チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

「伝説のピアニスト」、ソロモン来日(1953年)

2015-08-31 21:37:15 | 来日した演奏家

『週刊朝日』1953年10月25日号から、イギリスの伝説的なピアニスト、ソロモン・カットナー(Solomon Cutner, 1902-1988)の来日公演に関する記事です。

ソロモンは、1953年9月21日にマネージャーと共に羽田空港に到着し、同日午前記者会見を行ったそうです。

9月26日の日比谷公会堂を皮切りに11月初旬までに全国20回以上の演奏会に出演しました。

以下、堀内敬三氏による文章です。

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八つのときロンドンのクィーンスホールでチャイコフスキーの協奏曲をひき、センセーションを起した天才児。二十三歳でニューヨークに進出して忽ち「シーズンのトップ・ピアニストの一人」といわれた。いま五十歳で欧米楽壇の大立物である。

ソロモンの演奏はすばらしい技巧で人を驚かせるが、アメリカにファンが多いにもかかわらず、アメリカ的なハデな巨匠とちがって、どこまでも英国紳士的である。ハッタリなし。感傷主義なし。質実で、統一されている。古典の演奏に秀でているのはその芸風からも人柄からもうなずかれる。

イギリスの音楽界が世界一方の雄であるわりに、日本では親しみがうすい。ヘンデルを敬いメンデルスゾーンを愛した伝統の国の、ドイツともフランスともちがう音楽的な持ち味には、独特のよさが有る。そのよさをソロモンのピアノは堂々と示しているのだ。

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Wikipediaによると、この公演はあまり話題にならなかったらしいのですが、3年後にはソロモンは脳梗塞を患い引退してしまったため、後から考えたら大変貴重な演奏会になったらしいです。(演奏会場、曲目等追加していきます)

YouTubeではソロモンのスッキリして後味のいいベートーヴェンやブラームスなどが聴けます。


 

(追記)

↑ 意外とかわいらしいお顔ですね(失礼)。『音楽藝術』1953年11月号より。

 

ちなみに、この号の『音楽藝術』の演奏評でソロモンはこき下ろされています。

1.永井進氏「ソロモン第一日を聴いて」

「...だが第一日の彼のリサイタルでは、私は大変失望し、彼の芸術について抱いた疑念と之れに対する確たる結論をまとめる焦燥にかられたまま遂に会場を出て了った。
私の抱いた失望と疑念というのは、現在ヨーロッパの中堅ピアニストである彼の立場としては余りにも時代錯誤的印象を強く受けた事、近代人のエスプリをいささかも感じ得なかったということである。」



2.杉浦豊明氏「ソロモンを聴いて」

「曲の隅々迄、一つ一つのフレーズに至るまで細心の注意が払われており、内面的で真摯な演奏態度には打たれるものが有り、聴衆をひきつける精神的な面での風格とも云うべきものがうかがわれた」としながらも、「最も気に掛ったのは、休符が延びたり、かなり大きなテンポの変動が随所に見受けられ、其れに必然性が感じられなかった事だった」。

 

本当にそうだったのか、それとも当時の日本人の耳がついていけなかったのか。。。?


ピエール・モントゥー初来日(大阪国際フェスティバル、1963年)

2015-08-28 22:33:48 | 来日した演奏家

1963年の第6回大阪国際フェスティバルにロンドン交響楽団が登場し、指揮台には88歳(!)で初来日のピエール・モントゥー(Pierre Monteux, 1875-1964)が立ちました(座りました?)。モントゥーはこの公演の1年3ヶ月後には亡くなってしまうんですね。


↑ 大阪でのロンドン交響楽団のリハーサル。ブラームス交響曲第2番フィナーレ?(ちがってたらごめんなさい)
中央はネヴィル・マリナー(Neville Marriner, 1924-2016)ですよね。Wikipediaには「1972年にアカデミーと初来日」とありますが。。

 

↑ ビュッフェ・ディナー。左からモントゥー夫人、堀大阪国際フェスティバル協会元理事長、村山未知専務理事、モントゥー。

 

↑ モントゥーは小柄だったんですね。一番右は同行したアンタル・ドラティ(Antal Doráti, 1906-1988)。

 



