チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

カラヤンが指揮した上智大学管弦楽団(1973年)

2017-04-27 01:17:11 | 学生オーケストラ

カラヤンが指揮した日本のオーケストラはN響だけではなかった!しかも学生オーケストラだった。。(註、ワセオケより前)

すべては一人のミラクル・ガールの行動から始まったようです。

以下、『音楽現代』1974年2月号より。

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カラヤンが指揮した日本のアマ・オーケストラ 平野浩



来日中のカラヤンがアマチュア・オーケストラを指揮した!......このハプニングな出来事は、昨秋、ラジオ、テレビでも報道されたので、すでに御存知の方も少なくないに違いない。

来日の飛行機も別なら寝食も別。ベルリン・フィルの楽員はもとより、コンサート・マスターでさえ、滅多に話もできない程神格化されている。「帝王」カラヤンを引っ張り出し、五十分間の練習を指導してもらったこのラッキーなオーケストラは上智大学管弦楽団。メンバー九十三名。ベートーヴェンの畢生の大作、第九交響曲にとり組んでいた。

勿論、まともにカラヤンなり、NHKなりに申込んでもOKになる筈がない。だいいちギャラはどうする?......誰でもここまで考えてあきらめるだろう。いや考えてもみないだろう。ところがこのオーケストラでチェロを受持っている二十歳の可愛らしいお嬢さん(外国語学部二年生)は違っていた。

「仲間がきっと喜んでくれると違いないと思って......」彼女は単身カラヤン氏に会見を申込むのである。「いくら偉大な指揮者でも同じ人間なのだから、一生けん命たのめば願いが通じるかも知れない」と思った彼女は、まずマネージャーに追い返される。「重大な用件」は彼女の告げた通り、彼女にとってはまさしく重大だったのだが、マネージャー氏の基準には当てはまらなかったのだ。部員一同の署名を集めた彼女は、「お小遣いの範囲で......」千円のミカンを手土産に、憶せずもう一度宿舎へ。廊下で幸運にもカラヤンにばったり出会った彼女は、「三十秒でも結構ですから、是非私達のオーケストラを指導してください」と必死のドイツ語で話しかけたところで、再びマネージャーが現われ、カラヤン氏を彼女から引離して連れ去ろうとする。しかしこのとき、カラヤン氏はマネージャーに命じて彼女の名前と電話番号を控えさせたのである。

一筋の光明を見出した隅部まち子さんは、その夜のコンサートに駆けつけ、花束の中に緬々と願いを綴った手紙をしのばせて差出した。カラヤンは彼女を覚えていて声をかける。NHKの職員が割って入って彼女を隔てるが、カラヤンは大声で明後日練習場に来るように呼びかける。翌々日彼女はたった一人で、だだっ広いNHKホールでカラヤン氏とベルリン・フィルの練習を聴いたのである。例によってNHKの職員に注意され、つまみ出されかけるが、カラヤン氏は自分が許可したのだからと制止する。

筆者は判官びいきの余り、マネージャー氏や管理主義・権威主義の殿堂であるNHKを仇役に仕立てるつもりはない。彼等は有能な官僚機構の一員であり、拒絶的反応や発想は、いわばその当然の産物だからである。いずれにしてもカラヤン氏はNHKを押し切って彼女の願いを入れた上、その晩の招待券を彼女に贈った。コンサート・マスターのシュヴァルベ氏(Michel Schwalbé, 1919-2012)もその晩の独奏を彼女に献呈すると申し出る。彼女の心意気が彼等の心を揺り動かしたのである。

感涙にむせびながら彼女はこのとき、幼ない頃父親に聞かされた映画「オーケストラの少女」の場面を想い出したという。貧しい楽士だった父親の楽団の窮状を見兼ねたその少女は、楽団を盛り立てようと単身練習場にもぐり込み、天下のストコフスキーを連れ出したのだった。隅部さんの父(医師)は昔、何度も何度もこの映画を繰り返して見たのだそうである。

「オーケストラの少女」の願いがかなえられ、カラヤン氏はいよいよ上智大学にやって来る。「門を入るまで信じられなかった」と彼女は言う。「夢のような」この成り行きに緊張し切った学生達の練習を、カラヤン氏は腕組みしたままじっと聴き入る。指揮をしていたのは民音指揮者のコンクール入賞の新進、汐澤安彦君。

そのうちにカラヤン氏は「各セクションの技倆を値踏みするように」「厳しい目つきで」練習場の中を歩きはじめる。やがて練習をとめて指示を与え、遂に自分で振りはじめたのである。

A「天来の音楽性というか、そうあるべき音楽がそこに示されたという印象でした」

B「確信をもって、からだ全体でそれをしめしてくれているという感じ」

C「こう弾けというのではなく、下手ながらにもそう引き出されてしまうのです」

感動いまださめやらぬ面持ちで交々語る彼等の言葉の端々に、その驚きが素直に表現されている。やはりカラヤンは偉大な指揮者だった。

A「テレビなどで見るとわかりにくそうに見えたけれど、実際に振ってもらうと、とてもわかり易かった」

D「常にレガートであること、音の流れを途絶えさせないこと、フレージングを永く充分に保つこと、ppを大事にすることなど大切なことを教わりました」

E「日頃指揮者から注意されていることと基本的には同じことを注意されていたのです」

F「しかし説得力は違いました。適度にリラックスさせながら集中させていくテクニックは素晴らしい」

G「テープをあとで聴いてみても驚く程ふっくらした音になっているのです」

H「レコードで聴いているカラヤンのあの感じ。アマチュアに要求することもプロに要求することも根本的には同じなんだナと思いました」

なる程カラヤン氏は核心にふれる貴重な示唆を遺した。息の永いフレージング、途切れない音の流れ......は最も大切な音楽的表現の一つであり、しかもとかく我々日本人が苦手とするところ。レガートも音楽の基本である。ppを大事にすることはダイナミック・レンジの拡大につながる基本。リラックスと集中こそは指揮者の欠いてはならないテクニック。アマチュアでもプロでもよい演奏を目指す方向に変わりがある筈はない。「日頃注意されていることと同じことを注意された」ことに気付いたのは今後のためにとてもよいことだった。

