マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

下平田の行事

2012年01月21日 08時52分21秒 | 明日香村へ
下平田の総代の話によれば数々の講もあるという。

60日おきに集まっている庚申講。

本来は朝まで起きているのだが昨今はそういうわけにはいかなくて夜の集まりになっているという。

他に行者講、大師講もあり2カ月に一度の集まりだ。

その他にはこんぴら講もある。

秋祭りには氏神さん(上平田に鎮座する八坂神社)の秋祭りで大宮講と呼ばれる「座」がある。

10月8日に営まれているそうだ。

その氏神さんからオヒカリをもらって火を点けるとんどがある。

ハウスで栽培されているイチゴ農家の男性は「どんど」と称していた。

かつては2か所で行われていたとんど。

初集会の日を過ぎたころに子供らがシバを集めて櫓を組んでいたが、今は大人がしている。

明日香ではそこらじゅうにあるとんどはだいたい辻でされていた。

火を燃やすだけに現在は場所を確保するのが難しい。

下平田は集会所ができる前はその傍らの田んぼだった。

それも難しくなって檜隈を上流とする川の土手辺りとなった。

さてとんどの火といえば亥の子の行事で活躍した子供たちが火打ち石で火を起こされたオヒカリを松明に移してとんど場に持ってくるようだ。

また、この日の夜に会所に集まってきた水利組合の男性の話では欽明天皇陵辺りで「サンノンサン」があるという。

それは「さんのうさん」であるかもしれない。

陵付近といえば猿石がある。

その地であるのか詳しく聞くには時間がなかった。

(H23.12.15 EOS40D撮影)

下平田の亥の子

2012年01月20日 08時09分15秒 | 明日香村へ
さて、下平田の亥の子の行事である。

元々は農業を営む村の行事であっただけにかつては農家の家を無巡っていたという。

農家旧村はおよそ5、60軒。

子供も農家の男の子が行っていたが、現在は子供会の主催行事に移っている。

他所から移転してきた人たちが住みつき新旧が馴染んだ村になった。

旧村の子供がたくさんいた時代は随分と前。

いつしか少子化が訪れる。

新町の住民が増えて子供会に移った。

そのころも男の子だけで行われていた。

「うちの息子がしていたときは男の子だけやった。それほど子供が多かったということだ」と話す水利組合の男性。

その後に改正されて「女の子も加わるようになったのは20年前ぐらいだろうか」と話す。

男女ともに行われるようになったが対象者は小学5年生と6年生はかわりない。

兄ちゃんや姉ちゃんがしている亥の子のデンボ叩き。

それを終えて自宅に帰ってきたらがっぽり貰ったお金の額が家で話題になる。

そんな様子を知った子供はまだ到達年齢に達していない。

さらに成長した小学4年生になればわくわくするという。

この年に集まってきた対象の子供は5年生が3人で6年生は7人。

下の子の兄弟も一緒に母親と付いてきた。



かつては子供だけで地域を巡っていたが、昨今の事情から考えて母親が付き添いで巡っている。

一旦は集会所に集まった子供たちは出荷場に移動する。

ここで先日作ったデンボを一人ずつ受け取る。

デンボの見本は長老が作った。

作り方を教わりながら作ったデンボは自作である。

長さは異なるものの立派なデンボに仕上った。

総代からここを持って示す輪っか部分。

地面を叩くほうが太くて重たい部分。

ここをデンボと呼ぶと総代は話す。

「今日は12月15日で亥の子といいます。子供たちがそれぞれの家を回って、デンボを叩いて家の繁栄を祝うのです。この前覚えた亥の子の唄を元気よく大きな声で繁栄のために唄ってください」と挨拶された。

下平田地区の軒数は多い。

以前は一団で行っていたから終わる時間も夜八時を過ぎていた。

夕御飯も食べずにやってきた子供たち。

少しでも早く終わりたいと現在は二つの組に分かれて地区を巡っていく。

地区を分担する線引きは平田川。

北と南に分かれて出かけて行った。

チャイムを鳴らして家の人に「亥の子をしてもいいですか」と声をかける。

了解を得て始まったデンボ叩きは玄関先。

庭までは入らずに叩くデンボ。

「亥の子の晩に 餅の搗かん家は 箸の家建てて 馬の糞で 壁塗って ここの嫁さん何時もろた 3月3日の朝もろた 鰯三匹 酒五合 新米藁でいぉう(祝)てやろ もひとつおまけにいぉっ(祝)てやろ」と唄う。

