マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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下ツ道八条北遺跡発掘調査現地説明会

2012年01月22日 08時49分27秒 | 民俗を観る
名阪国道郡山ジャンクション建設に伴って、平成23年の5月から発掘をされてきた下ツ道八条北遺跡。

場所はと言えば奈良県大和郡山市の南端に位置する八条町にある。

北側に向かえば伊豆七条町。

両町の境目が名阪国道にあたる。

南に向かえば天理市の二階堂の街道に続く一直線の道、それが古代の大道である下ツ道だ。

藤原京と平城京を造るにあたって造営基準になった大道である。

発掘調査地は旧添上郡と添下郡との境目。

現在の大和郡山市と天理市の境目となる。

発掘調査地の北端は伊豆七条町と八条町の境界にあたるが天理市の南六条との境目でもある。

そこは東から流れてくる布留の川が存在する。

その傍らにサカキの枝を立てる行事がある。

10月1日に行われている南六条北方の三十八神社の祭礼である。

石上神宮の領域すべてに亘って目印を立てる地の一つにあたる。

神宮の領域、つまり布留郷の領域を明確にするための傍示杭立てであった。

当時取材したのは平成20年。



そのときから始まっていたジャンクション工事によって「サカキ立ての場所を替えなければ」と二人の頭屋が話していたことを思い出す。

平城京南端になる羅城門跡から南へ約14.6km。

藤原京の西側、橿原市五条野の見瀬丸山古墳まで続く基幹の大道である。

平城京の大極殿までの朱雀大路を加えれば全長23kmにもおよぶ南北を貫く大道で、平城京のずっと北は西海道、藤原京の先は和歌山方面の南海道と繋がる。

それだけの距離すべてを発掘することは不可能に近い。

何らかの建設が伴うことで所々の様相が出現するのだが、断片的で全容解明はこの先も不可能であろう。

過去、数か所に亘って下ツ道の発掘調査があったが、今回の発掘距離は183m。

これだけの長さの大道を一挙に発掘されたのは初めてのことだけに期待が寄せられる。

下ツ道を基準に条里制が敷かれた。

田んぼはそれに合わせて四角だった。

奈良盆地の土地の利用は計画的に造られていたのだ。

下ツ道の名は天武元年。

壬申の乱の記に始めて登場するそうだ。

大量の援軍を得て、飛鳥で軍隊を立て直した大海人皇子。

上ツ道、中ツ道、下ツ道の三か所に分けて北からやってきた近江軍を迎え撃ったというくだりである。

8世紀の奈良時代。

710年に元明天皇の詔により平城京に遷都され、桓武天皇によって平安京に都が遷った794年までの期間だ。

昨年にイベントされた平城京遷都1300年祭には多くの観光客が訪れた。

その人たちの多くは平城京跡に来られたのであったが、古代の大道を歩いた人はどれぐらいであったのだろうか。

都の発掘などでは古代史ファンが多く詰めかける。

道の発掘には興味を持つ人はそれほど多くない。

都跡には宮中や官吏の様相が掴めるが、道を歩いて人はどのようにしていたのだろうか。

都を支える人々の暮らしぶりがどうであったのかだ。

それを教えてくれるのが道だと思って現地説明会にやってきた。

下ツ道八条北遺跡の調査範囲の幅は東西の溝にある。

路面は残っていなかったが東西の側溝が確認できたと解説者は話す。

東の側溝幅は7mから11mもある。

深さは1.4から2mの深い溝。

南北の底は10cmほどの差。

緩やかに流れる溝だった。



溝が掘られたのは8世紀初頭というから平城遷都前であろう。

そこには東西に並ぶ杭列があった。

水位を調節する施設であったと想定されるようだ。

その溝からは大量の奈良時代の土器や瓦、和同開珎、ウマやウシの骨などが出土した。



ウマやウシの骨は広い範囲から出土されているのだが、それが祭祀に使われたものなのか、捨てられたものなのか判明していない。

ウマは軍馬とも考えられるし、ウシは運搬に使役されたのではないだろうか。

