チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ショスタコーヴィチお気に入りのタバコ

2014-10-31 19:56:53 | メモ

ショスタコーヴィチは煙草を吸う写真が数多く残されています。

ヘビー・スモーカーだったようですね。ストレスも人一倍多かった?

 

音楽之友社『わが父ショスタコーヴィチ』147ページによると、特に「カズベック」がお気に入りだったそうです。

ショスタコ・ファンで煙草を吸う人なら彼の音楽を聴きながら試すべきですね!

 

↑ 1965年撮影


ヴァイオリン製作者・山田健三(要調査)

2014-10-30 22:31:19 | 楽器

昭和10年頃の音楽雑誌を読んでいると中野区「富士絃楽器社」の「手工バイオリンお求めならば先づ山田の作品を」という広告がよく出てきます。ヴァイオリンだけでなく、ギターやウクレレも作っているんですね。

この「山田」っていったいだれ?

 

さらに調べると「音楽新潮」昭和10年8月号にやっと「山田健三」というフルネームを見つけました。↓

富士絃楽器社の社長さんだったんですね。

 

↑ 「社長自作手工バイオリン工作実況」 同誌昭和9年6月号より。

 

ストラディバリウス型、アマティ型、ガルネリ型等もあり、当たり前ですが相当器用な人だったと思われます。ネット情報によるとやはりヴァイオリン製作者の鈴木政吉(1859-1944)の甥であることは判明したのですが、他には生没年からしてわかりませんでした。

今でも山田健三製ヴァイオリンを使っていらっしゃるかたもいるようで、ちょっとこのひとのことを調べたくなりました。ドラマがあるかも!?


シューベルトの映画6本(1933年~)

2014-10-25 23:38:32 | メモ

シューベルトの映画で一番有名なのはやはり「未完成交響楽」ですよね!

1933年オーストリア
原題:Leise flehen meine Lieder(私の歌は静かに願う)
監督:ウィリ・フォルスト(Willi Forst, 1903-1980)
シューベルト:ハンス・ヤーライ(Hans Jaray, 1906-1990)

 

。。。なぜあの交響曲が未完に終わったかのナゾが解けます!(解けない)

この映画の大ヒットをきっかけに、アメリカ、イギリスでもシューベルトの映画が作られていたとは。ブームです。

↓「シューベルトの恋


1934年アメリカ
原題:Love Time
監督:ジェームズ・ティンリング(James Tinling, 1889-1967)
シューベルト:ニルス・アスター(Nils Asther, 1897-1981)

 

。。。シューベルトが逞しすぎます。

 


↓ 「花咲く頃


1934年イギリス
原題:Blossom Time
監督:ポール・スタイン(Paul L. Stein, 1891-1948)
シューベルト:リヒャルト・タウバー(Richard Tauber, 1906-1990 オーストリアのテノール歌手)

 

。。。若干、おっさんだけど、一番シューベルトのイメージに近いかもしれません。

 

(追加)これらより20年ほど時代を下りますが、イタリア、オーストリアでシューベルト映画がさらに作られていました。

 

愛の交響楽

1954年イタリア
原題:Sinfonia d'amore
監督:グラウコ・ペレグリーニ(Glauco Pellegrini, 1919-1991)
シューベルト:クロード・レイデュ(Claude Laydu, 1927-2011)

 

"Ein Leben in zwei Sätzen"(二楽章の生涯)

1953年オーストリア
監督:Walter Kolm-Veltée (1910-1999)
シューベルト:Heinrich Schweiger (1931-2009)

 

 

未完成交響曲~シューベルトの恋

(↑ここから拝借しました。)

1958年オーストリア
原題:Das Dreimäderlhaus
監督:エルンスト・マリシュカ(Ernst Marischka, 1893-1963)
シューベルト:カールハインツ・ベーム(Karlheinz Böhm, 1928-2014 指揮者カール・ベームの息子)

 

。。。まだまだありそうです!