《参考:第6回大阪国際フェスティバル・ロンドン交響楽団公演記録》

【1963年4月13日(土)19時】
指揮/ピエール・モントゥー
ワーグナー: マイスタージンガー前奏曲
エルガー: エニグマ変奏曲
シベリウス: 交響曲第2番

【4月14日(日)19時】
指揮/アンタル・ドラティ
ヘンデル(ハーティ編曲): 組曲「水上の音楽」
モーツァルト: 交響曲第40番
チャイコフスキー: 交響曲第4番

【4月15日(月)19時】
指揮/ピエール・モントゥー
ベートーヴェン: 「コリオラン」序曲
同: 交響曲第8番
ブラームス: 交響曲第2番

【4月19日(金)19時】
指揮/ピエール・モントゥー
チャイコフスキー: 幻想序曲「ロメオとジュリエット」
R.シュトラウス: 交響詩「ドン・ファン」
シューベルト: 交響曲第9番ハ長調

【4月20日(土)19時】
指揮/ゲオルク・ショルティ
ベートーヴェン: 「エグモント」序曲
同: 交響曲第4番
同: 交響曲第7番

 


↑左からドラティ、ショルティ、ロベール・カサドシュ(Robert Casadesus, 1899-1972)。
カサドシュはやはり大阪国際フェスティバルでリサイタルを開いた(1963年4月22日)。4月27日にはベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番、ラヴェルの左手のための協奏曲を弾いた(上田仁指揮東京交響楽団)。

。。。情報を訂正・追加していきます。


『大阪国際フェスティバル30年記念写真集』より


カーネギー・ホールのこけら落としで自作を指揮したチャイコフスキー(1891年)

2015-08-26 20:49:45 | メモ

チャイコフスキーはニューヨークのカーネギー・ホールのこけら落としに指揮者として招かれ、1891年5月5日に自作を指揮していたんですね。


↑ "P. TSCHAIKOWSKY, the eminent Russian composer, who will conduct several of his own works."とあります。

 


↑ チャイコフスキーがカーネギー・ホールで指揮するようす。

 

指揮した自作とはいったい何だったんでしょうか?

それは "Marche Solennelle" という曲。



何それ!? チャイコフスキーがこの日のために新たに作ったのか? 作品番号ナシだし死の2年前だから知られざる重要な音楽なのかも



。。。と思いきや、初期の自作「戴冠式祝典行進曲」をちょっと手直ししてタイトルを変えただけのもののようです。がくっ(YouTubeで聴けます)

チャイコフスキーは当時のニューヨークの聴衆を過小評価していたらしく、音楽が始まってすぐに客席からは「あー、あれか~」という雰囲気が流れた。。。
やっつけ仕事がバレちゃったんですね。自分自身がアメリカで既にかなりの人気者になっていたということを知らなかったんでしょうか。

 

↓ 翌5月6日の新聞記事。指揮者の絵はウォルター・ダムロッシュ(Walter Damrosch, 1862-1950)。



(カーネギーホールの雑誌"Intermezzo"1976年5月号より)


東映ミュージックボード(BM-2001型、1971年)

2015-08-25 19:33:51 | メモ

月刊誌『教育音楽』1971年5月号から、「東映ミュージックボード」の広告です。

この電子黒板に音符をチョークで書いて付属のタクトで触れるとスピーカーから音が流れるという画期的な音楽授業用機器!

いまの時代、けっこうありそでなさそじゃないですか?

左のツマミはシャープやフラットの設定に使われるんだと思います。

でも、スワニー河みたいにシンプルなメロディならいいけど、そうじゃないとチョークで音符を書くのが面倒そう。。


大友直人氏~NHK交響楽団第1回指揮研究生(1979年)

2015-08-23 00:34:15 | 日本の音楽家

『フィルハーモニー』1979年9月号の「N響ニュース」に指揮者・大友直人氏が第1回目の指揮研究生としてN響と契約したことが書いてありました。

 



桐朋学園在学中の話なんですね。すごい。この研究生制度は現在も継続しているんでしょうか?



当時の大友さん、女の子みたい。

 

ちなみに二人目の指揮研究生は北原幸男氏でした。桐朋が続きますね。『フィルハーモニー』1980年6月号。