チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ウェーベルンを撃ったアメリカ兵士(詳細)~三浦淳史「レコードのある部屋」より

2015-03-29 17:10:41 | 音楽史の疑問

1年以上前にこのブログに「ウェーベルンを撃ったアメリカ兵士(1945年9月15日)」というのをアップしたのですが、経緯についてモヤモヤ感が残るものだったので、もっと正確・詳細な情報を探していました。

そんな中、最近、三浦淳史(1913-1997)氏の『レコードのある部屋』(1979年湯川書房)という本に出会いました。

128ページからの「セプテンバー・ソング」。これはウェーベルンの死について自分が読んだ中では一番正確だと思いました。

ユダヤ系ドイツ人の音楽学者ハンス・モルデンハウアーという人の執念で謎の死が解明されていたということです。

Hans Moldenhauer, 1906-1987

以下、大切だと思うところを引用させていただきます。

-----------------------------
1950年代の末、オーストリアに遊んだモルデンハウアーはミッテルジルの近くまで来たことを知り、ウェーベルン終焉の地を訪ねてみたくなった。

モルデンハウアーが訪ねたころは、ウェーベルンが仮寓していた家の壁、つまり射殺のおこった場所には、まだ弾痕が残っていたという。

モルデンハウアーは実際に何が起こったのかを知りたいと思ったが、誰もなぜウェーベルンが射殺されたかについて妥当適正な説明をしてくれなかった。モルデンハウアーが自力でその究明に乗り出したのはそのへんであった。

モルデンハウアーは直接託宣所(オラクル)へ照会状を郵送した。この場合のオラクルは、国務長官と国防長官である。御宣託はあった。このへんが、アメリカはよくできている。
政府の公文書保管担当官の返書によると、ご希望の情報は、カンザス・シティ公文書センターの部隊・野戦司令部記録に当たってみたら、発見し得るかもしれないということであった。

数日後、夫の死の直後、ウェーベルン夫人によって述べられた宣誓口述書とその英訳のそれぞれの写しが送られてきた。調書は、米軍MPと軍属の通訳官によって作られたのである。


ストーリーはこうである。

悲劇は、1945年9月15日の宵、オーストリア・アルプスの寒村ミッテルジルで突発し、瞬間に終わった。ウェーベルンとその家族は終戦直後の不安な時期を過ごすため疎開していたのだった。

ウェーベルン夫妻は娘と娘婿のベンノ・マッテル(Benno Erwin Jose Mattel, 1917-?)の家に夕食に招かれていたのだった。マッテルの生活状態は一族の誰よりも良かった。世事に疎いウェーベルンは、娘婿の景気の良さが終戦後は当たり前のことだった闇商売のおかげだという事実に気づいていなかったのかもしれない。

ウェーベルン夫妻は、米軍が娘婿を罠にかけるためその晩を選んでいたことも知らなかった。

ウェーベルン夫人の供述は続く。

「わたしたちは20時ごろ娘夫婦の家に着きました。娘婿のベンノ・マッテルはその晩遅くアメリカ人が来るはずだと言っていました。彼らが21時頃来るとすぐ、夫と娘とわたしは、子供たちが眠っている次の間に行きました。」

そうこうしているうちに、マッテルはまんまと罠にかかり、アジャン・プロヴォカトゥール(agent provocateur、密偵、おとり捜査員)に逮捕される。密偵は軍曹とコックから成っていた。

密偵の計画によって、コックの兵卒はマッテルの逃亡を防ぐため家の外に回っていた。ウェーベルンが、娘婿からもらったばかりの、当時としては貴重品だったアメリカの葉巻を2、3服する衝動に抵抗しきれなくなったのは、まさしくこの瞬間だった。孫たちが眠っている空気を汚したくなかったので、ウェーベルンは家の外に出たのである。

