チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

黛敏郎・涅槃交響曲(1958)

2014-09-18 22:00:53 | 何様クラシック

黛敏郎(1929-1997)の「涅槃交響曲」(1958)が有名だということで初めてCDで聴いてみたとき、なにこれコワい、本物の坊さんがお経読んでるし(実際には違ったようです)的なキモくゲテモノの印象を持ってしまい、それ以来ずっと聴いていませんでした。

ところが最近、偶然YouTubeで岩城宏之指揮、東京交響楽団+東京混声合唱団による「黛敏郎追悼コンサート」の動画を見てからは、この音楽にホレてしまいCDも何度も繰り返し聴くようになる始末。っていうかこの音楽を一回聴いただけで好きになれるワケがないです。

↑ 1998年7月2日(木)サントリーホールの追悼コンサート。拍手を止めない聴衆に向かって岩城宏之(1932-2006)がMAYUZUMIの名前を指し示す感動的なシーン(YouTubeより)。


特に第5楽章からの盛り上がり、金管が「ブワーッ、ブワーッ」って地鳴りのように鳴り響いてめっちゃカッコええし、最終楽章もオーケストラと合唱が一体となってまさにこの世のものとは思えない迫力です。思わず合唱団と一緒に「おおーお、おおお~」ってコブシ回して口ずさんじゃう。

自分の中では交響曲ベスト30、いや20には入りますね。

この曲は1958年4月2日(水)、新宿コマ劇場での第3回「三人の会」演奏会において岩城宏之指揮NHK交響楽団と東京コラリアーズにより初演されました。

↑ 1953年に結成された團伊玖磨(右)、芥川也寸志(左)との「三人の会」

↑ 山城隆一氏(1920-1997)のデザインのポスター(藝術新潮昭和30年8月号)



「音楽芸術」1997年6月号、音楽評論家・富樫康氏(1920-2003)の感想。「初演が終わったときの聴衆の衝撃は大きく、感激のあまり、ほとんど口もきかず、蕭々と会場を立ち去った光景は生涯忘れることはできない。

YouTubeのあまり良くない画質&音質でも圧倒されるのだから、当然かもしれません。



同氏によると前半は日本の梵鐘を録音テープから分析して1957年に作った電子音楽『カンパノロジー』の経験を活用しており、さらに十二音やセリエル技法、加えてメシアンの管弦楽法、それに天台声明を男声合唱に用いているということです。

↑ 兵庫県議ではありません(音楽之友昭和29年2月号)



では、梵鐘を分析するほどだから黛敏郎はドップリ仏教信者だったのか?
そのへんのことを丹羽正明氏が以下のように説明しています。(音楽芸術昭和33年9月号)

「この曲には仏教思想が直接反映されているわけのものではなく、むしろ梵鐘の音やお経の声の音色としての魅力が探求が主眼点だった。

ところが、彼が仏教に興味を持ったのは昨年ぐらいからだった。信仰をいだいたのではなく、芸術上の問題としてその思想に興味を持ったのである。すなわち、西洋の合理主義に対する東洋の非合理の世界に目を向け、ヨーロッパの、芸術としての音楽のあり方に対する疑問を持った。つまり本来芸術が持っている筈の機能があまりにも合理的に抽象化されすぎて、芸術の成立する条件である人間の性や営みからはずれて来たのではないか。

(中略)たとえば鐘の音を聞いても、あの複雑な響きがもっている音響上のエネルギーの中には純粋な音楽上のものではなくて、何か霊の声を感じとることができ、そこから自分を理解していく手掛かりを得られるようにも思った。また、お経を聞くとそこに読まれてある内容とは別に、ただ音の響きという純粋に音楽的なものの中にベートーヴェンのミサ・ソレムニス以上の感銘を受ける。それは何かというと、ミサ・ソレムニスの場合はそれを一つの作品としてみているのに対して、お経は身近なものという以上のものとして感じ取っている。このことから、自分の中にも宗教的なものを受け止め得る要素が残されていたことを知った。これによって疑問を解明する手掛かりを得ようと考えたのである。」


↑ 涅槃交響曲を書いた部屋。丹羽氏によるとピアノの譜面台には和綴じの経典が二冊立ててあり、サンスクリット文法教科書もあったという。



なるほど、純粋な音色としての梵鐘やお経を追求していたんですね。自分も年初に川崎大師でお経サウンドを楽しんできました。(自分んちの法事のお経ももっとカッコよければいいのに。。)

それにしても日本人作曲家が必ずぶつかると思われる西洋と東洋との矛盾をこういう形で解決してしまうとは。。。恐るべし、黛敏郎!