楽員の観た歴代のN響指揮者~チェリスト・大村卯七(1954)【その3】

2014-10-23 17:49:00 | メモ

大村卯七さんのN響指揮者についてのお話しの最後はワインガルトナー、マルティノン、カラヤン、そして尾高尚忠氏の思い出です。

【フェリックス・ワインガルトナー(Felix Weingartner, 1863-1942) 1937年来日】

今度は、客演指揮者の中、有名な三名を紹介することにしましょう。つい最近まで、世界中で神様みたいな指揮者は、二人いたと思います。ワインガルトナー先生とトスカニーニ先生です。二人とも不世出の、正に神人指揮者です。最近の若い洋楽ファンの方々のためには、この中、ワインガルトナー先生の方が大分前に世を去っているのでトスカニーニ先生よりも、どっちかと言えばおちめで、おなじみじゃないかも知れません。でも、こんな大神様みたいな偉い指揮者が、はるばる日本くんだりまで御降臨になったんですから、当時のひょうばんは大変なにぎわいでした。奥様も一緒でしたが、恰度ビゼーの歌劇「カルメン」と同名――或いは「カルメン」みたいにきれいだったからでしょうか?――のカルメンといわれる大変にお若く美しい、つまり絶世の美人と言い得る奥様でした。でも、カルメンみたいなあばずれ女の妖艶な美しさとは比較出来ない、つまりルネッサンス時代の宗教画家達がモティーフとして好んで画いている聖母マドンナみたいな、きりりっとしまった清純な感じの美人でした。

やがて、光栄にも、聖女カルメンさんの指揮で、ウィンナ・ワルツや、シューベルトの「未完成」などを演奏することが出来ました。曲も上々、うっとりしながら演奏しましたよ、むろんのことです。そうです。カルメンさんの初練習の時でした。それも、始まってから十分も経っていない、最初の最初です。ワインガルトナー先生来日、第一回目のお手合わせが、なんと!カルメン先生という絶好の幸運にめぐり合った訳です。むろん、張り切りましたとも

ところがです、側でみていた大神様が、女神様に注意して曰く。「そら、あの第一クラリネットは、あんなに大変に神経質な人ですから、貴女は、彼の顔をみないように、棒をふったほうがよいでしょう」。僕達の張り切り方もわかるというものでしょうが、大神様の鋭い神経と、巾の広い人格には、全然、おどろきました。神様たるゆえんでしょうが。



↑ カルメン・シュトゥーダー(Carmen Studer、1907年生まれ)


↑ ワインガルトナー夫妻1937年。『NHK交響楽団五十年史』より


【ジャン・マルティノン(Jean Martinon, 1910-1976)】

来日劈頭、ベルリオーズの「幻想交響曲」で、皆さんを熱狂のるつぼへ追い込んだ、ジャン・マルティノン先生は、つまり、フランス・エスプリの化身みたいな人でした。

先生の「サヨウナラ演奏会」、ベートーヴェンの第九交響曲演奏会でした。連続三日間、最後の演奏を終って、楽屋で僕達が着換えておりますと、姿をみせたマルティノン先生が、何か真剣な表情で、僕達メンバーに何事かを言い乍ら、ふかぶかおじぎをしています。さて、皆さん、一体なんていってたのか、ご想像がつきますか?「さっきは、大変失礼しました。第二楽章のスケルツォの中で、ベートーヴェンは確かに、三小節の休止を求めていました。それを二小節しか棒をふらなかったんですが、僕の頭が大変に馬鹿だからです。ごめいわくをかけました。ごめんなさい」。これが騎士道というのものです。

むろん、どんなにえらい芸術家でも、人間である以上、こんな間違いぐらいはあるでしょう。でも世の中のありふれた?指揮者達は、大概、オーケストラ・メンバーのせいになすりつけ、出来るだけ自分のミスをかくしたいのが本能というものでしょう。先生が、僕達仲間から、ひといちばいの人気を集めてたのも、こんな極く簡単な理由からですよ。僕達は、親愛を心にこめて、先生の再来を祈っているわけです。


↑ ヴェス外遊中に1953年10月8日に初来日したマルティノン。写真は10月13日、14日・日比谷公会堂でのN響定期。(音楽芸術昭和28年12月号より)

 


【ヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan, 1908-1989)1954年初来日】

第九の話をもう一つ。「世界の指揮者」――カラヤンの来日を讃える宣伝文句から頂戴しました。――ヘルベルト・フォン・カラヤン先生の告別演奏会も、やっぱりベートーヴェンの第九番交響曲でした。送別演奏会と、第九番交響曲とは、一寸、浅からぬ因縁があるみたいです。一度、世の博識の人にお尋ねしてみましょう。いかがでしょうか?

