チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

グレン・グールドの奇人っぷり(その2)

2014-04-27 23:17:06 | 日記

朝比奈隆氏と共演した際、グレン・グールドはとっても変だったそうなのですが、そのヘンさを裏付けるような記述をみつけました。

レコード芸術昭和40年4月号の「たしかに奇人だが...」というチェンバリスト橋本英二氏による記事です。

奇人っぷりエピソード3つ。

その1 → グールドは人々との握手によってバイキンが自分の手に感染するのを恐れ、いつも手袋をはめて握手する

その2 → あるレセプションの席上、コロムビアの社長が偉大な芸術家に親愛の情をこめて固い握手をしようとしたところ、怒ったグールドは社長の頬をひっぱたいた

その3 → ジョージ・セルと協演のためのリハーサルの後、セルは「やれやれ、小生意気でうるさい若僧だが、滅法うまい奴だ」と傍らの人に嘆息をもらした

。。。潔癖症でコナマイキな奇人、ますますグールドのCDが面白く聴けそうです。


レコード芸術創刊号目次

2014-04-25 22:27:21 | 音楽の本

物置から出土したレコード芸術昭和42年3月号(ボロボロ)の巻末に、23ページにわたって創刊号から昭和41年12月号までの目次が載っていました。

記念すべき創刊号は昭和27年(1952年)の3月号で、表紙はトスカニーニだったんですね。


価格は98円。座談会記事が2つ組まれています。一つは「レコード音楽のありかた」、もう一つは「レコード会社の立場」。どっちもあんまり面白くなさそうですが、なんと、「あらえびす」(野村胡堂1882-1963)が座談会に参加しています。ちょっと読んでみたい。国会図書館とかにあるのかな?

それと昭和28年12月号までは毎号、別冊楽譜が付録についていたんですね。創刊号の楽譜はタルティーニの「悪魔のトリル」でした。創刊号なんだからもっと縁起のいい曲にすればいいのに~

ちなみに我らが宇野功芳先生の名前が初めて見出せるのは昭和32年(1957年)11月号の「ブルーノ・ワルターの芸術」という記事です。現役長いですね!

↓創刊号から昭和27年10月号まで


ブリテン初来日(1956)に関するメモ(三浦淳史氏)

2014-04-20 23:44:04 | 来日した作曲家

ベンジャミン・ブリテン(1913-1976)が1956年(昭和31年)に初来日したときの様子を書いたものを探しているのですが、まだあまり見つかっていません。

でも『レコード芸術』昭和40年4月号152ページにちょっとだけ三浦淳史氏(1913-1997)が書いていらっしゃいました。↓

【親友のテノール歌手ピーター・ピアーズと連れだって東洋観光の旅にのぼったブリトゥンはNHKの招きに応じて東南アジアから日本へ足をのばし、2月8日に来日したのであるが、正式の演奏旅行ではないため、わずか2回放送に出演したのみで、二週間のトゥーリストとして去ったのである。】

→2月18日(土)には「鎮魂交響曲」の日本初演を指揮していますよね(N響)。

【来日当時、ブリトゥンと日本の作曲家たちのあいだに会合がもたれたが、これがどうも失望であったらしい。外山雄三氏の「ブリトゥンとの一時間」(音楽芸術)によると、『ブリトゥン氏があまりに(その作曲態度から考えても)穏健な紳士であったこと』もその理由の一つであったという。たしかにパーティでもブリトゥンは芸術家らしい気取りや衒気を全くひけらさなかった。静かにパーティの華やかな波にのり、また波のようにいつしか静かに去っていった。芸術家的な風貌とかポーズを作曲家の属性に求めがちなぼくらには、天然パーマにちぢれている栗色の髪、くせのある尖った鼻、少年のような瞳をもつ、ありきたりのイギリス人に英国紳士の平凡なタイプを見出すのが落ちである。通俗的な意味では、彼は芸術家タイプではない。といって、ひじょうに人間的な親しみをもてる人柄でもない。】

→音楽から勝手に想像していたブリテンの人物像が実際にはフツーすぎてみんな落胆したんでしょうね。ブリテンって自分の感情を表に出さないタイプだったんでしょうか。または日本人のドンチャン騒ぎに嫌気がさしたとか?「音楽芸術」誌の記事も探して読みたいです。


ちなみに、1956年のことではないと思いますが、三浦氏はこんなことも書いています。

【彼(ブリテン)はおそらく独身主義者なのであろう、51歳の今日まで独身で通している。三歳年長で、やはり独身のピアーズに、ぼくはマティーニの軽い酔いにまかせて、ぶしつけなことを尋ねたものだ。なぜ君たちは二人とも結婚しないのかと。ピアーズは、相変わらず微笑をくずさぬまま "FATE! FATE! FATE!" と三度くりかえしながら、エレヴェーターの中へ消えていった。】

→三浦さん、知ってて質問したならすごいっす!

↑ 三浦淳史氏(『ステレオ芸術』1969年9月号)


プッチーニ「蝶々夫人」初演大失敗の中の救い

2014-04-19 23:47:20 | 蝶々夫人

 プッチーニの「マダム・バタフライ」の初演(1904年2月17日水曜日、ミラノ・スカラ座)はこれ以上ないほどの悲惨な大失敗だったらしく、そのためこの新作の上演はその晩限りでひとまず中止されなくてはならない羽目に陥りました。

 ところがその頃ジェノヴァの町に一人の熱心なプッチーニ崇拝者がいて、この出来事に憤慨した上、折しも生まれたばかりの娘の名前を「バタフライ」とつけて市役所に届けました

 これを見た市役所の係員が「失敗を記念するような名前を付けるのはやめた方がいいのでは?」と言ったのにもかかわらず、その人は結局頑張り通しました。

 するとこの出来事を耳にしたプッチーニは大変この純粋な真心に感動して、ぜひその赤ちゃんを見たいと言ったのだそうです。

 そこで約束の日に、このプッチーニ崇拝者はバタフライちゃんだけでなく、一族の全員を引き連れてやって来ました。

 そのあとでプッチーニは「あれほど大勢の客に接したのは生まれて初めてだった」と笑って言ったということです。その後、この歌劇はわずかな改訂を加えられて再演され非常な成功を収めました。

(大田黒元雄『洋樂夜話』大正14年より)

バタフライちゃんはきっと幸せに育ったことでしょうね!