暗闇の中で――まだ燈火管制がしかれていた――ウェーベルンとコックの兵卒との運命的な出会いが起こったのである。

ウェーベルンはたいへん小柄な人で、当時病後の回復期にあった彼の体重は50キロを割っていたという。誰からみても、ウェーベルンは心根の優しい人で、その晩、娘婿のキッチンで何が起こっていたかをまったく知らなかった。しかし、暗闇のなかで、ほんの2、3週間前には敵国だった土地で見知らぬ異邦人に囲まれていたコックは、いつも神経過敏になっていたので、自分が襲撃されるとカン違いした。彼は狼狽して、三発撃った。その一発がウェーベルンの胃に当たった。よろめきながら家の中に入ったウェーベルンは、あえぎあえぎ、苦しい息のなかから、"Es ist aus"(もうだめだ)といって、意識を失った。彼は間もなく死んだ。

実際ウェーベルンを射殺したのは、レイモンド・N・ベル(Raymond N. Bell)というコック兵だった。

やがて、ベルの未亡人から一通の手紙がモルデンハウアーに届いた。

『親愛なるドクター・モルデンハウアー:お手紙にもっと早くお返事すべきでしたが、わたくしは病気でした。それに、わたくしは学校の教師をしておりますので、教職に多くの時間をとられています。お手紙でお尋ねになられたことにお答え致します。わたくしの夫のミドル・ネームはノーウッド(Norwood)でした。誕生年月日は1914年8月16日でした。わたくしたちには6月に21になる一人息子がおります。わたくしの夫の職業はレストランのシェフでした。

 夫はアルコール中毒がもとで亡くなりました。わたくしはその事件についてほとんど何も存じておりません。夫が帰国したとき、夫は軍務中に人を一人殺したと申してました。夫がそのことでたいそうくよくよしていたことを知っております。酔っぱらう都度、夫は「あの人を殺さなければよかったのに」と言ってたものです。わたくしは、そのことが夫の病気を起こしたものと信じます。夫はみんなから愛されたたいへん親切な人でした。これもみんな戦争のせいです。

 以上のほかのことについては何も存じておりません。さらにわたくしでお役に立つことがございましたら、何なりとお申し越しください。かしこ (ミセス)ヘレン・S・ベル』

結びの句は「もう何も訊いてくれるな」を意味する社交辞令である。

ウェーベルン夫人は、「1949年、ミッテルジルで貧窮のうちに死んだ」とあるから、夫人は夫ウェーベルンの戦後における爆発的なリヴァイヴァルについに逢うことなく夫の後を追ったわけである。
------------------------

以上からわかったことは

・ウェーベルンの娘婿はアメリカ軍のワナにはめられた。
・ウェーベルンが撃たれたのは彼の煙草の火が何かの取引の合図だと勘違いされたためではなく、暗闇でウェーベルンに遭遇したコック兵が自分が襲撃されると勘違いしたための事故だった。
・ウェーベルンが息絶えたのは家の中だった。

ウェーベルン、ウェーベルンを射殺したコック、そしてそれぞれの家族も戦争の犠牲者なんですね。

「レコードのある部屋」は古本屋で税込500円で買ったのですが、サイン入り。比較的マニアックな三浦本のファンなので嬉しかったです!

音楽評論家の坂東清三氏が名付け親ってことですか。この本も興味深い情報が満載です。


任務遂行に懸命のN響コンサートマスター、田中千香士氏(1975年頃)

2015-03-28 23:08:59 | 日本の音楽家

日本ディスクライブラリー『不滅の交響曲大全集』(1975年頃のレコード12枚組)の解説書に、NHK交響楽団の当時のコンサートマスター、田中千香士さん(たなか ちかし、1939-2009)の「任務遂行に懸命の私」というエッセイが載っています。



桐朋学園出身の田中さんは、N響のコンサートマスターに就任する前、24歳のときに斎藤秀雄、森正により京都市交響楽団のやはりコンサートマスターに推挙され、東京の自宅から車で京都に乗り込んだそうです。

京響での初めての練習のときには「真剣な面持ちで、ズラリと並び居る楽員のまん前に突如として座ったのです。それまでも、ソリストとして、京響を初め全国の各オーケストラと協演したことは度々あったのですが、その中に座って弾いた経験がほとんどないに等しかったので、楽員達にともすればふるえがちの声で、一通りの挨拶をした後に、自分の椅子が一番前に厳然と控えているのを見た時には、再び東京への道を、来た時と同じ装備をした車で、一目散に戻る自分の姿を想像しました。」

。。。大丈夫か?ってドキドキします。



「プロのオーケストラの楽員として演奏したことは一度も無かったのです。この様な状態ですから、初めの一年は毎日、全ての曲が新しく、年末にある我国特有のベートーヴェンの第九シンフォニー大会?に、耳では知っていても、弾くのは初めて、というコンサートマスターでありました。」

。。。それでもコンサートマスターが務まってしまうのだから、田中千香士氏という人はタダモノではないですね!