1軒、1軒と巡るたびに型崩れするデンボ。

藁は地面に散っていく。

子供が作っただけに崩れやすいと話す母親。

祝儀のお金を貰えば「ありがとうございます」の黄色い声が一斉に弾ける。



現在は新婚の家だけでなく子供が居る家が対象になっているようだ。

藁の埃がでるからとか子供がいないからとかで断る家もあるそうだ。

平田に嫁いできた子供会の母親が話すには「始めてみたときは、バンバン叩くし、これっ何なのとすっごく驚いた」ことを覚えているという。

実際、見聞きしたことがない人にとっては驚きしかなかったのであろう。

何十軒巡ったのであろうか。

車の往来が激しい大通りに向かう家や新しい家に農家の佇まいをみせる家など平田地区は広い。

およそ一時間経ったころに分かれた組と合流した子供たちは集会所に入っていった。

そこで行われるお礼に貰った戦利品(金)を分け合うのだ。

テーブルに並べられたお金を数えていく。



昔は年長の6年生が多めに取っていたが、現在は人数で割り切れるように分配していく。

亥の子で収穫した分け前のお金が貰えるのは2年間。

中学生になれば資格を失う。

お菓子の数もきっちり分け合って解散した。

(H23.12.15 EOS40D撮影)

イノコ行事とモチ

2012年01月19日 06時46分25秒 | 民俗あれこれ
かつて明日香村の下平田では旧暦11月1日に行われていた亥の子の行事

旧暦というから11月下旬から12月中旬辺りの時期は毎年変動する。

田んぼの稲刈りを終えたころだったが現在は12月15日。

早生稲になって収穫時期はおよそ一か月早くなってきたとイチゴ農家の男性は話す。

その田で収穫した新米の藁で作ったデンボを手にした子どもたちが各家を巡って地面に叩きつけ、収穫を祝う行事を亥の子と呼んでいる。

亥(猪)は多産系の動物で田んぼなどを荒らす。

困った亥ではあるが、その多産の動物は子孫繁栄の象徴でもある。

五穀豊穣の願いも込められているのだろう亥の子の行事は子供たちが主役。

農家の家を継ぐ子供が村内の子孫繁栄を願ってきた。

平田は下平田、上平田の旧村と新興住宅で新しくできた中平田、南平田の4地区だが、亥の子の行事をされているのは下平田だけである。

明日香村では他の地域でも亥の子行事があったという。

「おまえとこはまだそんなことをしているんや」と言われたそうだ。

粟原の地の名もでたが確認はできていない。

平田出身の幼稚園の先生からは「今でもしているの。懐かしいわ」と声をかけられたと亥の子の母親も話す。

デンボと呼ばれる藁棒で地面を叩くのは「田んぼを荒らすオンゴロ(もぐら)を呼び出すのだ」という人もいる。



新米藁で祝う亥の子行事の県内事例は多くない。

現在でも行われているのは高取町の佐田地区。

大淀町の上比曽である。

地面を叩きながら囃子唄はどこか懐かしい響きである。

「いのこのばんに もちのつかんいえは はしのいえたてて うまのくそで かべぬって (県文化財調査報告書は「ぼぼのけでやねふいて」が付記されている) ここのよめさんいつもろた 3月3日のあさもろた いわしさんびき さけごごう しんまいわらでいぉうてやろ もひとつおまけにいぉってやろ」と唄う下平田の亥の子唄。

大淀町の上比曽ではドテンコと呼ばれる藁棒を叩いて「ここの嫁はんいつもろた 三月三日の朝もろた イワシ三尾、酒五合 新米ワラで祝いましょう」と新婚さんの家の前で囃子たてる。

高取町の森では各戸を巡って「イノコの晩に モチの搗かん家は 箸の家建てて 馬のクソで壁塗って ここの嫁はん何時貰う 三月三日の朝貰う 鰯三匹 酒五合 新米藁で祝ぉたろか ペッタンコ ペッタンコ もひとつおまけに ペッタンコ ペッタンコ」の台詞で囃子たてる。

佐田では「イノコの晩に モチせん家は 箸の家建てて 馬のクソで壁塗って ここの嫁はん何時貰う 正月三日の朝貰う 鰯三匹 酒五合 サイラ(サンマの開き)腸(わた)で 祝ぉてやれ ドンブラコ ドンブラコ もひとつ おまけに ドンブラコ」 「おー駒(こま)はん 寝ーてんのけ 起きてんのけ 寝てても 起きてても どんないわ 新米藁で 祝ぉてやれ ドンブラコ ドンブラコ もひとつ おまけに ドンブラコ」だ。

台詞に多少の違いはみられるものの、地域の繁栄の願う祝い唄の台詞は一様の決まりがあったのではないだろうか。

現在は廃れているが県内各地で行われていた亥の子の行事の数々。

高取町では薩摩や兵庫も行われていた。

かつて田原本町の味間でも同じように「イノコの晩に モチの搗かん家は・・・云々」と囃子たてて新婚の家を巡ってデンボで叩いていた。

「イノコの晩に モチ搗かん家は おうちのねーさん起きなはるか 寝てはるか・・・」と思い出す農家の人もいた。

同町の笠形ではホウデンと呼ばれる藁ズトで地面を叩きながら「嫁はん起きてるけ 寝てるけ 新米わらでいぉたろけ」と囃していた事例が『田原本町の年中行事』に残されている。

