チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

1950年代の来日演奏家ラッシュ~米ソ対決

2015-01-25 00:10:32 | 来日した演奏家

昭和30年代の音楽雑誌を読むと、この時代に海外の演奏家が次から次へとよくも来日したもんだと驚くわけですが、その背後には冷戦下のアメリカとソ連の対決もあったんですね。



以下、『週刊東京』1956年9月15日号の記事の要約です。


【初戦 米ソ引き分け】
米ソ音楽家日本送り込み対決のきっかけになったのは1955年のダヴィッド・オイストラフの初来日。S事業という対ソ貿易商社の口利きでソ連政府がOKを出したので実現したそうですが、大成功にソ連政府は大喜びだったようです。

オイストラフの大成功を見たアメリカ当局は、ANTA(The American National Theatre and Academy)という国家組織の協会を促してシンフォニー・オブ・ジ・エアーを送り込んできました。当時、日本の民間主催者には春秋2回各15,000ドルしか外貨の割当てがなかったのでこんな大きいオーケストラを呼ぶのは不可能だったそうです。この公演も大成功でまずは米ソ引き分け。



【第2戦 ソ連の勝利】
続けてアメリカはやはりANTAによりロサンゼルス・フィルハーモニックを投入しました。しかしシュトゥットガルト室内管弦楽団 とウィーン・フィルが来日した直後ということで最初は日本での引き受け手がなく、ロス側は来日時期を延期し、しかも一回の出演料を当時のN響と同じくらいの50万円に下げてきたそうです。それにもかかわらず、日本側ブローカーの暗躍で入場料が下がらず、客足はイマイチだったようです。(詳細調査中)

それに対してソ連は「中共の手ゴマを使って京劇をもってきた」。京劇はブームとなり、第2戦はアメリカの敗北。



【それ以降】
挽回を図るアメリカは、チェロのグレゴール・ピアティゴルスキウェストミンスター合唱団をまず、それぞれ1956年9月と11月に来日させました。

一方、ソ連はピアニストのレフ・オボーリンを9月末に「派遣」、しかもアメリカの先手を打つように次の年の春の分まで発表して、ストラヴィンスキー(米)、ショスタコーヴィチ結局来日しませんでした)、ムラヴィンスキーギレリス(1957年初来日)の訪日予定を伝えました。

アメリカも負けじとニューヨーク・シティ・バレエ、テノール歌手のリチャード・タッカー、ダンサーのキャサリン・ダナム(Katherine Dunham)、ストコフスキーボストン交響楽団などの訪日を援助する用意があると発表しました。しかもアメリカは、ANTAのような官僚機関に頼っていてはじれったいとばかりに、東京その他のUSIS(US Information Service,アメリカ情報局)への予算を増額して万端の手を打ったと伝えられました。




【日本の演奏家への影響】
アメリカ、ソ連をはじめとする来日演奏家ラッシュで演奏会場の確保がむずかしくなった国内の演奏家は、やむを得ず山葉ホールや第一生命ホールのような小さな会場へ行くわけですが、来日演奏家の日程と重なってしまったりすると会場はガラガラ。。。結果、普通は演奏会を開かない時期の公演が増えたそうです。



。。。当時の日本はいいようにやられていましたね!(いまでも?)



コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。