N響のコンマスになってからについての記述はコンサートマスターの仕事を知る上で興味深いです。

「日々のたつのが異常に早く、これはN響のレパートリーが広いせいもあり、大体三年位しないと、全部の曲を頭に入れることができず、指揮者も世界の一流所が続々と押しかけて来ますので、五年や六年はスリル満点で過ぎ去ったのでしょう。気が付いてみたら、毎年N響が楽団員に記念として配る銀のスプーンがザクザク家にあるのです。
ヴァイオリンのソロ用の曲をたくさんこなすにも大変な努力がいるのですが、オーケストラのあらゆる曲を良い指揮者の良い指示に正確に従いつつ、ものにするのも、これまた大変な努力が必要です。優れたピアニストのように、オーケストラを自分の楽器として完全に扱える指揮者と演奏するときには、難しいコンチェルトのソロパートを自分の責任のみにおいて、汗をかきかき練習するのと比べ、何と気楽に曲の真髄に迫れることでしょう。棒が自由自在に、楽員の持っている機能を引き出してくれるので、何の用意もいらないのです。
ただどのような内容を指揮者の要求に対して差し出せるかが問題で、くせのない、素直な音楽にマッチしたものでなくてはなりません。しかも個人的なものでなく、各セクションの合意の上のものです。大勢の楽員が、一体となって、良しにつけ悪しにつけ、演奏会の時間の間はチームワークが取れていなければならないのですから、この苦労も並のものではありません。合奏能力を養う点でもオーケストラは良い勉強になるので、将来ソリストとして立っていくつもりでも、一時期は必ず経験すべき試練だと思い、懸命に任務を遂行しています。」

。。。さすがN響のコンサートマスターだけあって、真面目で誠実なお人柄が偲ばれます。
(N響の銀のスプーンほしい!)

↑『フィルハーモニー』誌1972年4月号より、N響第574回定期公演からバッハ ブランデンブルク協奏曲第4番

指揮:森正、ヴァイオリン:田中千香士、フルート:小出信也、宮本明恭


帝劇「東京フィルハーモニー会」と山田耕筰(1914年)

2015-03-21 23:21:00 | 日本の音楽家

『帝劇の五十年』(昭和41年東宝発行、非売品ですが古本屋で1000円ちょっとで買えます)の「主要興行年譜」をながめていると、クラシック音楽関係では帝国劇場が開場した年である明治44年(1911年)の12月6日に開催された「東京フィルハーモニー会」というのが目に留まりました。

この後「東京フィルハーモニー会」が帝国劇場で開かれた日付は下記のとおりです。

大正2年(1913年)11月27日

大正3年(1914年)12月6日「山田耕筰初の管弦楽作品発表会

大正4年(1915年)には5月23日、6月27日、9月26日、10月24日、11月21日、12月12日、12月19日と怒涛の勢いで活動しています。

しかし年譜では翌年大正5年(1916年)には早くも「東京フィルハーモニー会解散」とあります。どんな団体?


『NHK交響楽団五十年史』に答えがありました。一部を引用します。

------------
「東京フィルハーモニー会」は1910年に実業家・岩崎小弥太(1879-1945)が主宰し、帝国ホテルや帝国劇場でピアノ独奏や独唱を通して音楽の普及を図っていたが、岩崎の支援でドイツに渡っていた山田耕筰が1914年に帰国したのを機に、同年12月6日「恤兵(しゅっぺい)音楽会」のサブタイトルを付けた演奏会を帝国劇場で行わしめた。

山田はこの演奏会で自作の音詩「曼陀羅の華」交響曲「かちどきと平和」を紹介し、その他に「ローエングリン」前奏曲、「カルメン」からの詠唱なども指揮して、一躍楽壇の寵児となった。

