-28 23:34:35 | 来日した演奏家

カラヤンが1954年に単独で初来日してNHK交響楽団を振った際、カメラマンの船山克氏が撮影した写真とお話が『アサヒカメラ』1954年7月号に載っていました。相当苦労されたようですね。

↑ イケメンですね!

ちなみに1枚目はこのブログのカラヤンとハイフェッツ同時に来日と同じ画像です。それ以外の写真が撮影された順番はわかりませんでした。

 

以下、撮影者の船山克氏の苦労話です。
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NHKの会議室で、カラヤン氏と記者会見のあった日、第一印象でいい顔だなと思った、何でも舶来ならばいい顔に見えるというクセもないわけでもないが、その中でも写欲をそそる顔には違いなかった。早速、N響の有馬氏に撮影の交渉をお願いしたところ、当のカラヤン氏はなかなかの神経質とみえ、あっさりOKという返事は頂戴出来なかった。この前のマルティノン氏の時には、強引なもぐり込みで、演奏中、指揮ぶりを何枚か記録できたが、今度はそう簡単には行きそうもなく、手ごわい相手らしい。

そのうち、初めてのテレビ放送の際、NHKからの連絡で出掛けて行った。いかなる条件で撮影出来るのか、その様子がわからぬのでライト一式をかかえて乗り込んだものの、話を聞くと、本番に入る前に少し練習をやるからその間に撮ってくれとのこと。

さらばと、スタジオ内に作られたオーケストラの台上に腰をすえて、カラヤン氏の現われるのを待った。十五分前、十分前、五分前となっても彼の姿は現われない。本番になってしまえばいやでもテレビの視野外に身をさけねばならない。いらいらするうち、一分前にやっとカラヤン氏が現われた。だが、もはや台上に踏み止まっているわけには行かない。練習なしのいきなり本番で、今更話が違うといってもはじまらない。右の袖に逃げて、放送開始直前の彼のポーズをまず写した(一番上の写真)。

その後は、身を露出させておくわけにも行かず、やむを得ず、テレビ撮影機の三脚の間にもぐりこんで屏風のすき間から、伏せの姿勢のままで撮影という破目にたちいたった。それでも、どうにか彼の荘重な指揮ぶりを、何コマか収めることは出来たものの、おかげで撮影に同行したE編集部員に、アンマの代わりまでしてもらう始末とは相成った。
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。。。文に「初めてのテレビ放送の際」とあるので、1954年4月6日(火)、NHKのスタジオだと思われます。曲目はブラームスの交響曲第1番。



↑ 最初の写真に写りこんでいる第1ヴァイオリンの楽譜を見ると確かにブラームス1番っぽいです。

ところで指揮棒を持っている写真と持っていない写真がありますね。第2楽章等は持たずに指揮したんでしょうか?それとも指揮棒すっ飛ばし?(調べます)


シェーンベルク『グレの歌』日本初演(1967年)

2016-02-22 20:16:38 | 日本初演

『音楽芸術』誌1967年8月号から「グレの歌」日本初演の画像です。1967年6月15日(木)東京文化会館大ホール。



読売日響創立5周年を記念して、第40回定期で常任指揮者・若杉弘(1935-2009)の指揮のもと演奏されました。

画像からもわかるように若杉さんはなんと、暗譜。

ちなみに声楽は
ワルデマール:宮原卓也(1928年生まれ)/トーヴェ:毛利純子/山鳩:長野羊奈子(1933-2014)/語り手:中山悌一(1920-2009)/農夫:平野忠彦(1938-2014)/道化師クラウス:藤沼昭彦(1933年生まれ)/混声合唱:東京混声合唱団、二期会合唱団、日本合唱協会/男声合唱:TCF合唱団、上智大学グリー・クラブ、東洋大学白山グリー・クラブ、早稲田大学コール・フリューゲル...という布陣でした。(鈴木匡氏による雑誌記事と「東京文化会館アーカイブ」の情報が一致。)

記事によると合唱は力不足な感じだったようですが、特に学生の合唱団は大作の初演に参加することができて幸せでしたね!自慢でける。

この演奏会は超満員の盛況だったようです。当日売りは一枚もなく、楽員用の招待券も入手困難だったとのことで、合唱付き超大オーケストラということで話題性が高かったんですかね。

ところで「超大オーケストラ」ってことで気になるんですが、上の写真のオーケストラはそんなにバカでかくないような?