チャイコフスキーとドヴォルザークの友情

2014-04-17 20:24:13 | メモ

クラシック作曲界トップクラスの人気者でメロディ・メーカーの二人、チャイコフスキー(1840-1893)とドヴォルザーク(1841-1904)が親友だった!?

一歳違いの彼らは一緒に食事したり、文通したりしていたそうなんです。

ドヴォルザークの作曲家同士の付き合いとしては、ブラームスがドヴォルザークの才能に魅了され、ドイツで世話をした話が有名ですが、チャイコフスキーとドヴォルザークがここまで仲が良かったとは思っていませんでした。(不思議なことにチャイコフスキーとブラームスはむっちゃ仲悪かったそうですけど)

以下、『音楽芸術』昭和29年8月号(『ソヴィエト音楽』誌1954年第4号樹下節氏訳)からです。

ドヴォルザークは、チャイコフスキーが初めてプラハを訪れた日、すなわち1888年2月12日(旧暦1月31日)に彼と相まみえた(チャイコフスキーの日記による)。ドヴォルザークは、翌日チャイコフスキーを訪ねた。そして - チャイコフスキーが弟のモデストに伝えているところによれば - ドヴォルザークは「人嫌い」なのにもかかわらず、チャイコフスキーのところに2時間も座り込んでいた。チャイコフスキーの日記によると、彼は毎日のようにドヴォルザークに会い、彼の家で食事をしたり、一緒に写真を撮ったり(※1)、ドヴォルザークの作品を聴いたりした(特にその頃に完成されたピアノ五重奏曲など)。

この二人の作曲家の間には、心からの友情が結ばれたのである。

ドヴォルザークの音楽は、チャイコフスキーに深い感銘を与えた。かくしてチャイコフスキーは、このチェコの作曲家をロシアへ招待するため、何かと取り計らおうと決心した。一方ドヴォルザークは、チャイコフスキーがプラハから出発する前に、第2交響曲(※2)の総譜を彼に贈呈した(これは、クリンにある国立チャイコフスキー博物館に保存されている)。別れにあたって、二人は写真を交換した。1888年2月20日(旧暦8日)にドヴォルザークへ贈った肖像写真に、チャイコフスキーは「わが畏友アントニン・ドヴォルザークへ、心からなる敬愛者より」と記している(ここ等で見れます)。また、2月21日の日付でドヴォルザークが肖像写真に書き付けている文字には、「忘れがたき友ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーへ」とある(下の画像)。

↑ Negretti & Zambra ロンドンで撮影されたものか。子供のように純粋な目


同じ1888年の11月、チャイコフスキーはプラハを再び訪れ、自作の演奏会を指揮した。また12月6日(旧暦11月24日)には、国民劇場の檜舞台にかけられた「エフゲニー・オネーギン」の初演を指揮した。これは大成功であった。オペラが終わったあとの劇場側によって開かれた祝宴席上、チャコフスキーとドヴォルザークは並んで座り、その祝辞に応えて彼を抱きしめてキスした。宴席には多くの人々が出席した。チャイコフスキーとドヴォルザークとは、乾杯や、チェコの各都市から送られて来た祝電の朗読や、あれやこれやの騒ぎにとりまぎれて、出し物については細かに語り合うひまがなかった。チャイコフスキーは、その翌日にはプラハを出発した。彼はドヴォルザークに向かって、「エフゲニー・オネーギン」の印象を書き送ってくれるように依頼した。

チャイコフスキーが保存していた文書の中には、チェコ語で書かれた1889年1月14日(旧暦2日)付のドヴォルザークの書簡のロシア語訳がある。その中でドヴォルザークは「貴作中、オネーギンほどに感服いたしました作品は、他にない旨を躊躇なく申し上げる次第でございます。」と書いている。

また、チャイコフスキーは彼の創意に基づいてロシア音楽協会が主催したドヴォルザークのロシアにおける演奏会に対して細心の注意を払った。1890年3月11日(旧暦2月27日)、モスクワにおいてドヴォルザークの指揮で開かれた演奏会はモスクワ言論界のごうごうたる反響を呼んだ(その時の曲目は交響曲第5番ヘ長調作品76の1887年改訂版など)。

遠く離れているときも、二人は絶えずお互いのことを念頭に置いていた。1892年11月に行われたチャイコフスキーの有名なインタビューの中でも、「才能の満開期にあるドヴォルザーク」という言葉が出てくる。

ロシア、チェコの音楽交流史の際だった一頁とも言い得るチャイコフスキーとドヴォルザークとの友情は、両巨匠の個人的な共感に根ざしていたばかりでなく、創造上の志向の共通性にも根ざしていたのである。


※1 チャイコフスキーとドヴォルザークが一緒に映っている写真は1954年当時は発見されていなかったそうですが、ネットで検索しても出てこないので、残念ながら今でも出て来ていないのかもしれません。ビッグなツーショットを見てみたい!情報お持ちの方がいらしたら教えてください。

※2 現在の番号で何番かは判りませんでした。さらに調べます