チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ベートーヴェン・最後の遺言書(1827年3月23日絶筆)

2014-09-29 00:03:23 | メモ

prs. 29. März 1827.

Mein Neffe Karle Soll alleiniger

Erbe seyn, das Kapital

meines Nachlalaßes soll jedoch

Seinen natürlichen oder testamen-

tarischen Erben zufallen. –

Wien am 23. März 1827

Ludwig van Beethoven mp.


私の甥カールは、私の唯一の相続人であり、よって私の遺産全部は、必然的に、またこの遺言の指定により、彼の所有となるものである。

ウィーン、1827年3月23日

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン


 

書き終えたベートーヴェンは、これをブロイニング(※)に渡しながら、「これで書くこともおしまいだ」と言った。その後「諸君、喝采したまえ、喜劇は終わった」とブロイニングとシンドラーに言ったのだという。

これを絶筆として、彼は三日後の3月26日に56年3か月の生涯に幕をおろした。


※ Stephan von Breuning(1774-1827) 台本作家でありベートーヴェンのボン時代からの友人。3月23日にベートーヴェンを訪れ遺言書を書くよう説得した。ベートーヴェンの死の数ヵ月後に彼も亡くなった。

(出典:音楽之友社『ベートーヴェン研究』昭和45年、近衛秀麿著『ベートーヴェンの人間像』昭和45年。一番上の prs. 29. März 1827 の意味がわかりませんでした)


。。。自分の名前を何度かなぞっています。字を書くのも辛かったんでしょうね(泣)。


NHK交響楽団1955年メンバーと首席奏者たち

2014-09-28 00:49:52 | 日本の音楽家

NHK交響楽団の昭和30年(1955年)のメンバーの写真が「芸術新潮」昭和30年6月号に載っていました。各パートの首席奏者の方々をネットで調べると錚々たるメンバー!(敬称略)

弦楽器群。いくつかの四重奏団が組まれていたようです。

 

木管楽器群。

 

金管楽器群。

 

打楽器群。何気に岩城宏之さんがタンバリン、外山雄三さんがシンバルですね。

 

専属ピアニスト 高良芳枝(1925年生まれ、旧姓内藤)

 

 「N響の紅四点」 左から武内智子(第1ヴァイオリン)、山畑松枝(ハープ1926∼1990)、野崎千枝子(第2ヴァイオリン)、島崎多加(ハープ)

 

以下、当時の首席奏者の方々です。

コンサート・マスター 岩淵竜太郎(1928-2016)

 

第2ヴァイオリン 鷲見四郎(1913- 2003)第一回毎日音楽コンクール(1932)のヴァイオリン部門で第1位。

 

ヴィオラ 滝川広(1900年10月29日生まれ。松坂屋オーケストラにて音楽を始める)

 

チェロ  大村卯七(1904-1979)

 

コントラバス 寺田日瑳三(1901年11月20日生まれ)

 

フルート 吉田雅夫(1915-2003)

 

オーボエ 坂逸郎 ( ばん いつろう、1911-1993 これはイングリッシュホルンですね)

 

クラリネット 松島貞雄(1900年8月28日生まれ)

 

ファゴット 三田平八郎(1915-1981)

 

ホルン 和方寛茂

 

トランペット 中村鉱次郎(1898年4月15日生まれ。帝国ホテル・バンド部員)

 

トロンボーン 佐藤弘

 

ティンパニ 小森宗太郎(1900-1975)

 

。。。情報を修正・補足していきます。皆さん、いい顔してますなー!

↓(参考)NHK交響楽団機関誌『フィルハーモニ-』1956年4月号より。上の写真の首席奏者と一致したバージョンに変更しました。


プッチーニ「蝶々夫人」に出てくる日本の歌と田邊尚雄

2014-09-27 15:54:16 | 蝶々夫人

プッチーニに日本の歌の楽譜を送ってあげたという音楽学者田邊尚雄氏(1883-1984)ご本人がプッチーニとのやりとりについて書かれていました。(音楽之友昭和25年12月号)