下ツ道を往来する大きな動物は人や物を運ぶ大切な役目だったのではないだろうか。

役目を終えたウマやウシを手厚く葬った。

なんてことはできない時代。



養老の令(757年施行)によればウシやウマは解体してバラバラに。

皮と脳(髄)、角に分解。胃(胆のう)からは牛の胆石を取ることを定めているそうだ。

皮はなめし皮にして再利用しなければならない時代だった。

骨は卜占のように祭祀に使われた。

そんなことを想像してみた。



出土された遺物は会場にミニ展示されていた。

斎串(いぐし)が出土したことから祭祀の存在を物語っている。



骨には右脛骨や中足骨のウマ骨。

ウシの左距骨、中足骨、指骨、踵骨、足根骨などが並べられている。

その横には解説がなかったが右大腿骨の犬の骨もある。

飼っていた愛犬だったのだろうか。



初鋳708年の和同開珎、初鋳907年の延喜通貨、八陵鏡、銅製の鈴の金属製品。



土器には軒瓦、土馬(どば)、「西」や「太」の文字が記された墨書土器や8世紀終わりから9世紀初めの土器にミニチュアの土器もある。

これも祭祀に使われていたのではないだろうか。

西側溝と考えられる細い溝が3条。

いずれも幅は1.2mから1.8m。

深さは20cmから50cmと東に比べて小規模。

常に水が流れていたとは思えにくい深さである。

この溝からも同時期の土器や瓦が出土されたが少量だったそうだ。

路面幅は約19mであったと推定されている下ツ道の両側溝の中心から中心までの距離は約23m。

朱雀大路や稗田遺跡で発掘された距離と同じである。

この道幅がずっと繋がっていたと思えばどれぐらいの工事期間を要したのだろうか。

工事人も相当な人数であったろう。

使役に駆りだされた人たちは奈良盆地の住む人だけでは済まないだろう。

真っすぐな道を造るには精巧な測量技術がいるだろう。

そんな記録は一切残っていない。

古代の道に思いをはせる、しかないのである。



解説がなかったが、興味をもったのは東側溝に付随するような形の丸い水面がある。

段々になっており顔でも洗えるような円形が数個ある。

炊事場か洗濯池のような感じに見えたのは私だけであろうか。

それにしても東側溝の溝は幅が広くて深い。

稗田遺跡で発掘された図面を見れば同じような幅、深さの側溝である。

その模式図では八条北遺跡よりももっと広くて深い。

南側で発掘された八条遺跡もその方角だが、幅、深さはほぼ同じだ。

朱雀大路ではそれほどもない幅と深さ。

そこで思ったのが東側溝は水路であったのではないかと・・・。

羅城門辺りまでを運搬する大道には人や動物が往来する。

水路には低底船を浮かべてそこにモノを乗せて運んでいく。

かつて水田を行き交う田船のような形。

それは櫂で漕ぐのではなくて大道から綱で曳いていく。

水位を調節する杭列は長距離に亘る水路、つまり運河としてその役目にあったのではないだろうか。



そんな光景を思い浮かべたのであったが解説者は杭列があることからそれを否定された。

平安遷都されたあとの大和奈良。

10世紀になれば下ツ道は利用されることなく水田に移り替っていく。

表面の田んぼは平安時代に作られたと解説される。

奈良の都が京都に遷って大道は役目を終えて田んぼになったのだ。

特に東側が顕著な田んぼだった八条北遺跡。

解説者は最後に言った。

西溝の2が本命の奈良時代で、西溝の1と3は平安時代に掘られた、東溝は見当たらないそうだ。

近世の井戸も発見された八条北遺跡。

大和郡山のボランティアガイドクラブの人たちや八条町の住民も訪れていた。

ガイドクラブは観光案内の知識として、町びとは町内を通る下ツ道を拝見することによって地域の誇りと愛着を抱いたのではないだろうか。

これほど大規模に亘って発掘された下ツ道官道。

できるならば公園化してはどうか。

下ツ道を訪れる人にとってここがそうだったのだと感慨深げに見る。

埋め戻さずにそこをアクリルのようなもので覆ってしまう。

そうなれば深さも道幅も実感をもっていただける。

奈良の古代を知る恰好の発掘地であるだけに・・・。

(H23.12.18 EOS40D撮影)