チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

藤原歌劇団創設者、藤原義江(ふじわらよしえ)

2017-05-28 23:39:57 | 日本の音楽家

【2014年7月1日の記事に藤原義江の幼少の頃からの写真を追加しました】

藤原歌劇団を主宰した藤原義江氏(1898-1976)です。

英国人を父として大阪に生まれて、のちイタリアに留学、ガラッシ夫人、ビネッティに師事した。世界音楽行脚12回、イタリア、フランス両政府より叙勲、昭和23年芸術院賞を受けた。藤原歌劇団を主宰し、日本のオペラの重鎮として活躍した。(音楽芸術昭和30年8月号より。上の写真も)

 マンフレート・グルリット(Manfred Gurlitt, 1890-1972)と。藝術新潮1951年2月号より

 

。。。古い音楽雑誌とか読んでいるとよく出てくるお名前なので知っていましたが、女性とばかり思い込んでいました。情けなや~(作家の乾くるみさんが男性だとわかったときより少し驚きました)

 

(追記)以下、中央公論1973年4月号より、「藤原義江アルバム」です。


↑ 1904年(明治37年)左端が本人。従兄たちと

 


↑ 1908年(明治41年)右が本人(10歳)。従兄と

 


↑ 1912年(大正元年)14歳。明治学院中等部

 


↑ 1917年(大正6年)19歳。新国劇の第1回京都進出の宣伝用のマラソン大会 前列中央が本人

 


↑ 1917年(大正6年)京都南座にて 新国劇初出演。岡本綺堂「安政黒船話」。右端が本人(プチャーチン役。よく顔が見えない)

 


↑ 1920年(大正9年)22歳。本人のイタリア留学の送別会。前列中央が本人。前列右から5人目は田谷力三(1899-1988)。左から4人目は伊庭孝(1887-1937)

 


↑ 1923年(大正12年)1月。24歳。ニューヨークにて。タイムズ紙の日曜版に日本のヴァレンティノ(誰?)として紹介される。

 


↑ 1930年(昭和5年)32歳。歌舞伎座にてオペラ「椿姫」に出演。左より土方与志(1898-1959)、関屋敏子(1904-1941)、本人、山田耕筰(1886-1965)

 


↑ 1931年(昭和6年)の夏。スイスのサンモリッツにて、あき夫人と

 


↑ 1932年(昭和7年)34歳。長男、義昭氏と

 


↑ 1937年(昭和12年)ハンブルクにてピンカートン役

 


↑ 1939年(昭和14年)41歳。華北の旧日本軍を慰問。左はピアノ伴奏の加納和夫氏

 


↑ 1952年(昭和27年)54歳。歌劇団員28名を連れて第一次渡米公演。あき夫人と途上の船中にて

 


↑ 1964年(昭和39年)66歳。東宝ミュージカル「ノー・ストリングス」に出演。

 


↑ 1970年(昭和45年)72歳。TBSドラマ「オランダおいね」にシーボルト役で出演。丘みつ子さんと

 


↑ 本人談。誕生日が三つ!

...さらに情報を追加していこうと思います。


ヴィクトリア・ムローヴァの亡命(1983年)

2017-05-20 23:16:35 | メモ

FOCUS誌1983年7月22日号にヴァイオリニスト、ヴィクトリア・ムローヴァ(Viktoria Mullova, 1959年生まれ)がソ連から亡命したときの様子が載っていました。彼女は当時まだ24歳。

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1982年のチャイコフスキー国際コンクール・ヴァイオリン部門で第1位になったムローヴァは翌年1983年の6月から7月にかけてソ連文化省下のアーティスト・マネジメント機関「ゴスコンツェルト」の主催でフィンランド演奏ツアーを続けていた。

1983年7月2日、スウェーデン国境まで約200キロのクーサモで演奏会を開き、翌3日、伴奏ピアニストのヴァフタング・ジョルダニア(Vakhtang Jordania, 1943-2005)とともに「市内観光」と称して街へ出た。監視役の文化省の役人がホテルで昼寝していている隙にである。街にはフィンランド人の協力者がいた。彼の手引でタクシーに乗り、そのまま国境を越えてスウェーデン領内に入り、警察に亡命・保護を申し出たのである。

その後、ストックホルムのホテルに着いた彼女は3日間沈黙を守っていたが、7月7日になってようやく心境を明かした。

「私たち、駆け落ちではありません。ジョルダニアさんは以前から亡命を考えており、私もチャイコフスキー・コンクール優勝後、外国に行きたいと考えていたのです。政治的な理由からではなく、音楽上の理由で...。ソ連の中では、機械のように動かされるだけで、芸術家として好きな曲が弾けない。もっと自由に演奏活動がしたかった。たまたまそういう考えの二人が同じツアーを組むことができて、亡命のチャンスを狙っていたわけです。ただ、同行の役人の監視がきびしくて...。3日に失敗したら、6日にもう一度挑戦するつもりでした。いま、米国行きのビザを申請しています。米国には友人が何人かいますので、演奏活動も当然そこですることになると思います。」

関係者の間では、彼女の亡命の背景には師レオニード・コーガン(Leonid Kogan, 1924-1982)の急死がからんでいるともいう。彼女がコーガンの死で大きな後楯を失ったのにひきかえ、チャイコフスキー・コンクールで彼女と一位を分け合ったヴァイオリニスト、セルゲイ・スタドレル(Sergei Stadler, 1962年生まれ)がソ連楽壇でチヤホヤされていることへの反発もあったようである。モスクワには母親と妹、若い婚約者もいるという。


↑ 亡命直前、ヘルシンキでリハーサル中のムローヴァとジョルダニア。
文化省から彼女に貸与されていたストラディヴァリウスはホテルに残していったそうです。

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。。。昼寝していた監視役さんはどうなってしまったんでしょうか?(そこじゃない)

情報を訂正・追加していきます。