チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

チャイコフスキーの日記からモーツァルトとベートーヴェンについて

2023-09-06 13:18:07 | 日記

〈2014年10月29日の記事にチャイコフスキーがブラームスについて書いた日記を追加しました〉

「音楽新潮」昭和9年(1934年)3月号にチャイコフスキー(1840-1893)の日記の一部が掲載されており、その中でモーツァルト、ベートーヴェンに対する気持ちが書かれていました。予想どおりの内容ですがちょっと面白いです。緒方慎太郎訳。



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1886年9月20日。

私の死後、私自身の音楽的興味と好みとが解ることは、恐らく多少の興味を惹くことと思う。――私はそうしたことを、会話の中で論ずることをしないのであるから。私は系統的な表に従って述べていこう。各世紀の偉大な音楽家と、同時に私と同時代の作曲者に言及してみる。

ベートーヴェンから始める。彼は一般に、絶対に彼を超えるものなき存在と見られ、後人はその流れに従い、神として崇めねばならぬものとされている。私はベートーヴェンの作品の或る物に頭を垂れる。しかし私はベートーヴェンを愛してはいない。私の彼に対する態度は、子供の頃、軍神に対して抱いた感情を、思わず想起させる。私は彼にこう感じた。――そして今日なお、この感じを変えてはいない。尊敬の感情、しかし同時に恐怖のそれである。

彼は天と地とを創造した。また彼は私をもまた創り上げたのである。それゆえ、私は彼の前に自ら平身低頭する。だが私は彼を愛しはしない。これと反対にキリストは、完全な愛をもって私を満たしてくれる。彼は正しく神である。と同時に人間そのものである。彼は我々が苦しむが如くに苦しむ。彼に対して我々は人間的な憐憫の情を持っている。我々はその理想的なる人間的反面を愛する。

かくて若しベートーヴェンが私の心のうちで、軍神と同じ位置を占めるものとすると、私はモーツァルトを愛し、音楽的キリストとして愛したい。このような比較は、すこしも不遜を意味しないと私は考える。モーツァルトは天使のような嬰児(みどりご)にも似た純真明朗な存在である。それゆえ彼の音楽は、この世のものならぬ美しさに満ちあふれている。もしもだれか、キリストと共にその名を呼ばれる者がいるとしたら、確実にモーツァルトこそその人である。

私はベートーヴェンを論じ始めたのに、今、モーツァルトを語っている。モーツァルトが、音楽界での至上最高の位に在ることを、私は信じて疑わない。何人といえどもモーツァルトのように私の瞳に涙の雨をそそぐものはない。また彼のように、我々が理想と呼ぶものに間近い何物かへ私を結びつけていく歓喜と感情によって、私の全身を打ち揺るがすものもまたないのである。

ベートーヴェンも、人に戦慄と顫動(せんどう)を余儀なくさせるが、それは恐怖の感情をもって迫るのだ。その中にはほとんど苦痛に満ちた何かがある。

私には音楽批評の方法が解らないので、詳細までは触れないが、しかし次の二つのことを私は主張する。

1.ベートーヴェンでは、私は中期の作品と、初期の或る物を好む。私は率直に、その後期の作品、殊に最後の四重奏曲は嫌いである。この後期の作品には、或る光彩こそあれ、ただそれだけのことである。残るは混沌たる世界である。その上で、無限の虚空の中に、この音楽的軍神の精神が翻っている。

2.モーツァルトでは、私は全てを愛している。ちょうど我々が真に愛している者のすべてを慈しむように。とりわけその「ドン・ジョヴァンニ」を好む。その作品によって、初めて私は音楽の何たるかを知ったのであるから。17歳頃まで、私は音楽といえば、イタリア音楽以外に、何も知らなかった。それは確かに共鳴し得るものを持ってはいるが、半音楽にしか過ぎない。

私がモーツァルトのすべてを愛すると言ったって、もちろん、彼の書いた些細な作品までもが、傑作であると主張するものではない。いや例えば、彼のソナタには一つとして、優れた作品と呼ばれ得るものはない。しかしなお、私はそのどれもが、彼の物であるが故に、好ましく思う。なぜかというと、この音楽的キリストは、それらを奏すると、何か神聖なるものを感じさせるからである。

ベートーヴェンとモーツァルトの先人に関して、私は少し述べよう。

私はバッハを奏するのが好きだ。すぐれたフーガを奏でることは興味あることである。しかし私は多くの者が言うような偉大な天才とは思わない。私はヘンデルを第四番目に偉大な人と思ってはいるが、その作品には少しも興味を持たない。グルックは比較的創造性に欠けてはいるが、私はその作品に共鳴するものである。また私はハイドンのある作品を愛している。

