中さん

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日記(9.22)運動会  コラム「新政権」

2018-09-22 12:53:08 | 日常
9月22日  (土曜日)  曇り

雨も何とか上がった。関東北部は曇りである。

曇天の空。上から抑えられている感じだ。天高くはまだ先かな!
庭の柿の実がいっぱいついた。

今年は柿は何処も良いらしい。
みかんも実が育ってきて枝が垂れ下がって重そうだ。


第二陣で蒔いた白菜が何とか苗らしくなってきた。

雨続きで、今年はお彼岸過ぎの移植になりそうだ。

日日草は丈夫だ落ちた種で次から次と咲く。
★・梅雨の頃から秋まで咲き続ける。
・日々新しい花に咲き代わることから この名前になった。
 また、それぞれの花は 1日花ではなく3~5日はもつ。
・日照りや乾燥にも強い。


耕運機を掛けたところの第二畑がズブズブ状態だ。

ナスの木は枝切後にすっかり葉をつけ花も見える。
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小学校は運動会だ。
降り続けた秋雨の合間だ・・・・
グランドで子供たちがその成果の発表だ。





孫の100mを見て帰宅。
小学6年生 最後の走りだ!
2年生が60mを走る・・可愛い!可愛い!

県道「谷郷バイパス」が学校の裏手を走る。丁度ここから市道に変わって駅方面に!
道路標識は付いたが道の完成はまだ先のことになりそうだ。
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出かけたついでだ・・お彼岸なので花を買いに市場に出かける。


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陽も少々顔出したりで蒸し暑くなった。
胡麻の取り込みをしてみた。あきらめていたが、少しは獲れそうだ。

これから洗わねば・・・。
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コラム

NHKの大河ドラマ「西郷どん」は
次回、鳥羽伏見の戦いが始まり戊辰戦争へと突入する。
史実ではこの後、新政府軍が旧幕府軍を破り、
薩摩、長州両藩が中央政局をリードしていく。
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▼新政府は、天皇の下、諸藩による連合政権である「公議政体」を掲げたが、
 実態は薩長に土佐、肥前を加えた
4藩が政府首脳を独占した。


   ★中学校では”薩長肥土”と覚える様に教えられたなあ~!
    「さっちょうひど」
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「薩長政府」「藩閥政治」などと言われた。

▼今なら、仲間内で権力を牛耳る「お友達政府」とでも言おうか。
 何やら、聞いたことのあるフレーズである。

▼きのう、自民党総裁選で安倍晋三首相が3選を決めた。
 テレビを見て思い出したのは、安倍氏が出馬表明した際のこと。
 ドラマを意識してか、
 訪問先の鹿児島(薩摩)と自身の地元山口(長州)にちなみ
 「薩摩と長州で力を合わせ、新たな時代を切り開いていきたい」と語った。

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▼だが維新後、藩閥から外れた士族が薩長への不信感を徐々に高めていくことは、
 首相もご存じだろう。

 選挙中安倍氏陣営は支持する議員から誓約書を集めた
一方、
 首相を支える麻生太郎財務相は「冷や飯を食うぐらいの覚悟を 
 持って戦って当たり前」と、
 人事での自派閥への冷遇に異を唱える石破茂元幹事長を批判した。

 藩閥政治と安倍1強政治が重なって見える。


▼ドラマは今後、征韓論を巡り西郷や土佐の板垣退助ら、
 “仲間”が新政府と袂(たもと)を分かつ

  安倍政権はこれからどんな歴史を刻むか。
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メモ)

簡単な解説を捜した。

征韓論(せいかんろん)とは何なのか?
理解する事を目的とする為、細かい部分は割愛。

当時この時代は徳川幕府が無くなって、
明治新政府の元、新しい時代に突入していました。
明治政府の中心にいた人物は西郷隆盛や大隈重信、板垣退助らです。
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この時期その他にもメンバーがいたんですが、
岩倉具視を中心に大久保利通や木戸孝允、伊藤博文などはアメリカ、
ヨーロッパなどを訪問していました。
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新しい政府を作らにゃいかん、世界を見てくるぞ!
という事で政府の首脳のメンバーがたくさん海外に行ったのですが、
その留守を預かっていたのが、
西郷隆盛や大隈重信、板垣退助らだったのです。

その時政府の留守を守っていた西郷隆盛や板垣退助らが唱えたのが
征韓論だったのです。
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征韓論とは?と検索してみると、
武力を持って当時の朝鮮を開国させるという主張の事を征韓論という。
当時の朝鮮は鎖国していたのですね。
この時の朝鮮は400年以上続く王朝でした。
この時の朝鮮の事を李氏朝鮮とか朝鮮王朝と呼びます。
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何故朝鮮に開国を求める主張をする人が出て来たのでしょう。
当時朝鮮の位置付けは中国(当時の清)の子分の様な存在でした。
朝鮮は日本の徳川幕府と交流していました。

●日本は徳川幕府が倒れ、明治政府になり、
 天皇中心の新しい国家になりました。
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リニューアルした日本は、
「日本は新しくなりましたよ、
 徳川ではなく、
 天皇が中心となってやっていきますよ。
 よろしくね」
 という事で朝鮮に日本政府は国交を結ぶ提案をしますが、
 朝鮮は国書の受け取りを拒否しました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
日本から朝鮮に数回提案するも、朝鮮は拒否。
朝鮮は新しい日本に対して、いい感情を持っていなかったのです。

日本ごときが生意気な!
日本が持っていった書簡に朝鮮が気にくわない文言があったという事で、
清(中国)が使う言葉を周辺国である日本が使ってんじゃねぇよ!ザコが!
鎖国してるんだから、ほっといてくれよ!
開国を迫るって、欧米列強の真似してんじゃねぇよ!

と言って朝鮮は日本に対して不快感を示しました。
という事で朝鮮だけが日本を国と認めていなかったのです。

迫り来るロシア
当時ロシアは南下政策と言って、南の方にどんどん領土を広げていました。
カムチャッカ半島を占領し、
遂にウラジオストクまで来た。
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朝鮮まで入ってきたら、次は日本がやられるのは間違いがない。
当時は今と違って、弱い国は侵略されて植民地にされていたのです。

「朝鮮よ!すぐそこまで、ロシアが来てるじゃないか!やられるぞ!」
「鎖国してる場合じゃないぞ!」
 という事で、ここで征韓論を唱えるわけですね。

 そんな事言っても、朝鮮は状況を理解できず、日本に対しては、
「うるせぇ!」とつっぱねました。
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西郷と大久保の対立

西郷隆盛は武力で開国を朝鮮に求めるのではなく、
話し合いで開国を求める為に、「ワシが行く」と言い出します。
戦争じゃなく、あくまでも話しをしに行くという事で、
西郷は決断した。

西郷はこの時死ぬ覚悟をしていた。
交渉がこじれて殺されても、かまわんと。
海外視察から帰ってきた大久保や岩倉具視達の考えは違いました。

大久保達の考えは、
「今は内政を整える方が優先です、
 国内の事に集中しましょう」と
西郷の朝鮮行きを真っ向から反対する立場を取った。
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もし、西郷が殺されたら、戦争になる、日本に戦争している余裕はないと、
また、西郷が殺されるのを止めたかったのかもしれません?。
そして、最終的に西郷の意見は却下された。

西郷や板垣といった征韓派は辞表を書いて国に帰った。
参議の半数が辞め、官僚600人が辞職した。

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コメント
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