チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

日露交歓管弦楽演奏会(1925年4月 歌舞伎座)

2016-09-28 23:54:57 | メモ

(2014年4月29日の記事についてオーケストラの全体像がより鮮明に写っている画像に差し替えました)

講談社『写真図説 日本百年の記録2』(昭和35年)にこんなことが書いてありました。
「管弦楽団は、明治の末に東京音楽学校を中心に、わずかではあるが試みられたが、大正に入って山田耕筰の指導で、日本交響楽協会が創立され、初めて職業的オーケストラが出現した。しかし経済的には、まだ引き合わなかった。そのためもあって、同協会は分裂し、やがて近衛秀麿の新交響楽団が1926年(大正15年)に成立した。」

日本のオーケストラは大正時代に本格的に始動したんですね。

下の写真は、そんな時代真っ只中の1925年(大正14年)に、ロシアのオーケストラ35名を迎え日本交響楽団の35名を加えて4月26日から29日までの4日間、歌舞伎座で演奏会を開いたときに撮影されたものだそうです(日露交驩管絃樂演奏會)。立派なオーケストラに見えますね!

↑ 「国際写真タイムス」1925年6月号より。

我が国にとって歴史的なコンサートなんでしょうね。指揮は山田耕筰と近衛秀麿だったらしいのですが、残念ながら何の曲を演奏したのかが書いてありませんでした。
もう少しこの、日本とロシアが手を結んで開催されたイベントについて調べてみたくなりました。

 

(追記)コンサート・マスターは下の写真中央のシェルブラートという人だったらしいです(もしかして、あのシフェルブラットさん⁉そうであるなら当時38歳くらい)。『画報近代百年史第11集』(国際文化情報社)より。この記事によると楽員は日本人38名、ロシア人33名とあります。日本人っぽいロシア人(またはその逆)がいたことによるカウント・ミスか?

楽団は歌舞伎座公演に引き続き名古屋・京都・神戸・大阪の各地で演奏会を行ったようです。山田耕筰さんに毛がある!


着物姿のバレリーナ、アンナ・パヴロワ(1923年頃)

2016-09-26 19:24:54 | バレエ

大正末期の娯楽雑誌「苦楽」創刊号の表紙です。1924年(大正13年)1月1日号。


↑ 1977年の復刻版。

この雑誌のグラビアにロシアの名バレリーナ、アンナ・パヴロワ(Anna Pavlova, 1881-1931)の着物姿が掲載されていて驚きました。



「まさか日本の真似はしまいと思っていたら、アメリカへ行ったパヴロワ夫人は矢張りこの醜躰を演じつつある。彼女も一個の旅芸人にすぎなかった....と編輯子は大いに憤慨している。」とお怒りのようですが、自分は歴史的バレリーナの着物姿がうれしかったです。カッコ悪いと思ったらきっと着ません。

Wikipediaによるとアンナ・パヴロワは1922年に来日し8都市で公演したそうですね。その来日がこの着物姿に繋がっているに違いありません。

しかし、そもそも、この人は本当にアンナ・パヴロワ?


ヴァイオリニスト・鰐淵晴子(1952年)とご家族(1960年)

2016-09-24 17:30:54 | 日本の音楽家

(2014年10月11日の記事にご家族の画像を追加しました)

主婦の友1960年2月号より、現・N響のコンマスを務めたこともあるヴァイオリニスト鰐淵賢舟氏のご家族です。

↑ 前列はお母さんのベルタさん、鰐淵晴子さん(14歳)、後列は晴子さんの妹・朗子【あきこ】さん(13歳)、お父さんの賢舟さんです。

 

7歳の鰐淵晴子さんはヴァイオリニストとして毎日グラフ1952年7月10日号の表紙を飾りました。

この人は女優になられたんですね。


説明によると「少女ヴァイオリニスト。昭和26年NHKのど自慢大会で三つの鐘を鳴らしたのがはじまり。それ以来、音楽会、放送、写真モデル、さては映画にまで引っぱり出されて、この頃ではすっかり有名になった。
お父さんはヴァイオリニストの鰐淵賢舟氏。お母さんはウィーン生まれのツィターの名人、ベルタさん。その血を受けた晴子ちゃんの天分はともかく、持って生まれた可愛い容貌も人気を博す大きな原因だろう。」

↑ 鰐淵賢舟・晴子親子 (『音楽之友』1953年4月号)

。。。ご両親とも音楽家とは。残念ながらネットでは演奏を聴けませんでしたが、ヴァイオリンに専念したとしても成功していたかも!