この日のオーケストラ編成は、海軍軍楽隊東京派遣所所員全員、1913年2月から管弦楽演奏を開始した三越少年音楽隊東京音楽学校職員宮内省楽部の連中から成る3管80余名の大編成で、当時の情勢としてはけたちがいに飛び離れたものであった。(中略)

この演奏会を開くまでの苦心について山田自身はこう語っている。

「三越の楽員諸氏は実際に於て、未だ可愛な少年達であった。現に協会のバスィストである寺尾誠一君、オーボイストの阿部万次郎君、第2ヴァイオリンの田辺千次君、フリュートの宮田清蔵君、なども実に可愛らしいボンチであった。全員が燕尾服を揃へて着たのもこの音楽会がはじめてであった。服は薗部といふ衣装屋から借りて間に合わせたが、この可憐な少年達の足に合ふ靴ばかりはどうしても得られなかった。当時その楽団の指揮者であった久松鉱太郎氏の奇智はしかし、この難関を容易く切り開いてくれた。演奏会の当日、可憐な三越の少年達は、その短小な体躯を巧妙に応用して、各演奏者の間にかくされ配列された。足にはエナメルの礼靴の代りに、黒足袋がはめられたあったからである。

 私の作「曼陀羅の華」の奏せられたのもこの時である。今は亡き親友滋野清武(1882-1924、飛行家)が仏蘭西から持ち帰った竪琴の用ひられたのもこの会であった。奏者がないので親友斎藤佳三(さいとう かぞう、1887-1955)に、無理矢理に竪琴を押し付けた。彼は指の皮をむいて迄連日その練習に当った。たくさん張られた絃の見分け難さから、必要な糸を色分けにして奏したのもこの会であった。帝劇の大道具と激論して、初めて演奏台の上に屋根をつけたのもこの会であった。」
-------------

。。。「東京フィルハーモニー会」はオーケストラの名称ではなく、単に音楽会という意味だったんですね。もちろん、現在の東京フィルハーモニー交響楽団とも全く関係なさそうです。

この演奏会の大成功を喜んだ岩崎は2管約35人からなる「東京フィルハーモニー会管弦楽部」を山田に託し、上記のように1915年には7回もの定期演奏会が開催されたのですが、1916年2月突如岩崎家の出資が停止され、東京フィルハーモニー会は解散に追い込まれたということです。
原因は「山田の身辺に起った中傷」からだそうですが、一体何が起きたんでしょうか。(←Wikipediaに「この頃最初の結婚をした山田が程なく別の女性(後にこの女性と再婚)に手を出し、それを聞いた岩崎が激怒」との記載がありました)

それはともかく、「東京フィルハーモニー会管弦楽部」が新交響楽団につながる、日本の本格的オーケストラの元祖のひとつであることは間違いなさそうです。

『NHK交響楽団五十年史』99ページより(小原敬司氏撮影)


グラズノフ交響曲第4番日本初演(メッテル指揮新響1930年)

2015-03-14 22:56:03 | 日本初演

NHK交響楽団の機関誌『フィルハーモニー』1964年3月号に吉村一夫氏による「グラズノフをめぐって」という記事があり、その中でグラズノフの交響曲第4番の日本初演のことが書いてありました。指揮はエマヌエル・メッテル

Emmanuel Metter (1878–1941) Wikipediaコモンズより。



以下、その記事を引用します。
------------------------

  グラズノフといえば、N響と関連して想い出されるのは、1930年11月12日第77回定期演奏会で、当時の新交響楽団による作品48の本邦初演です。指揮は亡命ロシア人の指揮者、エマヌエル・メッテルでした。彼はロシア革命後、シヘルブラット、ケーニヒ等のいたハルピン交響楽団の指揮者で、ペトログラード音楽院でグラズノフに親しく師事した経歴の持ち主なので、グラズノフに対する敬愛から、その作品への傾倒振りは熱気を帯びた狂信的なものでした。