「一体何うしてプッチニから私に手紙が来たのかというと、その頃徳川頼貞(※1)さんがイタリーへ漫遊された時にプッチニに逢い、談隅々『お蝶夫人』のことに及び、プッチニは徳川さんに『此のオペラは日本音楽の旋律を採り入れたが、今から考えて見ると失敗であったと思う。それは当時は日本音楽の神髄を知らなかったからだ』と話されたという。それで『これから後に東洋の材料を用いて新しいオペラを作る場合には、東洋音楽に精通された人に相談をして、充分な資料を提供してもらいたい。頂度今一つ新らしい東洋のオペラを作って居るから(※2)、誰か然るべき学者を紹介してもらいたい』ということであった。徳川さんは『それには幸い私の友人に田邊尚雄という東洋音楽の研究家がいるから、此の人を紹介しよう。早速私から手紙を出して東洋音楽の楽譜を送ってもらうようにします』と答えられたら、プッチニも非常に之を喜ばれたという。

 そこで徳川さんから早速私に手紙が来て、『之々の理由でプッチニへ至急東洋音楽の代表的なものの楽譜を成るべく沢山送ってもらいたい』という依頼であったので、私は大至急に日本の雅楽や中国音楽の代表的なものの楽譜を取敢えず二十曲ばかり纏めて別封として送り、別に之等の曲の解説を英文で認めて書状にて封じて送った。そこで前記の如くその返状としてプッチニから私にあてて手紙が来た次第なのである。

(註 楽譜はスパイの手紙と間違われ、遂にプッチーニの東洋オペラは再現出来なかった。)

田邊尚雄」


※1 徳川頼貞(1892-1954) 音楽学者。
※2 トゥーランドットのことではないのか?

このブログの記事「蝶々夫人」に続く日本オペラ第2弾?(実現せず)では「蝶々夫人」に日本の歌が出てくるのは田邊氏が楽譜を送ってあげていたためと書きましたが、実はそうではないようですね。プッチーニは一体どうやって日本の歌を知ることになったのでしょうか。

(追記)音楽之友社『学生の音楽事典』(昭和32年発行)の「お蝶夫人」の項には、「プッチーニは駐伊公使、大山綱介夫人から、日本に関する材料を入手し、オペラの中に「君が代」「越後獅子」「さくらさくら」「かっぽれ」「元禄花見踊り」「宮さん宮さん」などの旋律を入れている」、とあります。

 

↑ 三浦環(1884-1946)の蝶々さん。カワイイ!昭和11年歌舞伎座にて


指揮者・福田一雄~「絶対テンポ感」

2014-09-24 20:31:47 | 日本の音楽家

文藝春秋デラックス昭和54年5月号「バレエへの招待」に、日本のバレエ指揮者の第一人者・福田一雄氏(1931年生まれ)による注目すべき記述がありました。絶対音感ならぬ「絶対テンポ感」。



以下福田氏の文章です。

〈「絶対テンポ」で振るバレエ〉

「私は、全く同じテンポでピアノを弾いているつもりなのに、踊り手に『いつもより速い』とか『おそい』と云われることがあり、その際、曲の時間を計ってみると、ほとんどちがっていないことが多かった。これは、踊り手も生身の人間で、その日のコンディションや、相手の出方、ステージの広さ等で、同じ音楽でも、ほんの少し速く、または、おそく感じるのである。

私は、五歳の時に絶対音感早教育を受け、絶対音感に関しては、自信をもっていたのであるが、さらに”絶対テンポ”といったものを身につけようと努力した。最初は、メトロノームを併用したが、(プロコフィエフの)『シンデレラ』の稽古ピアノを約一年間弾いている間に、完全にこれを身につけることができた。

メトロノーム120(四分音符=120)、これが大体の標準となるが、これは、ごく普通のマーチのテンポである。これを倍にすれば四分音符=60で、この60は、ごく普通のウィンナワルツの一小節のテンポと思って頂けばよい。

これを標準として、少し速めのマーチが四分音符=132、ギャロップのテンポとして四分音符=168、二拍子のガボットのテンポとして四分音符=80、などを記憶すると、あとはもう、メトロノームなしで、完全に、40、50、60、72、80、96、100、110、120、132、144、160、168等のテンポを作ることが出来、現在、バレエを指揮する上に大変役に立っている。」


。。。絶対音感に加えて絶対テンポ感を持ってたら特にバレエ指揮者として無敵ですね!


