チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

音楽之友社名曲スコア(60年前)

2014-02-28 22:29:33 | メモ

我ながら最近古い音楽雑誌に引き込まれてるなー、もうちょっと新しいものにも興味を持たねば、と思うんですがもともとクラシック音楽っつー古いものが好きなんですから仕方ないですね。

下のは昭和28年8月号の「音楽芸術」の名曲スコアの宣伝ページです。
フィガロの結婚序曲とか30円!このページの全部のスコアまとめて買っても5千円くらいやん。(参考価格:運命は当時160円ですが、現在は800円。)

ところでラロのスペイン交響曲っていまではあんまり聴かれないけど昔は人気あったんですね。
我が国における受容史をちょっと調べたくなりました。





ストラヴィンスキーのケチ伝説

2014-02-24 22:58:19 | メモ

クラシックの作曲家って亡くなると早速神格化が始まりますが、生きている頃はいろいろ言われちゃってるっていう一つの例が80歳の誕生日を迎えた頃のイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882-1971)であります。

【ストラヴィンスキーがケチだったという証拠】

その1.ストラヴィンスキーは形式的なインタヴューが大嫌いで、めったにジャーナリストのお相手をしない。彼は次のような理由からインタヴューを排撃する。

・「私の」時間の浪費

・質問がマトはずれでないときですら、どこから話を始めてよいかわからないことになり、大切な話題の背景ともなるべきものを伝えることは不可能だ

・インタヴューすることが一つの事業なのだから、インタヴューされる者にも当然謝礼を払うべきだ

その2.ヴェニスはストラヴィンスキーのお気に入りのイタリアの町だ。彼の数多くの初演曲が同地で演奏された。彼は作曲料を前払いしてもらいたがるし、また他の誰よりも多くの謝礼を欲したがるので、彼は『ヴェニスの商人』というアダ名をもらった。

その3.ロンドンで、ロイヤル・フィルハーモニック協会から金メダルを授与されたとき、「何カラットか?」と尋ねたとか。

その4. ある友人が、貴方のような偉人は適当なモノグラム(氏名の頭文字などの組み合わせ文字)を持つべきだ、と言ったところ、ストラヴィンスキーはすぐにペンを取って、ストラヴィンスキーの頭文字「S」の上にイーゴリの「I」を重ねた。。。その結果、$(ドル)というモノグラムになった。

(音楽の友 昭和37年7月号 定価160円より)


。。。なかなか愛すべきお爺さんですね!


『カラヤンの指導を受けて』(初来日1954年)

2014-02-23 00:22:01 | 来日した演奏家

『音楽芸術』昭和29年7月号「カラヤンの指導を受けて」という記事を読んで感動しました!



N響の招きでカラヤン(当時46歳)が単独初来日した時に「NHKの別館内に新設されたN響練習場」(内幸町か?)において日本の5人の指揮者がレッスンを受けたそうなんです(1954年5月6日、オーケストラはもちろんN響)。5人の指揮者とは

平井哲三郎(b.1927)

前田幸市郎(1921-1989)

石丸寛(1922-1998)

外山雄三(b.1931)

三石精一(b.1932)

平井氏が悲愴の第1楽章の展開部に至るまでの部分、前田氏が同じ部分、石丸氏がブラームス1番のフィナーレ、外山氏が運命の2,3,4楽章の一部分、三石氏がエグモント序曲、最後に「展覧会の絵」(ラヴェル編)よりカタコンブをひとりずつ代わるがわるやらされたそうです。

指揮台の後方にはクラウス・プリングスハイム(Klaus Pringsheim, 1883-1972)、クルト・ヴェス(Kurt Wöss, 1914-1987)、山田一雄(1912-1991)、斎藤秀雄(1902-1974)、森正(1921-1987)らもいて、若い5人は相当緊張したみたい。

「(カラヤンは)大変に親しみのある気軽さで、これから指導してやるとか、教えてやるとか言う風な圧力的なものは何も感じられず至極熱心に指導に当たられたのには感激した」(前田氏)

「(カラヤンの)熱心さは驚くべきもので、オーケストラに「もう一度お願いします」と云うのが全く気の毒になる思いがする程であった。そう云う訳で1人5分から10分位の演奏というのが20分から30分になり、休憩の時も部屋に五人集めて、それぞれ細かい注意を与えながら指揮法の原理にもおよび、2時から始まって4時までの二時間と云う短時間の間が、かくも有効かと思われる程得難き収穫を得る事が出来た。」(平井氏)

「カラヤンが颯爽と入って来てN響楽員に対する感謝の挨拶が簡単に終わるとまず平井君から早速指導は始まる。最初はヴィオラの後方から眺めていたカラヤンはやがて指揮台の直前に坐り込んであの灰色の眼で穴のあく程指揮者を見上げている。これは堪ったものではない。80名の充分なる音楽経験者を前にして既にその威圧に思うさま自分を発揮できない我々である。世界的指揮者からほんの2メートルも離れないところで見つめられていたのでは五里霧中とでもいうべきところだろう」(石丸氏)


この時、カラヤンが一番教えたかった重要なことは何であったのだろうか?