これら四人のすべては、だがしかしことごとくモーツァルトに結びついている。モーツァルトのみを理解する人は、この四人の真価を鑑賞することができる。なぜならばモーツァルトは、あらゆる音楽創造者の中で、最も偉大にして力ある彼は、これらの作曲者をもまたその庇護の下に喜んで入れている。そしてこうすることによって、彼等を忘却から救っているのである。彼等はモーツァルトなる太陽から発する光である。
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。。。結局、この日の日記はモーツァルトに対するラブレターだったんですね。

チャイコフスキーはベートーヴェンの作品に恐怖を感じるといっても、それはいわゆる中期の作品群のことだと、そして後期のものは好きだと言って欲しかったです。後期の四重奏曲にも「軍神」がいるとは。。やはり天才の感じることは違いますね。

ちなみにここには「同時代の作曲家」のことを書いた日記は掲載されていませんでしたが、是非読んでみたいです。ブラームスなんかはめちゃくちゃ悪口が書かれているんでしょうか。

【追記 2023年9月6日】

ここのサイトによるとチャイコフスキーの日記にはブラームスについてこのように書かれているようです。

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このうぬぼれた凡人が天才とみなされていることに私は腹が立つ。 ブラームスは有名人だ。 私は何者でもない。 それでも、偽りの謙虚さなしに、私のほうがブラームスよりも優れていると考えていることをお伝えする。 それで、私は彼に何と言うだろう。もし私が正直で誠実な人間なら、彼にこう言わなければならない。

「ブラームスさん!あなたは非常に才能のない人で、見栄に満ちているが、創造的なインスピレーションがまったく欠けている人だと思います。 私はあなたのことをとても低く評価しており、実際、あなたをただ見下しているだけです。」

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誕生日が一緒(5月7日)なのに痛烈ですね。自分はどちらの作曲家の作品も大好きですがそれぞれ脳の違う部分を使って聴いているかも。。


ヴィクトル・デ・サバタ指揮ブラームス交響曲第4番のCD

2016-04-19 20:33:25 | 日記

【2014年11月13日の記事に、日本発売当時の広告を追加しました】

イタリアの指揮者ヴィクトル・デ・サバタ(Victor de Sabata, 1892-1967)のブラームス交響曲第4番を何気なくウォークマンで聴きながら道路を歩いていたらあやうく車に轢かれそうになりました。



まず、このベルリン・フィル演奏のCDは今から75年前、1939年の録音だということですが、音質がいいのでビックリさせられました。擬似ステレオ+残響付加??

↑ 1939年6月リリース

↑ 『レコード音楽』 1940年7月号より。「世紀の大指揮者遂に登場!」

それと何より、ブラームスの4曲の交響曲たちの中でも間違いなく最も美しくて涙なしにはきけない箇所だって自分で勝手に思っている第2楽章の第41小節からのチェロの歌が、これ以上自分好みのテンポで、懐かしく、憧れをもって演奏されているのを聴いたことがなかったので不覚にもあっちの世界に連れて行かれそうになってしまった次第です。



普段はオェーって感じになる、あちこちに散りばめられた弦のポルタメントも好ましいものに思えてしまうから不思議。この録音、いったい何なんですかね?

このサバタという人はネットで調べてもあまり画像が出てこないけど、芥川也寸志著『音楽の現場』(音楽之友社1962年)になぜか連続写真がありました。



撮影日時・場所が不明ですが、表情めっちゃ豊かだし楽しそう。特に上から四段目の真ん中の顔が好きです。矢部太郎?


BluetoothレコードプレーヤーAir LPで感動

2016-03-04 22:43:35 | 日記

久々に買ってよかったと思う買い物をしました。Ion Audioの Air LP。14000円くらいなのにコードレスでお手軽にレコード再生ができるんです。

さっそく物置にあるレコードのうちフィストゥラーリ(※↓)/ロンドン交響楽団の「くるみ割り人形&眠りの森の美女」を再生してみました。

ソニーのBluetoothスピーカーSRS77に電波すっ飛ばしてみたら引き込まれるように、予想外の感動。目の前にスピーカーを置けるって重要なんですね。

音量の小さいところではパチパチ音が派手だし、スペック的にはデジタルよりはるかに劣っているのは頭ではわかってるけど、この音楽を聞かせちゃうパワーはどこから?

