チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ヒンデミット来日公演(1956)の主催者に対する別宮貞雄氏の厳しい意見

2014-08-30 16:16:27 | 来日した作曲家
1956年にヒンデミットがウィーン・フィルと来日したとき、主催者である朝日新聞社の記者が「音楽之友」誌昭和31年7月号にうれしそうにこんなことを書いています。

☆国旗掲揚に反対

「4月9日の日比谷公会堂における初日の演奏会で、ステージ正面に日本オーストリー両国の国旗を掲げ、両国の国歌吹奏のあとで演奏を始めたい、という意向がオーストリー公使館からもたらされた。朝日新聞社としては国旗には反対だったが、国歌だけは妥協してもよいと考えていた。ところが、ヒンデミット氏はその両方に反対した。

「無料公開の親善演奏会なら構わない。日本の音楽ファンは演奏のプログラムに対して入場料を払っている純粋音楽の鑑賞者だ。この人々に無断で国旗を展覧したり国歌を押しつける行為は不当である」

と主張するのだった。ヒンデミット氏は朝日新聞社の意見を求めた。新聞社はもちろん同感だったが、結局予定どおり妥協の線で国歌だけ、それも本社主催のものは東京の第一回演奏会に限るということで話をつけたのだった。ヒンデミット氏はその際も「妥協」することはない、と強く言い張った。」

。。。ということは、ヒンデミットは結局は国歌を演奏しなかったんですよね!?



。。。君が代、思いっきり演奏しとるやん。(「芸術新潮」昭和31年6月号)
朝日記者のこの記事はどこまで信じられるんでしょうか。音楽雑誌も特に古いものは鵜呑みにできませんね。

その芸術新潮では作曲家の別宮貞雄(1922-2012)氏が主催者に対する厳しい意見を述べています。

「......我々が接したのは、作曲家ヒンデミットではなく、世界的作曲家ヒンデミットという肩書を持った凡庸な指揮者でしかなかった。主催者は彼の名前を百パーセントに利用した。彼の音楽観をセンセーショナルに報道したりした。しかしそれについて日本の作曲家が彼とゆっくり話し合う機会はついになかった。最後の申し訳のように、芸術大学で講演会がひらかれたが、それは全く一方的なもので、彼の著書に接する以上の何ものでもなかった。このような失望は、日本の演奏家達にもあったということを私はきいた。ウィン・フィルハーモニーの奏者達に接して何かを学ぼうという期待が、彼等の中にもあったらしいのだが、主催者はそういうことに極めて冷淡であったということだ。

 実際、これらのことが全く不可能だと云える程、今度の彼等の演奏旅行は慌ただしいものだったらしい。

 しかし、来日音楽家が日本の音楽家との接触などということを考えないとしても、むしろ当然なので、彼等にそれを望むのは間違っている。彼等にとっては-悲しいことだが-日本は世界の果ての一小国なのである。してみれば、それは当然日本のジャーナリズムの文化に寄与しようとする善意を信じていたので、今回のヒンデミットとウィン・フィルとの招聘を、まったく興行としてしか扱わなかった主催者には失望した。

(中略)我々にとっては、折角のウィン・フィルをよい指揮で聴けなかったことは、全く惜しんでも余りあることだったが、彼等にとっての日本演奏旅行がレクリエーション的なものであるという事実は、日本の国際的地位によるもので、そういう態度の甘さでヒンデミットを責めるのは酷であるように思う。作曲家の生活というものは、どれ程の大家になっても恵まれることの少ないもので、時には下手な指揮を臆面もなく行って生活の足しにすることも許されるべきことだと私は思うのである。」


。。。別宮氏、なかなか厳しい意見ですが正論だと思いました。でも半世紀後の現在では日本は音楽の世界でも一小国なんかじゃないですよね!?そう信じたい。
↓人数、少なっ

アーロン・コープランド来日公演(1966年、指揮者としては3度目の来日)

2014-08-29 23:02:51 | 来日した作曲家

アーロン・コープランド(Aaron Copland, 1900-1990)の「アパラチアの春」や交響曲第3番を聴くと、その基本的に繊細で静謐な音楽に、ふと向こうの世界に気持ちよく連れて行かれてしまい、つくづく、人間は顔じゃないんだなーなんて思います。

 

コープランドは4年前(1962年)にボストン交響楽団と共に来日公演し、日フィルにも客演しました。この、1966年の来日公演のときは読売日響に客演したそうです(※1↓日程)。ちなみに1961年の来日のときは指揮はしなかった模様(ここのめっちゃ詳しいサイトによるとコープランドは1960年に来日しボストン響を指揮しているようです。よって1966年は4度目の来日か?)。←ボストン響は1962年には来日していないのでコープランドも来日していないのかもしれません。すみません。調査中。

↑ ヨッフムじゃないよ

 

コープランドはそれまであまり指揮をしたがらなかったそうですが、作曲家の余興にしてはあまりにも堂々たる指揮ぶり!