「指揮をするという要領はたとえば馬に乗る要領と同じだ。馬に乗りその馬を走らせるのに只無暗に乗手が気負いこんで鞭を当てて拍車を当てても無駄だ。其の場合、馬は走ってもそれはすぐ疲れて終う。それより其の馬が最大の能力を発揮出来る状態に導きながら、時には鞭を、時には拍車を加えつつ走らせる事が大切だ」(前田氏)

「指揮者の考えている音楽を如何に相手にわからせるか、と云うことがその総てであって、それが何をなさんかとするかわからずにやっていたのでは、楽員は決してその音楽を感じる訳がなく、又聴いている人は、もっとわからない訳である」(平井氏)

「"Let them breathe!"(楽員に息をさせよ!) カラヤンは繰り返し言った。常にそれぞれの箇所の音楽を呼吸させる事。私達が共通のテキストとして与えられた曲はカタコンブだが、この時にも彼は「深い感情を伴うフォルテッシモの時にはその一拍前で既に楽員は深い息をすることを望んでいるのだ」と言いつつアインザッツ(指示を与えること)の棒が上がる前にこの深い息ができるような―言い換えれば指揮者自身も楽員と同じ深い息をすることを注意してくれた。彼はこの様な事を実際に棒を振らせて体験させたのであるが、ただ深いアインザッツのために矢鱈に手を大きく振り上げたときに「では梯子を持って来ればもっと高く上がるよ」と冗談を言ったりもした。短い小さな動きの中にさえ充実した深い緊張を表すことを、ただ棒の振り方でいくら練習しても無駄であろう。私達自身の中にその様な深い音楽を感じ、持つのでなければ...カラヤンはこの事を教えるためにむしろ私達に棒を振らせたのである。」「ちょっとでも解らない箇所がある間は指揮台に立つなとまで極言した。」(石丸氏)

 

↓ 後ろはN響事務局長有馬大五郎氏(カラヤンの左はどなたですか?)藝術新潮昭和30年6月号


。。。なるほど、テクニックより大事なことをカラヤンは教えたかったのか!カラヤンという人間がますます好きになってしまいます。ところでこの時の映像か録音はNHKに残っていないんですかね?

 

ちなみに初来日時の「悲愴」のライブCD(1954年4月21日)、N響はまるでベルリン・フィルのような音を出していますね。石丸寛さんの記述によるとカラヤンはN響について「理解力に傑れ、敏感な反応を示すオーケストラ」と言ったそうです。最後の拍手は当時のクラシック後進国っぷりを露呈してて興味深いですが。。【音まだ鳴ってんじゃん!】

1954年、NHKテレビに出演のカラヤン(芸術新潮昭和29年5月号)


ショスタコーヴィチ 交響曲第4番初演 (1961年12月30日コンドラシン指揮モスクワ・フィル)

2014-02-18 21:55:36 | メモ

「第12番」の際はレニングラードのフィルハーモニック・ホールだったが、今度はモスクワ音楽院の大ホールであった。第8列目の座席に腰を下ろしたショスタコーヴィチは額の汗をぬぐったり、そわそわして落ち着かない様子で開演を待っていた。彼のまわりには、氷点下11度の厳寒をものともせず、全モスクワの作曲家、批評家、芸術家がつめかけ、やはり興奮した面持ちで開演を待っていた。彼らは当夜が音楽的にも重要な意味を持つことを痛いほど意識していたのだった。

当夜「初演」された問題の「第4番」は25年間作曲者のデスクの中に眠っていたのである。当時(1936年)ショスタコーヴィチのオペラ「ムツェンスクのマクベス夫人」とバレエ「明るい小川」の二大作は芸術上の大罪を犯したカドによって弾劾された。罪状は「スターリンの”社会主義レアリズム”を守ることへの怠慢」であった。「第4番」はリハーサル中に批判されたため作曲者はただちにひっこめてしまった。

昨年の春、近年西欧やアメリカでも活躍しているソ連の国際的名指揮者キリル・コンドラシンがショスタコーヴィチに「第4番」の決定版は完成したかと尋ねたところ、作曲者はうなずいてスコアを渡したのである。

初演の反響はすばらしかった。同僚のアラム・ハチャトゥリアンは顔中をほころばせて「非凡だ ― 偉大な楽想だ」と感嘆した。また別の作曲家は名前を出さないでくれと断りながらこう断言した ―「力強く、想像力の豊かな作品です。その不協和音や現代性を好まない人たちもあるでしょうが、彼が今までに書いた最高の作品の一つです。これこそ本当のショスタコーヴィチだ」

この曲の特色は民族的な風味が全くないことで、耳をつんざくような不協和音から優しいリリシズムに至るまで、社会主義レアリズムとは縁の遠い現代的作品で、「第12番」とは全く別の世界に属するそうだ。演奏の終わったあと、チェーン・スモーカーのショスタコーヴィチは片時もタバコを手から離さず、お祝いのコトバを受けるたびに、いつものように神経質な態度で返事をしたものだ。

「初めて書き上げたときでさえ、気に入らないところがありました。それ以来、私は何回となく手を入れました。今夜演奏されたのは私が気に入っている決定版です。」

(以上『音楽の友』昭和37年3月号より)


。。。「何回となく手を入れた」ということはやはり、1936年当時の姿とは大きく変わっているんでしょうね。とても「デスクに眠っていた」とは思えないです。あと、名前を出したくなかった作曲家って誰?