長く眠っていた薄汚れた黒い円盤にこんな豊かな情報が収納されていたとは。。CDとかデジタルものでは味わえない、自分のためだけに演奏してくれてる感。

レコードが速くも遅くもなく落着きはらって毎分33+1/3回転でぐるぐる回っている音楽的な姿にもホレボレ。音楽がまさにこの瞬間に生れてるって感じであったかくて落着きます~

このままアナログ・レコードの世界にハマってしまったら。。お金かかりそう。

※アナトール・フィストゥラーリ(Anatole Fistoulari, 1907-1995)
このレコード(Fontana FG-277)の志鳥栄八郎氏の解説によると、1907年8月20日キエフ生まれ。やはり指揮者だった父から音楽教育を受け、8歳のとき悲愴交響曲を、13歳のとき「サムソンとデリラ」を指揮したそうです。なんつーこった。しかも、マーラーの次女 と結婚していた。


ブルックナーの恋

2015-10-29 20:31:41 | 日記

アントン・ブルックナー(1824-1896)はロリコンだったという噂です。実際にはどうだったのかを調べていると『音楽家の恋文』(クルト・パーレン著 池内紀訳 西村書店)という素晴らしい本に出会いました。

モーツァルトからベルクまで27人の作曲家の書いたラブレターについて書かれているんだけど、ブルックナーの章、むっちゃ薄っ!

『アントン・ブルックナーは九度、相手の愛を願った。そして九度、拒否された。』

1851年【27歳】ルイーゼ・ボーグナー16歳
1866年【42歳】ヨゼフィーネ・ラング17歳
1869年【45歳】カロリーネ・ラープル17歳
1885年【61歳】マリー・デマール17歳
1889年【65歳】リーナ・オーピツ18歳
1890年【66歳】?・ヴィースナー17歳
1891年【67歳】イーダ・ブッシュ19歳
1891年【67歳】ミーナ・ライヒル18歳
1892年【68歳】アンナ・?16歳

 

この中でイーダちゃんとだけはうまくいきかけたらしいのですが、彼女はプロテスタントだった(ブルックナーはカトリック)のでダメになったらしいです。。惜しい

しかし、この作曲家の音楽と同様、純粋かつ一貫して同じところを目指しているような気がします。

『九つの愛は一つとして実らなかったが、かわりに九つの交響曲がこの世に生まれた。』

 

↑ 成熟した女性から目を反らしている、との冗談を囁かれ続けるウィーンの市立公園にある胸像

(2013年11月29日の記事に属啓成氏撮影の写真を追加しました)


指揮者・大町陽一郎氏の「レコード求む」(1968)

2015-02-01 23:50:00 | 日記

週刊新潮1968年1月20日号の「掲示板」で指揮者・大町陽一郎氏(1931-2022)が「レコード求む」。


まず、大町氏は「ヨハン・シュトラウスが自らバイオリンを弾き、吹き込んだレコード『春の歌』を入手しました」と書かれています。

確かにそれらしきものがYouTube、ニコニコ動画等で「1897年録音」として聴けますが、残念ながら作曲者ヨハン・シュトラウス2世自身の録音ではなく、甥のヨハン・シュトラウス3世(1835-1916)によって1911年にベルリンで録音されたものだということです(原盤・パテ Pathé disc 54303)。←YouTubeへの書き込み情報より。

そして本題、ニキシュ(Arthur Nikisch, 1855-1922)、シャルク(Franz Schalk, 1863-1931)、ビューロー(Hans von Bülow, 1830-1894)、さらにカラヤンが若い頃ベルリンのオーケストラを振ったレコードを「万一お持ちの方がいらっしゃいましたら、お知らせください」とのことですが、このうちビューローの録音はネットでは見つかりませんでした。1894年に亡くなっていることもあり録音は無いんでしょうか。万一ご存知の方がいらっしゃいましたら。。

ニキシュ、シャルク、そして若い頃のカラヤンは、NML(ナクソス・ミュージック・ライブラリー)で苦労ゼロで聴くことができました。すごい時代になったもんです!!

以下、NMLで聴けた録音のジャケットです。


↑ ベートヴェン/交響曲第5番「運命」、他
アルトゥール・ニキシュ指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1913年10月20日ベルリン(運命)

 


↑ ベートヴェン/交響曲第8番、他
フランツ・シャルク指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1928年4月12-13日ウィーン(8番)

 


↑ ブルックナー/交響曲第8番
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・プロイセン州立歌劇場管弦楽団
録音:1944年
(第1楽章の録音は紛失してしまったそうですが、第4楽章は1944年なのにステレオ録音。音質の良さに驚きます)