チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

野外オペラ「ローエングリン」(1959年、国立競技場)

2016-05-31 20:06:41 | メモ

今から57年前、国立競技場で「ローエングリン」が上演されていました。藤原歌劇団と二期会の共同公演。オーケストラは森正指揮ABC交響楽団。

1959年8月15日(土)午後6時30分から3時間にわたってスタンドを埋めた6万人の観衆を魅了したということです。

スタッフ及びキャストに関しては昭和音楽大学オペラ研究所オペラ情報センターのウェブページに詳しいです。


↑妹尾河童氏デザインのプログラム表紙。

 


↑第3幕第2場。馬事公苑、清風会、東急アバロン乗馬学校による騎馬隊。競馬みたい。装置は岡本太郎ですが、いかにもそれっぽいオブジェが見えます。

 


↑第一幕より。スヘルデ河畔

 


↑第3幕第1場、婚礼の場。小牧バレエ団による踊り。

 


↑同じく婚礼の場。「婚礼の合唱」に祝福されるけど花婿の騎士が誰だかわからず不安なエルザ(砂原美智子)。

 


↑騎士はフリードリヒを一撃で倒す


。。。画像を見る限りなんだかとってもパワフルな公演!日本人だけでよくここまでやりましたね。

(画像は『国際文化画報』1959年11月号より)


東京フィルハーモニー交響楽団の前身、少年音楽隊・松坂屋シンフォニー

2016-05-30 22:28:04 | 日本の音楽家

以前、略称が同じ日本のオーケストラについての整理にも少し書きましたが、現在の東京フィルハーモニー交響楽団は楽団名をまるで出世魚のように変えていて、ややこしいです。

そのルーツは1911年(明治44年)に結成された「いとう呉服店少年音楽隊」にありました。いとう呉服店は現在の松坂屋。


↑1911年1月の音楽隊員募集新聞広告(新愛知新聞)。「12~14歳の男児12名を募集。市内在住者にして父兄監督の下に通習し得べきもの」とあります。

 


↑1911年発足当時のメンバー。海軍軍楽隊の沼楽長を招いて結成。

 

↑1917年(大正6年)5月12日 宙返り飛行の会場である名古屋築港埋立地で鳥人スミスとお母さん(画像左)のために演奏。

 


↑1932年(昭和7年)大阪中之島公会堂で松平里子独唱会にて交響楽団として演奏。【松平里子さんは1931年9月22日にミラノで亡くなったはずなのにヘンですね】

 


↑1933年(昭和8年)日比谷公会堂で演奏

 


↑名古屋新守座で佐藤美子(1903-1982)を迎えて演奏(交響楽団結成の頃。年代不詳)

 


↑1935年松坂屋シンフォニーの秋季大演奏会のチラシ。指揮は早川弥左衛門。
写真は左から斉田愛子(1910-1954)、藤原義江(1898-1976)、三上孝子(藤原義江の愛人で最期を看取った人だということです。いったい何人の愛人がいたんでしょうか?)

 


↑その秋季大演奏会のプラグラムの一部らしいです(ちょっと違うような?キナ臭い)。松平里子さんを看病した原信子さん(1893-1979)も歌っています。

(以上の画像は『松坂屋50年史』1960年より。)

情報を修正・追加していきます。


レコードのできるまで(河出書房、1967年)

2016-05-23 22:17:48 | オーディオ

ブックオフでまた河出書房の世界音楽全集のうち「新世界より」を108円で買ってしまいました。このシリーズには変な魅力があります。音悪いのに。



17センチLP2枚組みで全曲収録。シルヴェストリ指揮フランス国立管弦楽団。



「レコードのできるまで」という小冊子が挟まっていました。



↑ 「東芝がその名誉にかけて、レコードを製作」。がんばれ東芝!

 



↑ レコードができるまでをわかりやすくした図。

 



↑ レコーディングスタジオ。いったんテープに録音されます。

 



↑ カッティング・マシン。金属ドラムの上に黒く光っているラッカー盤(アルミニウムの板の上にラッカーを塗って乾燥させたもの)の皮膜に音溝が特殊な加熱切削針で切りこまれていく。ラッカー盤はこのままでは傷つきやすいので銀メッキされる。

 



↑ 銀メッキの上にさらにニッケルの厚メッキをしてベコベコしないがっちりしたメッキ層にしてラッカー盤から剥がす。これがマスターと呼ばれるもので、大切に保存される。(音溝が逆の山になっている。)

このマスターを種版として、マスターの表面にニッケルメッキをして(そのままメッキをしたのでは後で剥がれなくなってしまうので剥離処理を行っておく)剥がす。

このマスターから剥がしてできたものをマザーといい、普通、原盤と呼ばれる。マザーは針をかけて聴くことができる。

このマザーに再び離液処理を行ってから、0.25ミリの厚いニッケルメッキをしてから剥がし、さらに表面にクロムメッキをして丈夫にしたのがスタンパー



↑ スタンパーはレコードをプレスするときの押し型で、プレス機の上下にスタンパーを取り付け、そのスタンパーの中心にそれぞれの面のレーベルを置き、あらかじめ熱して柔らかくしてある材料を下のレーベルにのせて、プレス機を運転して加熱、加圧、冷却による圧縮成形を行う。

プレスされたレコードを取り出すと、余分な材料がまわりに付いているので、これを切り落とすと出来上がり!



