チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

古いオーディオの広告2つ

2021-10-10 22:22:22 | オーディオ

古い雑誌からオーディオの広告2つです。

まずは1929(昭和4)年のアサヒグラフからコロムビア蓄音機No. 114です。価格100円。

きれいなかたですね。有名な女優さんか何かでしょうか。

 

 

次に、ちょうど30年後、『週刊公論』1959(昭和34)年新年特大号。

表紙がそのままナショナルのステレオの広告になっています。

↑ 名女優・高峰秀子(1924-2010)。『二十四の瞳』の頃ですね。草月会館にて。犬がちょろちょろ動いたりして撮影には3時間半もかかったそうです。撮影は中村正也氏(なかむら まさや、1926-2001)。

ファッションデザイナー中林洋子さん(なかばやし なみこ、1920‐2001)。上のステレオ(HE-1000)、当時80万円もしたんですね。1959年の消費者物価指数(17.2)で割り返すと2020年で460万円!

 

。。。気に入ったステレオの広告があればここに追加します。


アポロン蓄音機試聴会(名古屋・大阪1932年)

2020-04-10 16:21:51 | オーディオ

【2015年7月30日の記事に画像を追加しました】

『レコード音楽』1932年6月号より、大阪と名古屋におけるアポロン蓄音機の試聴会の様子です。

まずは5月15日の夜、大阪は長堀の「日鮮会館」における試聴会。

主催は心斎橋筋の「酒井公声堂」。




次に名古屋5月17日夜、YMCA大ホールにおける「名曲レコード愛好会」及び「美濃喜蓄音機商会」主催の試聴会です。

ステージ上のえらそうなおじさんは上の写真と同一人物?



曲目はといえばHMV当時の傑作レコード、ドビュッシーの前奏曲第1巻(コルトー)をはじめ、パガニーニの第1ヴァイオリン・コンチェルト(HMV)、ベートーヴェンのスプリング・ソナタ(英国コロムビア)等、日本未発売の優秀レコードで飾られたそうです。


。。。大阪・名古屋とも満席に見えますね。88年前の日本にはすでに熱心な音楽・オーディオファンがたくさんいたようで、うれしくなります!

 

(参考) 同じ雑誌から、大阪での試聴会の主催者である酒井公声堂の広告。

 

↓ 毎日年鑑1921年(大正10年)版より。「結極は酒井でなうては調ひませぬ」およそ100年前の良き時代の雰囲気が伝わります。


東京・銀座スキヤ橋のレコードショップ、ハンター(1960年)

2016-10-25 22:44:36 | オーディオ

1960年頃の雑誌から、銀座の数寄屋橋にあったレコード屋「ハンター」の広告をいくつか集めてみました。


↑ スキヤバシ・ショッピングセンター2階にあったんですね。中古レコードの買取りをしていたことで有名だったそうです。ブックオフの走り?

 


↑ 大特売1,000円。みなさんスーツで身を包んでいらっしゃいますね。

 


↑ 繁盛しています。

 


↑ 意外と店内は狭い?右奥がクラシック・コーナーか。

 


↑ 右上にバックハウスの写真。その下にいる学生さん、すごくマジメそう。応援したくなります。

 

。。。レコードが熱い時代だったんですね。


日本初のラジオ放送とカーピ歌劇団(仮放送、1925年3月1日)

2016-09-03 22:22:53 | オーディオ

「国際写真タイムス」大正14年(1925年)4月号に日本初のラジオ放送の様子が載っていました。



1925年3月1日(日曜)午前9時から芝浦の東京放送局から「仮放送」が開始。なぜ仮放送なのかというと、芝浦の機械に不備があったため正式な認可が下りなかったためだそうです。(このへんはWikipediaに詳しいです)

 



↑ ラジオ放送機試験中。ゼネラル・エレクトリック社製の無線電信電話機を改造したのがこの機械?

 



↑ 仮放送のスタートは海軍軍楽隊の演奏。指揮はどなたでしょうか。

 



↑ ラジオ局総裁・後藤新平が自宅書斎で聴き入る。

 



↑ 逓信大臣・犬養毅が病床を出て夫人や芳沼氏令嬢昌子さん(右)元子さん(左)と放送を聞く。

 



↑ 歌澤家元の歌澤右寅衛門と娘の寅秀さん。(女性ですよね?)

 



↑ 歌声がオンエアされた、帝劇で開演中のイタリアの歌劇団のスターたち。


左から
アムブロソ(Ambroso、ソプラノ)
ヘンキナ(Henkina、ソプラノ)
ビガルディ(Bigardi、ピアノを弾いていますがバリトン歌手)
後ろの、くちヒゲの方は不明。【この人こそ、カーピさんだそうです。土似舌亭さまコメントありがとうございました】

(追記)

上記イタリアの歌劇団は「カーピ(Capi)歌劇団」でした。1923年1月の初来日に続く2度目の来日(1925年2月16日横浜到着、総員70余名)で、初放送日3月1日から16日まで帝劇で公演。その後、大阪、京都、神戸でも公演(増井敬二著『日本オペラ史~1952』(水曜社)より←この本恐るべし)。


大正時代のSPレコード製造現場(1924年)

2016-07-18 22:02:11 | オーディオ

『国際写真情報』大正13年(1924年)3月1日号に日本のSPレコード工場の写真と記事が掲載されています。

 



↑「発明王エヂソン氏が蓄音機を発明してから未だ幾年にもならないが」だって。

 



↑ 1.「オーケストラ、三味線を吹き込む時は室内の温度を適当にあたためて音波の伝播に都合のよいように調子をとるのがなかなかむずかしい。」

 



↑左 2「吹き込み機械で、蝋板の上に音波を刻んでゆく。」
↑右 3.「吹き込んだ蝋板を銅でメッキする。」

 

↑ 4.「メッキされた銅板を更に銀メッキして、レコード複製用とする。これに銅板(一分位の厚さ)のものをシンとしてハンダで貼りつける。」

 



↑ 5.「蝋板からレコードのできるまで。右より吹き込みの蝋板、銅メッキしたもの、それを銀でメッキしたもの、これを引き離したもの即ち精製用の原型。この原型に流し込んでいよいよ発売する。」

 



↑ 6.「こうして出来た原型に今度はレコードの原料になるラックを流し込む。このラックの質の良否は発声に際して影響があるから充分選択する。」(なぜか画像が上半分しか表示されないことがあります)

 



↑ 7.「6でラックを挿入したものを中央にある機械に入れて乾燥させる。そして取り出すとレコードが出来る。」

 



↑ 8.「出来たレコードは原型から離して仕上げをする。これでいよいよ発売の段取りとなる。」

 



↑ 9.「発売盤及び機械の製作。」


。。。どこの工場であるか判明せず残念ですが、SPとLPの違いだけで大正時代のレコードの製造過程が昭和とほとんど同じというのは意外でした。