四月から五月のまる一ヶ月、くたくたに油をしぼられどうしの僕達は、最後のお別れ演奏会でベートーヴェンの九番なら、殆んどは、かたのにもつがおりたというもの、「おい!楽にいこうぜ!」ぐらいの気持でした。つまり、古参者の僕達は、過去と現在の間――多分この曲を百回くらいは、楽にてがけてますからです。ところが、どっこい。思ってた程、そうやすやすとおっこちないのが世のならい。練習が始ったとたんに、けちょん、です。本番(演奏会のこと)にいたっては、そのはげしいこと、そのものすごいこと、そのすさまじいこと、もうものなんぞいえるすきまがありません。つまり「本物」が、自分の魂の中で、本当にやしなった実力と、「本物」の健康な肉体の若さとは、とうてい想像なんぞ出来っこない程おそろしいものですぞ。

実力とは、抵抗の余地なぞ残さずに、人間がくったくたになる程、ひっぱり廻す魔力みたいなものだと思います。それでいて、人間が精神的な悦楽に恍惚となれるような魔力です。カラヤン先生の第九は正にこの魔力の撥発的な美しさ、とも言えるような気がします。心に悔いることなしに、精力の心地よい消耗を経験することが出来ましたのも、生涯に唯一度かも知れません。心の洗濯。むろん僕達には、精一杯の、むしろ背のびもした演奏でした。先生の天性が要求する技術には、とうていこたえるすべのないことを、実感として。


【尾高 尚忠(おたか ひさただ、1911-1951)】

最後に、尾高尚忠君の霊に。生前の話です。僕と尾高君は、喧嘩友達という、珍しい親友の間柄でした。例えば、「尾高君。君は偉大なとうしろ(素人)コンダクターだ。だから、あと十年、外国で勉強して来いよ。今度こそ、偉大な玄人コンダクターになれるんだが。」その尾高君が、今ではもう天国にいるという。天国では、ちと遠すぎて喧嘩も出来ない。おさみしいことです。尾高君は、いい腕前の棒振りでした。天国行きの直前にラザール・レヴィと協演した、シューマンのピアノ・コンツェルトが、まだ僕の耳の奥で響いています。生涯消えることのない、尾高君のプロフィールとも言えましょう。

 

。。。こんな歴史に残る指揮者たちのもとで演奏した大村さんらも既に歴史上の人物ですね!


楽員の観た歴代のN響指揮者~チェリスト・大村卯七(1954)【その2】

2014-10-22 22:12:00 | メモ

きのうのつづき、大村さんのローゼンシュトックとヴェスについてのお話です。

【ヨーゼフ・ローゼンシュトック(Joseph Rosenstock, 1895-1985)】


先刻のお二人(ケーニヒとシフェルブラット)を、N響のために「光を掲げた人々」と云えるなら、ヨーゼフ・ローゼンストック先生は、N響に「魂」をぶっこんだ神様に近い人というべきでしょう。ローゼンストック先生は、確か昭和十一年に日本に来られました。それから十年もの永い間、僕達を技術的に、精神的に御指導下さったわけです。「現在あるN響」の殆ど大半は、ローゼン先生一人の、超人的な偉業のたまものというべきでしょう。先生の偉業は、日本交響楽史上、唯一の金字塔として、未来永劫迄、記念されるでありましょう。

僕は、あなたがたを最上のオーケストラ・メンバーに仕上げたい。そしてあなたがたと一緒に『僕達のオーケストラ』を創り出したい」。これは先生の理想であり、魂でありました。同時に僕達には、今なお、不変のスローガンであり、N響魂でもあるわけです。ですから、先生の訓練は、正に峻烈きわまりないものでした。たまには、残酷なしうちをうらみに思ったことさえありました。文字通り、死の苦しみをなめてきたわけです。毎シーズン、終末に近づきますと、仲間の二、三人が肺病にたおれ、病院におくりこまれていったものです。おおげさではありません。実話です。極く最近のことですが、「大村君。N響を随分いろんな人が棒振ったけど、でもローさん程の棒のテクニシャンは一寸いなかったね。当代未聞の人だよ。むろん日本で聴いた範囲で、だ」と、僕の或る友人が話していました。が、是非は兎に角、ユニークな技術的に洗練されてる、むしろ時によっては強引なものさえ感じさせたこともありましたが、そのくせ、細いディテェルもみのがさないデリカシーな神経が、適当に按配されているという完璧なものでした。天性からが豊かなロマンティストであり、それと鋭敏な現代的感覚とが、よく調和して、おのずと先生独特の風格(スタイル)を創り出していたわけです。「楽員のみなさんが一緒に、波に乗って演奏しなければいけません。」これは、つまり、先生の音楽の「呼吸」のようなものでした。演奏会、練習、或いは私生活などで、先生から、びっくりぎょうてん、させられたお話も、数えきれない程沢山ありましたが、中でも特に、文字通りに正確無比なテンポ感覚は、誰も真似ることの出来ない、一寸、無類なものの一つでした。定期練習の八ヶ日の間は、おろか演奏会の最後の日迄、全然テンポがくずれないんですから、ぎょっ!というよりは、むしろ、不思議が先立ってしまう始末です。過去と現在の間 ― 僕達は、約二十人近い、いろんなケースの棒振り達と一緒にやってみましたが、後にも先にも、こんな経験は、先生が初めてでした。