↑ さらに厳密な検査が行われる。何故かみんな女性。200枚ごとに1枚のレコードが抜き取られ試聴される。もし不良が発見されると、その200枚はすべて廃棄される。



↑ このほか、音溝検査、反りの検査、雑音測定、外観、寸法、偏心などの検査が行われる。



。。。一枚のレコードがこんな工程を経ていたとは!でも、できれば「マザー」で聴きたいですね~

最後に、「レコードのかけかた」。レコードが再び見直されているいま、参考にしたいです。


NHK『音楽の花ひらく』(1967年)と当時のFM番組

2016-05-22 00:36:02 | メモ

「グラフNHK」1967年4月号より、新登場の音楽公開番組「音楽の花ひらく」です。



司会は三橋達也。ピンク服の4人は解散半年前の元祖ジャニーズ。

出演は
山本直純(ピアノの前のヒゲの人)指揮東京ロイヤル・ポップス、
東京フィルハーモニー交響楽団、
中村八大クインテットのほかアマチュアの合唱団や子供たちも歌ったそうです。

放送時間は水曜日午後9時40分~10時30分、再放送は木曜日午後4時10分からでした。32回放送。

良くも悪しくもNHKらしい番組ですね。

「東京ロイヤル・ポップス」の母体は日本フィルなんでしょうか?
オーボエにこの方がいらっしゃいます。



ところでこの号のグラフNHKには当時のFM放送番組時刻表も載っています。
ステレオ番組が徐々に増えてきていた時代なんですね。


「諏訪根自子のようになれ」と言われた巌本真理

2016-05-20 23:09:17 | 日本の音楽家

アサヒカメラ1951年12月号の表紙はヴァイオリニストの巌本真理さん(1926-1979)です。



めっちゃ魅力的!女優さんみたいですね。吉岡専造(1916-2005)撮影。


1959年の松竹映画『乙女の祈り』にも出演されたそうです。


↑上の画像の真ん中は主役の鰐淵晴子さん。

そんな巌本真理さんですが、ヴァイオリニストを目指した当初はけっこう屈折していたようです。『藝術新潮』1959年8月号より。

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「真理は世間でいわれるような天才とは思っていない。しかし、異常な才能をもっているということは親馬鹿でなくともいえる」。これは今から十年ほど前、彼女の父親が語ったことばである。その異常な才能というのはどんなあらわれ方をしたのだろうか。やはり父親の言葉だが、四歳ごろから、ラジオのヴァイオリン音楽に興味をもち、メロディをすぐ覚えてしまう。そしてやや長じてからは指づかいの批判をした。

 両親は天才....はともかくとして娘の才能を認め、これをなんとか伸ばしてみようとしたことはたしかだ。それは父親自身が、ヴァイオリンを志し、家庭の反対にあって断念したからだともいわれているが、父親のその方針は彼女の記憶のなかに生きている。数え年六歳で小野アンナ(1879-1979)のもとへ入門させられた時、父親からの「諏訪根自子みたいになるんだよ」という一句を今日でも印象深く覚えている。それは諏訪が小野門下の先輩として、すでに"天才少女"という形容詞で紹介され、今日でいえばマスコミの世界で華やかに活動していたからだろう。エルマンやジンバリストの演奏会にも連れてゆかれた。

 このような両親の教育を彼女自身は相反する心理で受けとめていた。一つは「諏訪根自子みたいになるのは大変だぞ」「なるためには、今でさえいやでたまらない練習をこれ以上やらなければならない」という嫌悪感であり、もう一つは「諏訪根自子みたいになってみたいな」といういわば少女的なあこがれである。このあこがれは一般的な少女のスター崇拝熱の一種にはちがいない。だが彼女の場合にはもう一つ別な感情がからみつく。それは混血児の悲しみと、それに対する猛烈な反発心である。今にみろ、という感情だ。

 後年、バスのなかで女性が彼女に挨拶をした。「ざまあみろ」と思ったそうである。その女性は小学校で彼女をもっとも苦しめた同級生だったからだという。ともかく小学校は三年で中退した。病気もあってか、ちょっと想像に難いような激しい圧迫(同級生からの)に耐えられなくなったためでもある。学校へ行かれなくなった時、ヴァイオリンを選ぶ決心をした。「ヴァイオリンは好きではない。しかし学校へ行くよりはよい」という消極的な意味であったらしい。

 昭和十二年、第六回毎日音楽コンクールに第一位入賞。決心はここから積極的になる。当然うれしい。それと、友だちをみかえすことができたという高揚した感情が方向を決めさせたのだといえる。"絶対負けられない"というその反発心は今日まで支えになっている。

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。。。どこまでが真実なのかは不明ですが、とにかく巌本さんはすごく負けず嫌いだったんですね!自分はどっちかというと負けず好きなので嫌いになるべく、さっそく巌本真理弦楽四重奏団のCD「日本の弦楽四重奏曲」を購入しました。興味深い曲ばかり。



一回通して聴いてみただけで、かなり根性入っている演奏であることがわかりました。さらに繰り返しきいていきたいです!

 

↑ 藝術新潮1959年2月号より