チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

20世紀初頭・アメリカの初等学校のオーケストラ

2015-01-31 19:43:20 | メモ

TIME-LIFE BOOKS 第一巻(1900-1910年)より、アメリカ初等学校のオーケストラです。今から100年以上前。

フロリダのセント・ピーターズバーグ(St. Petersburg, Florida)の公立学校だそうです。

チューニング中のようですね。先生と生徒が一緒になってどんな音楽を演奏していたんでしょうか。

みんな真面目そう。この中に有名な演奏家に成長した子供もいるかも!それにしても、チェロ裸足。。


1934年の蓄音機とレコード針

2015-01-29 22:00:35 | オーディオ

再び『レコード音楽』昭和9年1月1月号から、蓄音機関係の広告です。

↑ コロンビア蓄音機。デザイン的にはみんなほとんど同じでつまんねー

 

↑ 銀座西八、鈴木バイオリン「サイイン蓄音機」の広告。「サウンドボックスはサイイン病院に」とか意味不明。

(追記:サイインは「済韻」だそうです。hiro様、コメントありがとうございました。

 

↑ 銀座・山野楽器の広告。ビクター・ラヂオ・エレクトロラJRE-31型

 

 ↑ 東京・神田の大蓄商店のナポレオン針。高音針、全音針、両音針が気になります。針によるトーン・コントロール?

 

↑ 神田神保町の名曲堂。アポロンの竹針とカッター(爪切りかホチキスに見える)。竹針はレコードが傷付きにくいんですね。

 

↑ 同じくアポロンの新発売竹針カッター。鼻毛切りそっくり。説明なしで見せられたら何に使うのかわかりませんね。

 

↑ これらの蓄音機・針でこのようなレコードが聴かれていました。耳ダンボのキャラクターがキュート

 

。。。いまでも蓄音機でSPレコードを聴かれている方って結構多いんでしょうか。

この前、蓄音機でシャリアピンなどを聴いている年配の人が竹針カッターの使い方を今度教えてくれると言ってくれました。また報告します~


法政大学交響楽団・お寺で練習(1956年瑞聖寺)

2015-01-25 17:15:41 | 学生オーケストラ

『週刊朝日』1956年12月16日号から、法政大学交響楽団の東京・白金台の瑞聖寺での練習風景です。

(撮影・吉江雅祥氏)

なぜわざわざお寺の本堂を練習場にしていたのかナゾです。他に場所がなかったのか、あるいは音響がよかったのか。。

どっちにしろ、さすがにミサ曲とかレクイエムとかは演奏できなかったでしょうね。


1950年代の来日演奏家ラッシュ~米ソ対決

2015-01-25 00:10:32 | 来日した演奏家

昭和30年代の音楽雑誌を読むと、この時代に海外の演奏家が次から次へとよくも来日したもんだと驚くわけですが、その背後には冷戦下のアメリカとソ連の対決もあったんですね。



以下、『週刊東京』1956年9月15日号の記事の要約です。


【初戦 米ソ引き分け】
米ソ音楽家日本送り込み対決のきっかけになったのは1955年のダヴィッド・オイストラフの初来日。S事業という対ソ貿易商社の口利きでソ連政府がOKを出したので実現したそうですが、大成功にソ連政府は大喜びだったようです。

オイストラフの大成功を見たアメリカ当局は、ANTA(The American National Theatre and Academy)という国家組織の協会を促してシンフォニー・オブ・ジ・エアーを送り込んできました。当時、日本の民間主催者には春秋2回各15,000ドルしか外貨の割当てがなかったのでこんな大きいオーケストラを呼ぶのは不可能だったそうです。この公演も大成功でまずは米ソ引き分け。



【第2戦 ソ連の勝利】
続けてアメリカはやはりANTAによりロサンゼルス・フィルハーモニックを投入しました。しかしシュトゥットガルト室内管弦楽団 とウィーン・フィルが来日した直後ということで最初は日本での引き受け手がなく、ロス側は来日時期を延期し、しかも一回の出演料を当時のN響と同じくらいの50万円に下げてきたそうです。それにもかかわらず、日本側ブローカーの暗躍で入場料が下がらず、客足はイマイチだったようです。(詳細調査中)