涅槃交響曲、一度でいいからナマで聴いてみたいです。しかし岩城宏之亡きいま、いったい誰がこの曲を指揮できるんでしょうか?

↑ 1958年8月20~23日、軽井沢・星野温泉第2回現代音楽祭での「阿吽」初演(芸術新潮1958年10月号より)

 

(追記 数年前に広上淳一指揮東京フィルで演奏されたそうです)

↑お子さんは今やお父さんより有名かもしれない黛りんたろう氏。

 

周囲の反対を押し切って作曲家になってよかったですね!『音楽之友』1954年1月号


トルストイの日本音楽への感想(1896)

2014-09-04 22:13:34 | 何様クラシック

ロシアの文豪、トルストイ(1828-1910)は大の音楽好きで、若い頃はピアノのために「ワルツヘ長調」を作曲したほどでした(幸せそうで素敵な曲。Tolstoy waltz in F major でググれば聴けます)。そしてベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタからエロさを嗅ぎ付けたトルストイは小説「クロイツェル・ソナタ」を著しました。(その小説にインスパイアされたヤナーチェクがこれまたエロい同名の弦楽四重奏曲を書いたりしています。)

そのトルストイに、歴史家・徳富蘇峰(とくとみそほう、1863-1957)がモスクワで明治29年(1896年)に面会し、日本の詩吟を披露したそうなんです。


そのときの様子を蘇峰は『環球偶筆』に次のように書いています。

「晩餐後は食堂の片隅に相集り種々談話に遊戯に興じたる末、深井君【深井英五、銀行家、1871-1945】は所望に応じて『君が代』を歌い、余は頼襄(頼山陽)が『蒙古来』を吟じぬ。....然るにその吟じ様の如何に可笑しかりけむ、一同くすくすと笑い、その嫁女の如きは遂にたまらず吹き出しぬ。翁(トルストイ)は片手に自個の禁へ兼ねたる唇を圧しつつ、片手を揮うて曰く、笑うなかれ、笑うなかれ、笑うものは別室に去るべしと。嫁女は立ちて行きぬ。....余曰く、余の詩吟にて、かくまで御身達の興を博するは、この上なき満足ぞかし、請ふ更に吟ぜんとて、又しても頼襄の『鞭声粛々』を吟じぬ。実に馬鹿馬鹿しき話なれども、笑われて止むべきにあらざれば、負けぬ気になりてやりつけたるぞかし。翁はさすがに、余の声が音楽にかなうとて賞賛せられぬ。これだけはトルストイ翁のお世辞にして、如何に余が自惚なればとてこれだけの自惚はなきぞかし。」


→トルストイの奥さんたちには笑われちゃたけど、蘇峰は日本人代表として頑張りましたね!さすがトルストイは芸術が分かってるので「笑うな!」って言ってくれたし賞賛までしてくれた。。。のか?


トルストイ自身の日記を見ると。。

「日本人たちが歌い出すと、我々は笑いを抑えることが出来なかった。もし我々が日本人のところへ行って歌い出したら、彼等も笑い出したことであろう。ベートーヴェンでも演奏したらなおさらであろう。インドやギリシャの寺院神殿は万人に理解される。ギリシャ彫刻もこれまたあらゆる人に理解されている。我らの絵画も優れたものは理解しやすい。こういったわけで、建築、彫刻、絵画はそれぞれ完璧の域に達した時、あらゆる人の心情に訴え、世界性を獲得するのである。言葉の芸術もそのいくつかの発顕においては、同様の達成を示している。......芸術劇にあっては、ソフォクレスやアリストファネスはそこまでいかなかった。新しい作家達によってこれが達成された。ところが、音楽となると完全に遅れている。すべての芸術にとって、その精進努力の対象たるべき理想は、万人理解の普遍性である。しかるに現在の芸術、ことに音楽は、巧緻洗練のみを狙いたがっている。」


→なんだ、トルストイも詩吟を「普遍性なし」とバカにしていたんですね~。それに昔の日本人でもベートーヴェン聴いて笑いやしなかったと思いますけど。。それにしても詩吟を笑われてもメゲなかった蘇峰さんエラい!日本人はすばらしい自国の音楽を誇りにすべき(詩吟って聴いたことないけど)。そして西洋クラシックが何が何でも最高!っていう自分自身の気持ちにもちょっと疑問を持ってしまいました。

 

参考:「レコード芸術」2005年9月号、「ホープ」昭和21年6月号


ブルックナーの交響曲の版に関するブラウンスタインの証言:ハース、ノヴァーク、シャルク、レーヴェ

2014-08-01 00:12:10 | 何様クラシック

なんとなく、ブルックナーの版・稿の問題に関してはボクのような洗脳され放題アタマにとっては何しろハース版、ノヴァーク版が最高で、シャルク版とかレーヴェ版とかは弟子が改悪しちゃったパチモン・バージョンだという強いイメージがあります。

しかし、『音楽芸術』1998年3月号の記事「ジョゼフ・ブラウンスタイン:ブルックナーを良く知る人の過去からの証言」(訳・構成:望月広愛氏)を読んでちょっと考えを改めました。

ハースってそんなに偉かったのか?レーヴェ、シャルクって本当にブルックナーに無断で作品を改竄してしまった「悪人」だったのか?