さらには、福田氏は同じ記事の中で「劇場オーケストラこそが一流だ」とおっしゃっています。

「現在では、放送局のオーケストラや、ステージでも演奏会専門のオーケストラが、世界各国に確立し、また、それらが一流の楽団として、一流の交響曲指揮者による演奏によって華を競っているが、一昔前迄は、オーケストラの主体は、ほとんどすべて、劇場オーケストラであった。

現在でも、ウィーン・フィルは、ウィーン国立歌劇場オーケストラの別働隊で、オペラやバレエの間をぬって演奏しているため、このウィーン・フィルの演奏会は、常にマチネーである。

(中略)いつもピットの中にいるオーケストラが、ステージの上で、『こんどは主役』とばかり張り切って、歌のないオペラ、踊りのないバレエの精神で、交響曲をうたい、かつ、ダイナミックなリズム感で演奏する.....それがオーケストラの真の姿ではないだろうか。

日本では、どうも、交響曲や協奏曲を演奏するのが、オーケストラの主たる役目で、オーケストラのピットの中で、オペラやバレエを演奏するのは、第二義的な役目という考えがあるようだが、これはとんでもない間違いで、一流の劇場オーケストラは、一流の交響楽団になり得るが、その逆には、なり得ないのである。」


。。。うーん、妙に納得!


黛敏郎・「題名のない音楽会」と政治的活動

2014-09-23 00:14:40 | 日本の音楽家

『涅槃交響曲』で有名な作曲家・黛敏郎(1929-1997)は出光提供の「題名のない音楽会」の司会を長い間やっていたんですね。

↑「題名のない音楽会」リハーサル。写真はすべて平凡パンチDELUXE1967年1月号より。

 

↑タバコが似合いますね!


「音楽芸術」1997年6月号の、富樫康氏による黛敏郎追悼文には「題名のない音楽会」の司会を引き受けた経緯が書いてあります。

「1961年8月は吉田秀和氏を所長として、柴田南雄以下数人の前衛作曲家が結成した二〇世紀音楽研究所が、大阪で音楽祭を催した年である。その年はまた一柳慧(1933年生まれ、オノ・ヨーコさんの元旦那さん)がアメリカ十年の留学を了えて帰国した年で、同音楽祭は一柳が留学中に体得したジョン・ケージの唱えるチャンス・オペレーション、つまり偶然性の音楽を紹介したのである。そしてその司会と解説を行ったのが同じメンバーの黛敏郎であった。話上手な黛の説明はまことに明晰をきわめ、そのとき初めて聴く一柳が作曲した偶然性の音楽を、誰もが納得できるように解説した。
 その力量が買われたのであろう、64年から黛はテレビ朝日が毎週日曜日朝に放映する『題名のない音楽会』の構成、司会役を引き受け、それが人気番組となり、死去に至るまで三十年余り、1500回を越える長寿番組に育てたのは驚異的である。」


。。。よく1500回分の番組のネタがありましたね!ちなみに亡くなる前に、その先3回分の収録を済ませていたそうです。


↑日テレの報道番組のキャスターもつとめた!めちゃマルチ。

 

↑ダンディすなあ


黛敏郎はまた、芥川也寸志亡きあと日本作曲家協議会会長、日本音楽著作権協会会長も引き受けたということです。

さらには「日本を守る国民会議」の議長をつとめたり、建国記念の日について積極的に発言したりしたそうです。このへんの黛さんはあまり評判が良いとは言えませんが、そのような政治活動の裏にはどんな動機付けがあったんでしょうか。

富樫氏はこの点について書かれたドイツの新聞(Frankfurter Allgemeine Zeitung紙)を親しいドイツ人から送られたそうです。【Uwe Schmidt氏による"Kaisertreu der Komponist Mayuzumi"という論文の一部。植村耕三訳】

「三島神話は生きつづけた。あるときは死後硬直的に、ある時は生きいきと。文学者、ネオナショナリスト、或いはこの傾向の文学者は、それぞれに合った部分を取りあげた。・・・・黛敏郎は微温的なデモクラシー、祖国喪失、反日本的策動に不快の念を現しながら語る。『もし三島が現在を体験したとしたら、彼はもう一度自ら死ぬだろう』。このような推測をする相続権を、ひょっとしたら黛は他の誰よりも持っているかもしれない。彼が正しいと認められてよいのはこの一点であろう。」


。。。黛さん、死ぬのがちょっと早すぎた?