それに対してソ連は「中共の手ゴマを使って京劇をもってきた」。京劇はブームとなり、第2戦はアメリカの敗北。



【それ以降】
挽回を図るアメリカは、チェロのグレゴール・ピアティゴルスキウェストミンスター合唱団をまず、それぞれ1956年9月と11月に来日させました。

一方、ソ連はピアニストのレフ・オボーリンを9月末に「派遣」、しかもアメリカの先手を打つように次の年の春の分まで発表して、ストラヴィンスキー(米)、ショスタコーヴィチ結局来日しませんでした)、ムラヴィンスキーギレリス(1957年初来日)の訪日予定を伝えました。

アメリカも負けじとニューヨーク・シティ・バレエ、テノール歌手のリチャード・タッカー、ダンサーのキャサリン・ダナム(Katherine Dunham)、ストコフスキーボストン交響楽団などの訪日を援助する用意があると発表しました。しかもアメリカは、ANTAのような官僚機関に頼っていてはじれったいとばかりに、東京その他のUSIS(US Information Service,アメリカ情報局)への予算を増額して万端の手を打ったと伝えられました。




【日本の演奏家への影響】
アメリカ、ソ連をはじめとする来日演奏家ラッシュで演奏会場の確保がむずかしくなった国内の演奏家は、やむを得ず山葉ホールや第一生命ホールのような小さな会場へ行くわけですが、来日演奏家の日程と重なってしまったりすると会場はガラガラ。。。結果、普通は演奏会を開かない時期の公演が増えたそうです。



。。。当時の日本はいいようにやられていましたね!(いまでも?)


グラモフォン廉価盤「クラシック・ステレット」(17cmステレオ、1966年)

2015-01-20 21:55:41 | メモ

『音楽の友』1966年3月号に、グラモフォンの一枚500円の廉価盤「クラシック・ステレット」の広告が華々しく綴じ込まれていました。

 

↓ 第2回のラインアップ。「ステレット」って言葉は、ステレオとブックレットの合成語なんでしょうね。

 

↓ グラモフォン額縁に日本語が印刷されてるのはビンボくさっ、というより新鮮!

ところでLPレコードって、内側にいくほど音が悪くなっていく宿命らしいです。

これらの直径17センチのレコードは、30センチに比べると最初から半径6.5センチも内側から再生されることになるから、同じ回転数なら音質に関してはやはり「安かろう悪かろう」だったんでしょうね。原盤からのプレスでは17センチも30センチもあんまり手間は変わらない気もしますけど。。塩化ビニルの材料費が高かった?

当時最高のシステムでレコードを聴いていたと思われる評論家三氏(小林利之、志鳥栄八郎、村田武雄)に勧められてもイヤミにしか思えませんが、音質を犠牲にしてまでも、よりたくさんの音楽を聴きたくてこのシリーズを選んだリスナーたちは、音質第一主義のお金持ちよりよっぽど真面目に、深く音楽を聴こうとする人々だったんでしょうね!

それにしても再生開始の瞬間から時間が経つほどに音質が悪くなっていくという信じられないドMスペックの「レコード」って、ノスタルジックな雰囲気を別としたら精神衛生上良くないです。音質が最後まで変わらないテープ・オーディオやCD以降のメディアに感謝。


ところでここにも自分が知らない指揮者が4人いました。
でもすべてWikipedia日本語版に名前が見つかったのは、さすがグラモフォン!(自分が無知なだけ?)



ウィレム・ヴァン・オッテルロー(Willem van Otterloo, 1907-1978)は、オランダの指揮者。作曲家、チェリスト。

 

↑ ヴィトルト・ロヴィツキ(Witold Rowicki, 1914-1989)はポーランドの指揮者。

 


リヒャルト・クラウス(Richard Kraus, 1902-1978)は、ドイツの指揮者。

 



↑ フェリックス・プロハスカ(Felix Prohaska, 1912-1991)はオーストリアの指揮者。