もしかしたら、この日本初演はいわゆる「縮小版」によるものだったんでしょうか。

オリジナルだと木管だけで25名必要な筈のところ、上の写真ではそんなたくさんいるようには見えません。(写真ではよくわからないので断言できませんけど)

もし縮小版だったとすると、オリジナル編成での日本初演がいつ、誰によってなされたのかが気になってきます。

そもそも、ときどき演奏されるという縮小版ってシェーンベルク自身による縮小なんでしょうか?わかったら追記します(勉強不足)。

 

(追記)同日の公演の全体像です。音楽の友社『音楽データ・ブック』より。編成は縮小版でなく、やっぱりフルサイズのようですね。


土佐・日曜市のレコード屋さん(1954年)

2016-02-20 22:19:03 | メモ

『アサヒカメラ』1954年8月号より高知市内の日曜市のレコード屋さんです。1954年4月11日の朝撮影。

おばちゃんがまわす立派な蓄音器は日本蓄音器商会(のちの日本コロムビア)の「ニッポノホン第50号」です。(「時代屋ちとせあめ」さんのブログでわかりました。)

無造作に並べられているレコードの中にクラシック音楽のものもあったんでしょうか?宝の山!? 時空を越えて一枚一枚見たくなる~


園田高弘氏が撮った三度目の来日直前のジャック・ティボー(1953年4月)

2016-02-16 22:47:16 | 来日した演奏家

月刊誌『婦人之友』の古いものを読むと、音楽雑誌でないにもかかわらずクラシック音楽ファンとしては見過ごすことのできない記事がしばしば見受けられてビビります。



1954年3月号には、ヨーロッパ遊学のため1952年に日本を発ちスイス、フランス、イタリアと各地をまわって翌年帰国されたという、高名なピアニスト・園田高弘氏(1928-2004)が自ら撮影された貴重な写真が掲載されていました。



↑ 三度目の訪日を楽しみにしながら来日途中(※追記を見てください)の飛行機事故(1953年9月1日)で亡くなったヴァイオリニスト、ジャック・ティボー。やさしさがにじみ出ていますなー。

日本人は悪くないとわかっていながら「すみませんでした」という気持ちにさせられます。1936年の2度目の来日が結果的に最後になってしまったティボー氏は、事故の数ヶ月前の1953年4月のパリで園田氏から来日演奏会のためのインタビューを受けていたそうで、これはそのときに園田氏が撮影した写真です。

そのときのインタビューでティボーは「日本の食べ物はおいしいものがたくさんある。チャップリン氏と私は寿司をにぎってもらって食べたのだが、彼は28個も食べてね」と愛嬌たっぷりに話していたということです。園田氏のこのインタビューの全貌が雑誌等に収録されていたら是非読んでみたい。


さて、園田氏撮影の写真としてもう一枚は、フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのチケットを買うための行列。



パリの人たちは午前11時のチケット発売のため朝6時頃からオペラ座の前でこのような行列を作っていたらしいです。行列は日本人だけの風習ではないんですね!

 

(追記)

ジャック・ティボーはパリから日本へ行く途中ではなく、パリからサイゴンに向かう間に飛行機事故に遭ったということです。

最初の計画では日本を訪れた後、サイゴンでコンサートを開くことになっていたが、何かの都合でサイゴン→日本の順に変更。パリのオルリー空港から、ニース、ベイルートを経由しサイゴンに向け飛び立った飛行機がフランス・アルプスの支峰モン・スメの頂上付近に激突炎上、ティボー、彼の長男ロジェの未亡人、そしてピアノ伴奏者のルネ・エルバン(René Herbin, 1911-1953)を含む乗客33人、乗務員9人の計42人全員が帰らぬ人となったということです。

↑ その情報は殿木敏達著『ジャック・ティボーの世界』より。まさに「この本読まずしてティボーを語るなかれ」、という内容でまたもやビビりました。


エイドリアン・ボールトの指揮棒コレクション

2016-02-12 21:16:58 | メモ

イギリスの指揮者、エイドリアン・ボールト(Sir Adrian Boult, 1889-1983)です。

 

ボールトの指揮棒コレクションの写真がヘレナ・マテオプーロス(Helena Matheopoulos)著、"Maestro"(1982年)という本に載っていました。

元・持ち主は、上から

・サー・ヘンリー・ウッド(Sir Henry Wood, 1869-1944)

・アルトゥル・ニキシュ(Arthur Nikisch, 1855-1922)

・ボールト自身(上の写真と同じものか?)

・アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867-1957)


。。。ハリー・ポッターの魔法の杖のような雰囲気ですね。やたら長いしトガってる。。凶器になりそう!?

この時代からくだっていくと指揮棒はどんどん短くなる傾向にあるんでしょうか。果てはゲルギエフの爪楊枝か。