  当時の練習場は荏原にありましたが、その最初のタクトを振り下ろした時、彼は満面朱にそめて怒鳴りました。「コレ!オーケストラの音ですか?タダ騒ぎだけです。私、関西にいて、新響の評判タクサン聞いています。楽しみにしてきました。汽車沢山のりました。この音!心斎橋の騒ぎと同じです」。しばらく不気味な沈黙の時が続いて、今一度、タクトが振り下ろされ、とにかく第1日の練習が終わりましたが、大荒れの第1日でした。

  彼は来日して5年位で、日本語を文法、小学校読本と、系統的にマスターしたので、洒落や冗談すら日本語で見事にやってのけて、日本人をア然とさせる人でした。楽員が指揮棒を見ないと「私のコワイ顔見て下さい。ワタシ、エンマ逃げろ(エマヌエル)メッテルですが、アナタ達の美しい顔、ワタシに見せて下さい」というほどのものは、日常茶飯事でした。

  少しメッテルについて語り過ぎたようです。話をグラズノフに戻しましょう。新響の演奏会も無事終わった夜、メッテルは興奮に涙をたたえて銀座をブラつき、はるかパリに亡命している恩師グラズノフに長いお祝いの電報を打ち、新響によって、久し振りにオーケストラらしい音に接した喜びを語っていました。練習の際の悪口雑言は、練習の空気を引き締める指揮者としての駆け引きでもあるのです。

 メッテルの言葉によれば、「グラズノフは天から落ちた人」のように、底抜けの善人でした。50才を過ぎて、ペトログラード音楽院の院長の要職にある人が、突然に、18才の女子学生に恋をして、顔を赤らめて恋を打明けた逸話を、メッテルに身振りよろしく聞いたことがあります。

-------------------

グラズノフ直系の弟子に感激の涙を流させた85年前の新響の実力は相当なものだったんですね。

そしてグラズノフって悩みはなさそうだけど、やっぱりすごくイイ人だったんですね!ますます彼の交響曲が好きになってしまいます。


マーラーの兄弟姉妹とオットー・マーラーの交響曲

2015-03-12 20:57:40 | メモ

グスタフ・マーラーの兄弟です。

1.イージドール(Isidor, 1858-1859)☆
2.グスタフ(Gustav, 1860-1911)
3.エルンスト(Ernst, 1862-1875)
4.レオポルディーネ(Leopoldine, 1863-1889)
5.カール(Karl, 1864-1865)☆
6.ルードルフ(Rudolf, 1865-1866)☆
7.アーロイス(Alois, 1867-1931)
8.ユスティーネ(Justine, 1868-1938)
9.アルノルト(Arnold, 1869-1871)☆
10.フリードリヒ(Friedrich, 1871年4月~12月)☆
11.アルフレート(Alfred, 1872-1873)☆
12.オットー(Otto, 1873-1895)
13.エマ(Emma, 1875-1933)
14.コンラート(Konrad, 1879-1881)☆

(桜井健二著『マーラー 私の時代が来た』二見書房+若干の補正)

グスタフ・マーラーを含めた14人の兄弟姉妹のうち、長男イージドールをはじめ実に7人が幼いうちに亡くなっています(☆印)。

マーラーの作品に死の影が落ちるのも当然なのかもしれません。

↑マーラーと8歳年下の妹・ユスティーネ

 

↑ レオポルディーネ(左)とユスティーネ(右)

 

↑ ユスティーネ(左)とエマ(右)。やはり姉妹、マーラーに何となく似ていますね。


3つ画像すべてにユスティーネが写っています。ちなみにユスティーネはアウシュヴィッツ強制収容所で楽団の指揮をしたアルマ・ロゼの母親でもあります。



ところで、マーラーの兄弟の中でもクラシック・ファンとして見逃せないのがマーラーの13歳年下の弟、オットーです。

↑ ナイスな面構え!ピストル自殺してしまいましたが。。

ブルーノ・ワルターによると作曲家オットー・マーラーは、部分的に演奏され大衆の「笑いもの」にされた2曲の交響曲を残しているそうです。
そのほか、ほとんど完成されている第3交響曲、そしてオーケストラ、ピアノ伴奏の歌曲がいくつかあります(Wikipediaより)。

ネットではこれらオットー作品の録音は見つからず、楽譜もIMSLPに載っていませんでしたが、何しろ大マーラーの弟の作品、一度は聴いてみたい!(情報を追加していきます)