 

それについて「音楽の友」1966年10月号のヒューウェル・タークイによる記事「世界の名指揮者たち」において以下のような記述がありました。


。。。私は、最近コープランドが指揮に力を入れていると考えたので、なぜそんなに年をとってから指揮を始めたのかと彼にきいてみた。コープランドからは次のような答えが返ってきた。

『私にはその勇気がなかったんです。それはクーセヴィツキーのせいでした。彼は私に大編成の管弦楽曲を書くように委嘱したのでした。それで生まれたのが私の「交響的頌歌」(※2)だったのですが......。クーセヴィツキーは私に向かってこう言いました。「この個所は演奏不可能だ!とても指揮のできる代物じゃないね。」』

私が彼の意見に反論すると「それじゃあ......君が振ってみたらいい。さあ、私は君にボストン交響楽団を一時間貸してあげるよ。君は君の曲をリハーサルしてみるんだな。」

私がどんなにエキサイトしたかおわかりになるでしょう。それで、私は指揮台に立ったのですが、当然とはいえ、それは大失敗でした。私は自分を物笑いのタネにしたのです。このときの経験がとても恐かったので、もう二度と指揮をやってみる気になれなかったのです。』

何が彼の気を変えさせたのであろう?

『コロンビア・レコードから私の「クラリネット協奏曲」を録音するから振ってくれないかと話がありました。それがうまくいったので、私は勇気を取り戻したのです。「交響的頌歌」は初心者には難しすぎた。今だったら私も喜んでやりますがね......そればかりでなく、クーセヴィツキーは正しかった。それゆえ、私は1950年代の半ばにこの曲を改訂し、演奏不可能な金管のパートに手を加えて、多少ピッチを変えました。』

 

※1 1966年のコープランド指揮読売日響のコンサート


【9月16日(金)厚生年金会館6時30分~読売日響特別公演】

指揮 アーロン・コープランド
ピアノ 遠藤郁子

コープランド 「アパラチアの春」、「エル・サロン・メヒコ」
グリーク ピアノ協奏曲

入場料 600円、800円、1,000円


【9月28日 (水)東京文化会館 7時~読売日響第31回定期公演】

指揮 アーロン・コープランド
クラリネット 藤家虹二

バーンスタイン キャンディード序曲
シューベルト 交響曲第5番変ロ長調
コープランド 組曲「ロデオ」、クラリネット協奏曲、組曲「ビリー・ザ・キッド」


※2 交響的頌歌(Symphonic Ode)は元来1932年にボストン交響楽団の創立50周年祭のために書かれたが、1956年に同じ楽団の創立75周年祭のために改訂された。

 


↑ コープランド、優しそう。やはり人間、顔ですね!


神田・神保町古本屋街のストラヴィンスキー(1959)

2014-08-26 20:29:35 | 来日した作曲家

また「音楽芸術」昭和34年7月号からドナルド・リチーによる記事です。

1959年に来日したストラヴィンスキーは、リチーと共に歌舞伎(勧進帳)を見物したり、東京のフランク・コーン夫妻(有名な人なんでしょうか?)の賓客として下落合のコーン邸を訪れたり、さまざまなレストランに招かれたりしたそうです。

その日は、リチーはストラヴィンスキー夫妻を神田・神保町の古本屋街と湯島聖堂に案内しました。

(↑ 苦学生が多く、「ビンボウ町」と言われた頃の神保町の古本屋街。「東京下町の昭和史」毎日新聞社より)


「ストラヴィンスキー夫妻は、書物と版画を探すために買い物に行きたがった。それでぼくは二人を神田に案内した。

神田で、ストラヴィンスキーは、たまたま自著「音楽の詩学」(Poétique musicale)の日本語訳を見つけた。『あっ―あっ』と彼は、本に近づこうとして跳び上がりながら、逆上したような面持ちで、ぼくのほうに向きながら叫んだ。『これ、これ、この本。どこで出したのだっけ。そうそう、ダヴィッド=シャ。あーは、ダヴィッド社。これは有名だ。これについてわしはみんな知っている。これは1セントも貰ってない。1セントも。何にも払ってもらわなかった』。

ぼくが、ストラヴィンスキーの有名な癇癪をみたのは、これが最初で最後だった。【ストラヴィンスキーは日本では格別に愛想がよかったようです。】 彼は激昂して、本を握り続けた。『手のうちようがなかった、全くなんとも』。ぼくは、ダヴィッド社が破産したので、それが多分払わなかった理由なのだろうと彼に言うと『でも、約束したのに。それでいて全然払わないんだ。ああ、わしの弁護士はこの事件についてみんな知っている』。けれども、しばらくして、彼はダヴィッド社のことを忘れてしまって、古本あさりを愉しんだ。彼は昔のヨーロッパの旅行記を五冊求めたり、五巻物のロシア語の百科事典を見つけて喜び、すぐそれを買った。