この記事はウィーン生まれのジョセフ・ブラウンスタイン(Joseph Braunstein, 1892~1996)という、実際にハースと議論したり、シャルクやレーヴェの下で演奏したこともある音楽家への、亡くなる直前(103歳!)のインタビューです。生き証人!

長い記事なので要約してしまうと

・ブラウンスタインはブルックナーの死後に出版された第9番の稿(1903年)に関してレーヴェがまがいものを出版してしまったという誤解を解くため、校訂者がブルックナー本人であることを明確に確認できるということを、スコアへ記されたレーヴェ自身による序文から推測し、手際よい分析を行っている。

・ハース(Robert Haas, 1886-1960)はドレスデンからウィーンに来たときはすでに、音楽家としての将来に見切りをつけていた。そして学者として生きていくことを選択した。彼は指揮者ではなく、合唱のトレーニング・コーチだった。そして後に教授の職を得た。それができたのは彼がナチズムの信奉者だったから。

・ハースにとってシャルク(Franz Schalk, 1863-1931)は敵であった。ハースはブラウンスタインに、シャルクがブルックナーの原典を校訂するきっかけとなったのだと漏らした。シャルクも原典に近づこうとしていた(ライバルだった)のである。彼は国立歌劇場の指揮者だったのだから当然の行動である。

・シャルクが第5交響曲を指揮したとき、新聞は彼がスコアを適当に変えてしまったのだというふうにそれとなく書いたが、この時、「シャルクはこの交響曲をブルックナーによって記された楽譜どおりに指揮したのだ」という声明がシャルクのにより発表された。

・ハースは、シャルクらブルックナー信奉者たちによる原典スコアの改竄について話をするために、興味を持つ人々を国立図書館に招集した。彼は「ブルックナーは回りの人間たちから制裁を受けたのだ」と話した。ハースは策士であり、学者としての倫理と不当な行動とをごっちゃにしていた。ブラウンスタインはハースのシャルクに対する発言を信用していない。

・ナチ政権が崩壊すると、ハースは必然的に地位を失い、彼の継承者がレオポルド・ノヴァーク(Leopold Nowak, 1904-1991)となった。ブラウンスタインはノヴァークが立派な人物だと信じている。

・ブラウンスタインはレーヴェ(Ferdinand Löwe, 1865-1925)のもとで何十回もブルックナーの交響曲を演奏した。レーヴェはウィーン楽友協会の音楽監督だった。第9交響曲の初版はレーヴェに託されたが、ブラウンスタインは彼がスコアを改竄したとは思っておらず、原典として書かれた通りにしようと試みたということを信じている。

・レーヴェやシャルク版と呼ばれる版は実はブルックナーが校訂し、出版のために準備された彼自身の版だという意見にブラウンスタインは同意している。


。。。ブラウンスタインという名前からしてユダヤ人でしょうからナチズムの信奉者ハースを嫌うってことだろうけど、この記事を読んで自分の中ではシャルクとレーヴェへの評価がちょっと上がりました。クナッパーツブッシュの5番なんて、シャルク版ってだけでゲテモノ扱いしてましたけど。

結局ブルックナーに関してはいろんな版があるからこそ何倍か余計に楽しめるんですよね。

 

参考↓ シャルクがウィーン・フィルを指揮したベートーヴェンのレコードがあるんですね。ビクターレコード総目録昭和7年(1932年)より。

 

Franz Schalk (1863-1931)

 

Ferdinand Löwe (1865-1925)


ベートーヴェン後期四重奏曲をきいて

2014-07-16 22:41:32 | 何様クラシック

明日飛び立つ特攻隊員は決してベートーヴェンでなく、モーツァルトを聴いていたという話を聞いたことがあります。

でも自分が明日死ぬんだったらベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲(12-16番)のうちのどれかを聴くかも。

ベートーヴェン後期の弦楽四重奏曲って、大編成オーケストラのロマン派音楽やゲンダイオンガクとかどんな音楽を巡りめぐっても必ず安心して帰ってこれる故郷みたいに感じます。

