マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
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額田部の道

2012年01月27日 09時05分04秒 | 大和郡山市へ
額田部に住む婦人たちに聞いたフダバ(札場)。

この辻はお伊勢参りに至る案内が貼りだされたという。

この辻から北に数十メートルも歩けば大神宮の石燈籠がある。

ここから伊勢参りに旅だったのであろう。

フダバと呼ばれる辻の西側へ下る坂を「アカサカ」と呼ぶそうだ。

そこから大和中央道を跨いでいけば西町に到着する。



そこには良福寺が佇んでいた。

2月25日の文殊会では串挿しモチを畳形に御供するらしい。

西町に向かう途中に地蔵さんを祀る祠があった。



大きな石造りの地蔵さんは西谷垣内の地蔵と聞いたことを思い出す。

たしか7月24日の夕刻に地蔵盆をされていると・・・。

その付近を「アカモン」と呼んでいた婦人もいる。

「サカ」は「坂」で「モン」は「門」と思われるのだが、「アカ」とは何なんであろうか。

そういえばフダバの辻から南に「カマクラ坂」と呼ばれる道がある。

春日神社辺りから下っていく道だ。

地形から読み取れるようにここら辺りは高台になっている額田部の旧道。

「カマクラ」は「窯」で「クラ」は「蔵」と想定するのだが確信はもてない。

「カマクラ」坂から西方に窯跡がある。

窯倉墓とも呼ばれている先にあるのが額田部窯跡だ。

昭和4年に国重要文化財に指定された史蹟(昭和3年に発見)は鎌倉時代に瓦を焼いていたとされる。

叡尊、忍性によって再興された額安寺の所用瓦を焼いていたという。

もしかとすればだが「アカ」とはその地にあった赤土。

それをこねて瓦にしたのだろうか。

さらに南へ足を伸ばすと額安寺に着く。

その南側にある五社さん、かつて大和川の土手堤下にあった。

Yさんの話によればお家を100年前に建て替えをしたので五社さんはそれぐらい前に建立されたようだ。

その大和川が氾濫して水ツキした。

五社さんがあった付近はドタ(泥田)だった。

そこに住んでいた人はそういうこともあって「カマクラ坂」と呼ばれるほうの高台に移ったと話す。

大正7年10月に建之された刻銘がある五社明神はその時代とほぼ一致するのではないか。

と、思っていたがそうではなかった。

寛永十一年(1634年)に書かれた額安寺絵図には寺内に入っているのだ。

絵図に伽藍配置された額安寺境内。

東側には道一本挟んで推古神社がある。

北東角から登った道筋向こうには廟が。

額安寺五輪塔(鎌倉墓)である。

カマクラ坂道と呼ばれている左側だ。

今は見られないが南大門(現駐車場辺り)から南側にYさんが言ってたドタ(泥田)は「荒田畝余 田一反九畝と六畝」と表記されている。

現在は工場が並ぶところだ。

その間というか、境内東南角に五社明神が描かれている。

上から住吉、春日、天照太神、八幡、白山権現の並びである。

これらは現在位置とまったく同じである。


五社明神は平成H23年10月8日に撮影した。

今も昔もほぼ変わらない風情を残す額田部の道がここにある。

(H23.12.22 SB932SH撮影)