A「とても真面目な芸術家という印象でした。単純で、基本に忠実で、無理が全然ない」

B「カラヤンについてのとかくの批判も耳にしていましたが、みんな誇張された中傷だという感じでした。実際に接したカラヤンは音楽に厳しく、人間的には暖かい誠実な人で、虚飾やはったりなど全くみられませんでした」

百の虚像よりも一つの素顔は力強い説得力を持つ。カラヤンは自らの虚像に溢れる日本に、実像を投じたのである。

G「勿論一人残らずカラヤンの崇拝者になりました」

H「カラヤンは僕達に自信を与えてくれました」

I「一人一人があれ以来とても楽しくなり、オケに入って本当によかったと言っています」

カラヤンは「君達のオーケストラを、ドイツで行われるアマチュア・オーケストラのフェスティバルに招待するよう大臣に話そう」と言って帰った。びっくりついでに後日談にも期待しよう。

彼女の功罪は客観的には総合的なバランス・シートの上で判断すべきである。カラヤンはこの上智訪問のため、ベルリン・フィルの午前の練習を短く切り上げ、更に午後のレセプションを45分おくらせた。キリキリ舞いをさせられた人もいた筈だからである。ただ確かなのは、練習を短く打ち切ったその晩の演奏が完璧な名演だったこと。そしてその一日中、どうしてカラヤンが上機嫌だったのか楽員もいぶかしんだという。

もし、この出来事を、はね上りの娘さんの気まぐれな衝動と、大向う受けをねらったカラヤンのハッタリ......というように受け取る人がいるとするなら、それは間違いである。筆者は実際に彼等に会って確信を持つことが出来た。不可能を可能にしたのは「仲間が喜んでくれると思って」私欲なしにひたむきに行動した一人の女子学生の誠意が通じたものである。じっと視線をそらさない彼女のひとみは、こわいくらい澄み切っていた。そしてこの娘さんをひたむきに行動させる背景となった仲間も素晴らしかった。音楽することへの情熱に燃えている、しかも謙虚な仲間達だった。

カラヤン氏も素晴らしかった。短いひとときの間に貴重な教訓と自らの実像を伝え、そして何よりも彼女が信じた通り、国境や世代や、大家とアマチュアの違いを超えた、音楽する者同士の暖かい友情と信頼を永遠に遺したのであった。

 

↑ この女性こそ、隅部さんなんでしょか?

 

 ↑ カラヤンが指揮している!

 

 ↑ はい、やってみんしゃい

 

↑ この状況では汐澤安彦さん、男らしくどっさりビビりますよね。



。。。情報を追加していきます。


「新人ヴィオリスト」今井信子さん (1971年)

2017-04-04 23:57:06 | 日本の音楽家

『音楽現代』1971年8月号から、「新人ヴィオリスト」今井信子さんです。

↑ 娘さん的雰囲気。






↑ 1971年6月20日、日生劇場。ピアノは小林道夫。

曲目は

レーガー:無伴奏ヴィオラ組曲op.131

シューベルト:アルペジョーネソナタ

ヒンデミット:ヴィオラソナタop.11-4

ブラームス:ヴィオラソナタ第2番 op.120-2 変ホ長調

アンコールとしてクライスラーの小品

 

ネットで調べると今井さんがヴァイオリンからヴィオラに転向したのは1964年だということです。よって当時すでに「新人」じゃないですよね。

いまや日本を代表するというより、世界のヴィオリスト今井信子さん。自分もBISの録音をはじめ、お世話になっています。


オペラ歌手・長門美保さんとご主人(1955年)

2017-04-01 02:00:14 | 日本の音楽家

『画報文化生活』1955年12月号から、オペラ歌手の長門美保さん(1911-1994)です。



長門さんは戦後、長門美保歌劇団を組織して藤原義江の藤原歌劇団、柴田睦陸の二期会と共に日本のオペラ界と三分。すごい人!

本名は鈴木美保。東京音楽学校(現・芸大)の本科三学年在籍中にマーラー「復活」の独唱で楽壇にデビュー、研究科在学中の1934年には第三回音楽コンクールで第一位になったそうです。

ちなみに長門さんは1933年に東京音楽学校を卒業、藤山一郎氏(1911-1993)と同窓生。マリア・トール(Maria Toll)、マルガレーテ・ネトケ=レーヴェ(Margarete Netke-Loeve, 1884-1971)らのソプラノ歌手に師事しました。


↑ 世田谷区代田の住まい兼スタジオは1954年に完成したばかり。

 


↑ 舞台衣装がたくさん。

 


↑ ご主人の鈴木雄司(雄詞?)氏は歌劇団の運営にも当たってオペラ界屈指の名支配人。

 


↑ 週三回、50~60人の歌劇教室と70~80人のコーラス教室が開かれていたそうです。

 


↑ 同じオペラの仕事でも役割が違うので食卓でご夫婦が一緒なのは昼食だけ

 

。。。情報を追加・訂正していこうと思います。