或る日。ひとむかし程、まえの話。日比谷公会堂から、先生の指揮で、ベートーヴェンの第九番シンフォニーを中継した時のことです。NHKでは放送時間の都合で、第四楽章だけを電波にのっけることになっていました。処で、「先生。何時何分?にスイッチを切り換えましょうか?」。ミキサーが大変心配して、先生にうかがったものです。「そうですね、第四楽章は、丁度七時から始めることにしましょう」。こうして、演奏のテンポと第一、二、三楽章の所要時間を計算して、第一楽章の「でっぱつ」時間がきまったわけです。むろんのこと、テストなしです。当日、七時をかけた第一楽章冒頭のアインザッツは、まるで無雑作にふりおろされました。丁度七時です。スイッチが入りますと、どうでしょう?むろん、突然変異の起ることの方が、返って不思議というものです。わずかの三十秒だけ、ずれてたにすぎません。正に入神の技といえましょう。神技とは、つまりこんな離れ技を指すんでしょうが、やっぱり、人間の偉大な能力が果した技であることだけは、忘れていけないことでしょう。

正確無比なテンポは、むろんのこと、演奏の上だけのことではありません。先生の私生活にも、つまり、日常茶飯事の出来ごとだったわけです。言葉の関係で(ドイツ語)僕は、先生の御家庭とも深いおつきあいをすることが出来ました。或る朝のことでした。先生から、お使いの方が、僕にすぐに来てくれとの伝言です。急いでお訪ねしますと、玄関の所で、頬をあおざめ、不機嫌な面持ちの先生が待っておられます。何事やおこらん。勢いこんでおられるから、丁度僕が、御説教を戴いてるみたいでした。「大村君。うちのねずみは、八時に十分ぐらい前になると、まるできまったように騒ぎ出すんだ。八時までねていたい僕は、うるさくて、とってもねてなんぞいられない。君、僕は、おかげで毎日、十分ずつ睡眠不足してるんだが、これは君、一年間で幾時間のねぶそくか知ってるかね。体のためには大変なロスなんだ。で、まことにすまんが、明朝から、もうあと十分だけ、遅くおいでいただくように、ねずみ君へは君のほうから、たのんどいてくれ。僕はもう一度ねなおすよ」。と、厳粛な顔で、真剣に相談がけられたんですから。つまり、天井裏のねずみの国へ、僕が全権大使というわけです。どうぞ皆さん、おわらいになっちゃいけません。正真正銘、先生のためには、全く深刻な悩みだったんです。実話ですぞ。それだけに、この裏には、単んにユーモアじゃすまされない。現実的な教訓がかくされてるとは思いませんか。先生の正確なテンポの由来も、やっぱり、憶して知るべしでしょうが。


【クルト・ヴェス(Kurt Wöss, 1914-1987)】


比較的ウェス先生の時代になりますと、この点、気楽なものを感じました。つまり、大変お若いにかかわらず、立派に精神修養をすまされてる証拠でしょう。ですからそれだけに、僕達は、返ってなげやりな気持で演奏など、とっても怖くて出来っこないわけです。唇のあたりに、ほんのりただよっただけの微笑のほうが、頭髪さかだつばかりの怒りよりも、もっと効果的な場合があるということです。

ウェス先生の棒の特徴といいますと、ローゼン先生の豪快な棒さばきとは、正に対照的な、つまり当時迄、N響に欠けていた、非常に優雅な音色、殊にピアニシモも美しさを、ドイツ人特有のねばりで、僕達にしこんでいただいたことでしょう。云う迄もなく、定期公演や、NHK・シンフォニー・ホールの放送、その他の機会で、もう皆さんには大変おなじみでしょう。大変におなじみにウェス先生も、この八月に契約満期、故郷ウィーンにおかえりになることになっています。満三年間、N響史上に残された栄光あるウェスさんの功績も、永く永く讃えられることでありましょう。他人の記憶の中に生きていられる人程、幸福な人はありません。将来の御健康と御多幸をお祈りし、同時に、偉大なる芸術家として、お活躍あらんことを、心から期待しようではありませんか。


。。。ローゼンシュトックはN響を一流にするため鬼になったんですね!しかしなぜそこまで?