↑ 1951年8月15日アサヒグラフ表紙

 

お父さんの鰐淵賢舟氏(1910-1986)はプラハで学んだんですね。『音楽之友』1954年1月号より。

 

↑ 鰐淵晴子・朗子姉妹(主婦の友1952年6月号)

 

↑ 歌う雑誌KODAMA第3号(1960年)の鰐淵晴子さん(秋山庄太郎氏撮影)。フォノシートには残念ながら晴子さんの演奏は収録されていませんでした。

 

↑ 『国際文化画報』1960年1月号表紙。西武百貨店屋上ヘリポートにて。


ソニー入社前・大賀典雄氏のリサイタルへの批評(1954年)と一日指揮者(1990年)

2016-09-23 00:41:17 | 日本の音楽家

大賀典雄氏(1930-2011)の独唱会が1954年6月3日(木)東京都内で開かれています。Wikipediaによると大賀氏のソニー入社は1959年9月なのでその5年前のことになりますね。

以下、大木正興氏(1924-1983)による批評です。(『音楽之友』1954年9月号)
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三日、山葉ホールでの大賀典雄独唱会はシューベルトの「美しき水車小屋の娘」全曲である。去年の三月芸大を出た新進バリトンで歌劇などではもうおなじみの人である。

九月には渡独してヒュッシュ(Gerhard Hüsch, 1901-1984)の許で勉強する予定ということであるが、この人の歌は実にその将来の先生の歌に似ている。ヒュッシュの端正な歌がそのままここで再現されようとしているように感じられるのだったが、やはりヒュッシュにはヒュッシュなりの深さがあり、その間の距離はこう似て唄われると皮肉にもかえって泌々と考えさせられるのである。

恵まれた声を持つ人で将来を楽しまれる若手なのだが、やはりもっと型にはまらない自分の歌を作り上げてほしいというのがその時の気持であった。なおこの日の伴奏は松原緑(1957年に大賀氏と結婚することになります)が受持った。
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↑ 大賀氏と松原緑さん

。。。大木氏によるとリサイタルの内容はイマイチだったようですが、「型にはまらない自分の歌」はSONYでの功績のことかもしれません。

 

大賀さんは1990年に60歳の誕生日を迎え、その記念として一日だけ東京フィルハーモニー交響楽団を指揮しました。

1990年2月4日東京・渋谷オーチャードホール。

左から盛田昭夫ソニー会長、庄司薫氏(小説家、中村紘子さんの夫)、大賀社長、中村紘子さん、緑夫人。大賀さんは以前から「60歳になったら会社を辞めて指揮者になりたい」とおっしゃっていたそうです。

(週刊文春1990年2月15日号より)


田中希代子・千香士 姉弟とお母様(1955年、第5回ショパンコンクール入賞直前か)

2016-09-20 22:16:32 | 日本の音楽家

(2016年3月5日の記事にお母さんの画像およびカステラの広告を追加しました。)

 

『婦人生活』1955年9月号にピアニスト・田中希代子さんと、ヴァイオリニスト・田中千香士さんの姉弟が一緒に写っている画像が載っていました。

姉:田中希代子(1932-1996)、弟:田中千香士(1939-2009)

田中希代子さんは第5回ショパン国際ピアノコンクールで日本人として初の入賞を果たしたというすごい人。

当時16歳くらいの弟・千香士さんは1966年から1979年までNHK交響楽団のコンサートマスターを務めることになります。

あっぱれな姉と弟ですね!

 


↑ 「五年ぶりに」帰国したが、「秋十月にはフィアンセ【作曲家・宍戸睦郎、1929-2007】の待つパリに再び渡って」からすぐにワルシャワのショパンコンクールに出場したということだと思います。

 

下の画像は音楽の友1950年(昭和25年)1月号より。お母さんであり声楽家の田中伸枝さん(1901-1988)と一緒。

↑ 味わい深い文章だと思いました。のんびりした生活もいいなと思う反面、それでいいのかと迷っていらっしゃいます。

 

それから20年後の落ち着いた雰囲気のカステラの広告。サンデー毎日1970年11月15日号より。ほっとしますなあ。