そのあと、ストラヴィンスキーはうれしそうに、山と積まれた明治時代の版画をめくっていた。『おお、ごらん』と、彼は明治時代の街の景をめくりながら、夫人に声をかけるのだった。『おかしくない?―ひどいキッチュ(がらくた)だが、面白いね』。それから、もっと見てから『値段はどこに付いているの?』すぐ彼は値段を見つけ、もう一つのストラヴィンスキーの性癖、ケチを発揮した。値段はみな裏についていたので、ストラヴィンスキーは積み重なった絵や版画を、全部ひっくり返して、値段を読んだのだ。彼が気に入ったものを見つけると、ということは、値段の安いものを見つけたことなのだが、その版画をひっくり返して見るのだった。こうやって、彼は二枚買い求めた。どちらも、日露戦争の場面を描いたものだった。ストラヴィンスキー夫人は、明治時代の、子供のための版画を何枚か求めた。

次に夫妻は、「春画」を見たがったので、ぼくが取り次いだ。夫妻は黙って見ていたが、マダム・ストラヴィンスキーが言った。『おお、でも、もちろん、日本人は本当は、こんなに大きいんじゃないでしょうね?』ぼくは、多分そんなことはないと思うと答えた。ストラヴィンスキーは言った。『とても面白いが、何だか、ちっともセクシーではないね、医学の図のようだね』。ぼくたちはその残りを見ていると、ストラヴィンスキーが言った。『どれもこれも一枚一万八千円もするようだね。値段が違ってもよさそうなもんだが。』


。。。ストラヴィンスキーのケチ伝説は本物だった!

N響との練習風景。真ん中は「花火」の楽譜。「芸術新潮」1991年9月号より


来日中のストラヴィンスキーが絶賛した日本人の作品

2014-08-25 21:46:41 | 来日した作曲家

「音楽芸術」昭和34年7月号に、日本文化の海外紹介に貢献したドナルド・リチー(Donald Richie, 1924-2013)による、「東京のストラヴィンスキー」という特別寄稿(三浦淳史訳)が掲載されています。



この記事によるとストラヴィンスキーと弟子のロバート・クラフトは1959年の来日中に「アサヒ・イヴニング・ニューズ」紙の音楽批評家ヒューウェル・タークイ(Heuwell Tircuit, 1931-2010)と「デイリー・ヨミウリ」紙の音楽批評家ハロルド・クルサーズ(詳細わからず)に招かれ、日本の作曲家による作品の録音をたくさん聴いたそうです。タークイもクルサーズも仕事上からも、かなりの日本通だったようです。

「ストラヴィンスキーとクラフトを驚かしたのは、日本で、黛敏郎の「涅槃交響曲」や諸井【誠でしょうね】のような大規模な管弦楽曲が多少とも演奏されていることだった。(中略)若い作曲家を、尊敬の念をもって遇することにかけては日本は、欧米の大部分の国よりも、はるかに先んじているというのであった。

ストラヴィンスキーらが一番好きになった小品の中には、福島和夫(b.1930)のフルートとピアノのための小曲があった。ストラヴィンスキーは、特に再生されたテープの演奏家である、日本フィルの林さん【林リリ子さんのことか?NMLで1959年録音の”アルト・フルートとピアノのための『エカーグラ』”が聴けます。ピアノは弟(いとこ?調査中)で作曲家の林光。←ストラヴィンスキーが聴いたのはまさにこの録音では?】のフルート演奏を褒めた。そしてこう言い続けた。『だがこれはいい曲だ。実にいい曲だ』

他に感銘を与えた曲は、武満の『弦楽のためのレクイエム』であった。ストラヴィンスキーは、以前の武満との会談を覚えていて、こう言った。『この音楽は実にきびしい(intense)、全くきびしい。このような、きびしい音楽が、あんな、ひどく小柄な男から、生まれるとは。』その点について、タークイ氏は、自ら非常に小柄なストラヴィンスキーに向かって言った。『でも、結局、ストラヴィンスキーさん、あなたも”サークル”【ハルサイの生け贄の踊りのことか】を書かれましたものね。』すると、ストラヴィンスキーは笑った。」


。。。ストラヴィンスキーが武満徹作品を高く評価したことは有名ですが、福島和夫氏のフルートのための小品のこともめっちゃ褒めていたことは知りませんでした。福島作品、もっとよく聴いてみます~


第九のソプラノ、アルト、テノール記号

2014-08-24 20:15:13 | 第九らぶ
今年も年末に第九を歌う決意をして、練習に行ってきました。

男声パートに一人、質問好きなオジサンがいて、休み時間に「昔の楽譜ではソプラノはソプラノ記号、アルトはアルト記号、テノールはテノール記号が使われているのに、現在の楽譜では何故ト音記号が使用されているのか?」という問いかけを芸大生の合唱指導の先生にしたんです。

そういえば、前回の練習のときもそのオジ様は「音符が五線譜から上にも下にも飛び出るのが嫌い」っておっしゃっていました。

その質問に対する先生の答えは「読みにくいから!いまでは読める人はほとんどいない」。

芸大生でも読めないんだ。ちょっと安心。

1863年の楽譜をIMSLPで見ると、確かに質問オジサンの言うとおり!作曲者が記したままなんでしょうけど当時の人は普通に読めていたんでしょうね。すごい。このほかにもメゾ・ソプラノ記号、バリトン記号等もあるようです。素人が真剣に読もうとしたら気ィ狂う。