自分にとってはこれ以上心優しくて、包容力のある音楽って無いような気がします。ある意味寅さん。

ちょっと前まで一部の人たちがこれらの四重奏曲を決して足を踏み入れてはならない「禁断の森」的に神格化していたようですが、それって単にドイツ音楽崇拝者とかの洗脳の賜物では?逆にベートーヴェンの、上から目線が消えた最も人間的で親しみやすい音楽だと思うんですが。

そもそもベートーヴェンはこれらの曲で、誰に対して語りかけているんでしょうか。その当時の聴衆や社会?自分自身?あるいは宇宙とか神さまとかの誇大妄想系。。??

自分としてはベートーヴェンはここでは未来の人間(現代人)一人一人としゃべろうとしているように思えてしかたないです。例えば神にしか語りかけてなかったら聴いてる人間は置いてけぼりな気分になるはずですよね。

しかもその話の内容は「病気が治ってマジうれし~んです」、「道端の花がきれいだったよー」、「今度の家政婦もちょームカつく」、「何百年後ってどんな世界なん?おせーて」とかだったりして?

。。。ゲヴァントハウス四重奏団のCDは大フーガですら可憐に聞こえます。




↑15番第1楽章11小節の、あえてチェロの高音域でやらせるからこそ心にぶっささるカッコつけなしの悲痛な叫び。ハルサイ冒頭ファゴットの先駆?


銀座・山野楽器初代社長への野村光一氏の感謝

2014-07-02 22:14:16 | 何様クラシック

ときどき立ち寄る銀座の山野楽器ですが、今年(2014年)は創業122年になるんですね。歴史長いー

音楽の友1977年7月号「山野楽器創業八十五周年」という記事は高名な音楽評論家、野村光一(1895-1988)氏の、山野楽器創設者への感謝の気持ちでいっぱいでした。

野村氏が山野楽器に通い出したのは大正の初め。楽譜やレコードを買うためだけでなく、山野楽器店の裏にあった、創設者の山野政太郎(まさたろう)宅三階の座敷(六畳間)に仲間とともに集まるためだったらしいです。

その「仲間」というのは、堀内敬三(1897-1983)、藤原義江(1898-1976)、オペラ主役4人による「ヴォーカル・フォア」の松平里子(1896-1931)、佐藤美子(1903-1982)、内田栄一(1901-1985)、徳山たまき【王へんに連】(1903-1942)らという、錚々たるメンバーだったそうです。

「山野政太郎さんは今世紀(20世紀)初頭にアメリカの西部に住んでいて、そこで邦人相手の新聞を発行していた人である。しかし、第一次世界大戦が始まるかな り前に、アメリカでの新聞事業に見切りをつけて帰国し、同地で貯えた財産を元にして東京銀座で楽器商を営むことにした。そして、その際行なった方法は、その頃すでに銀座の店を開いていた、主としてピアノ製造とその販売を目的にしていた松本という楽器店(※)を買収して、その事業のすべてをそのまま継承する ことにあったのである。」

 

  ※松本楽器店...ピアノ調律師、松本新吉(1865-1941)が1907年に設立。(Wikipediaによる)

政太郎氏は、「風貌も風采も貫禄あるインテリ・ジェントルマンだったから」、商売のことなどは店を預かる店員に任せっぱなしだったようですが、そのかわり、野村氏らのような芸術畑の人間との付き合いを大事にされたそうです。

そんな状況の中で当時二十歳そこそこだった野村氏は、山野楽器店が発行していた「月刊楽譜」という雑誌に執筆することになり、その経験が野村氏を音楽評論家にした下地になったといいます。

その頃日本のレコード界ではSPの外国吹込み洋楽盤が盛んに売り出されるようになっており、それに目をつけた中央公論社が野村氏にレコードについての本を書けと言ってきました。

「元来レコードにそれほど興味を持たず、また購入の資金さえ乏しかったから、わたしの手許にはほとんどレコードがなかった」という野村氏は、政太郎氏にお願いして、山野楽器店の売り物のレコードを片っ端から引きずり出し、それを店内の試聴室のプレーヤーに掛けて聴いていったそうです。
その結果出来上がった本が、「レコード音楽読本」。
(以上ヘタな要約ですみません)


。。。山野政太郎、太っ腹!
それと何より、この記事の中でご自分のことを「このようなことは悪行であり、虚名である」とも書かれている野村光一氏の、正直で、自己批判的なお人柄に心惹かれました。

音楽評論家ってのはこうでなくっちゃいけませんね!