同本には「亥の子の晩に 餅つかん家は せんちゃのどんぶりこおきみやん(人名)起きてるけ 寝てるけ 新米わらでいぉたろけ」の東井上地区。

「亥の子の晩に 餅つかん家は ・・・ ここのねえさん起きてるけ 寝てるけ」だった多地区などがある。

亥の子の行事は山間に近い辺りや盆地部で数多く見られた亥の子の行事。

いずれにしても、新婚の家を祝うのは子孫繁栄の願いが農耕行事の収穫儀礼と合わさったのではないだろうか。

明日香村ではかつて豊浦、檜隈、阪田、越、栢森では亥の子の日にイノコモチを食べる風習があったそうだ。

檜隈では「ノコの晩に モチつかん家は 箸で家建てて 馬のフンで壁塗って ボボの毛で屋根葺いて ここの嫁さんいつもろた 三月三日の朝もろた 鰯三匹 酒五合 シンマイワラでで祝うたろう もひとつおまけに 祝うたろうか」と囃子ながら地面をデンボで叩いていた。

栢森では氏神さんで山の神祭りを兼ねて新穀の甘酒を供える亥の子祭が行われていた。

東山ではモチを搗いて小豆のアンツケモチをつけて食べていたと『明日香村史』に書かれている。

また、『奈良県立民俗博物館だより』によれば次の地区で行われていたイノコ行事が紹介されている。

下畑ではホーレンと呼ばれる藁棒であった。

「いのこのばんに おもちつかんいえに はしでいえたてて かやでやねふき うしのくそで かべぬって ここのよめさん いつもらう 三月三日のあさもらう」と囃した。

当地では炊きこんだトーノイモをつぶして小豆餡を塗したボタモチを作って食べていた。

上平田ではデンゴロモチと呼ばれる藁棒であった。

「いのこのばんに もちつくいえは はしのいえたてて うまのけで やねふいて ここのよめさん いつもろた 三月三日のあさもろた いわし三匹 さけ五合 しんまいわらで いおてやる」と囃して新婚の家を中心に各戸を回っていた。

越でも同じくデンゴロモチと呼ばれる藁棒だった。

「いのこのばんに もちのつかんいえは はしのいえをたてて うまのくそで やねふいて しんまいわらでいおてやろ ここのよめさんいつもろた 三月三日のあさもろた いわし三匹 さけ五合 しんまいわらで いおてやろ」と囃して新婚の家を巡っていた。

当地ではイノコの日の食べ物はオハギだった。

コイモを炊いてレンゲで潰しアンコを塗したイノコノボタモチだった。

檜隈でもデンゴロモチと呼んでいた。

「いのこのばんに もちつかんいえは うまのくそで かべぬって ぼぼのけいで やねふいて ここのよめはんいつもろう 三月三日のあさもろう いわし三匹 さけ五合 しんまいわらで いおてやろ もひとつおまけに いおたるわ」と囃していた。

稲渕では若衆が嫁さんを貰った家にモチ搗きの杵を持っていって、ハマイコに餅を置いていく真似をした。

ハマイコは叩き割ったようだが、それはどんなものであったのか私は存知しない。

このようにイノコの行事にはイノコノモチ、アンツケモチ、ボタモチなどとよばれるモチがつきものであった。

「モチツクイエ」、或いは「モチツカンイエ」の台詞がそのモチを意味するのであろう。

東山では餅を搗かない家を「いのこのばんに もちつかんうちは・・・・」と囃した。

それはとんでもないケチであると揶揄されたという台詞であった。

また、天理市の藤井でもかつてイノコもあったそうだ。

男の子が村中を歩いて「いのこのばんに モチつかんいえは・・・しんまいワラでいおぅたれ ぺったんこ ぺったんこ」の囃子言葉があったことを六人衆が思い出された。

家の門口をワラ棒で叩いたあとは菓子をもらったそうだ。

昨年に取材した故郷の大阪南河内郡の河南町では「いのこ いのこ いのこのばん(晩)に じゅうばこ(重箱) ひろて(拾うて) あけて(開けて)みれば きんのたま はいた(入った)ったー ちょこ(しっかりの意)いわい(祝い)ましょ ことし(今年)もほうねん(豊年)じゃ らいねん(来年)もほうねんじゃ おまけ」であった。

その昔はもっと卑猥な台詞があったことを聞いた。

重箱と言えば天理市の楢町にあった興願寺の亥の子の十夜。

「十夜の晩に 重箱ひろって あけてみれば ホコホコまんじゅう にぎってにれば 重兵衛さんの キンダマやった」と歌ったそうだ。

それは如来さんのご回在の日であって如来イノコと呼んでいたと『楢町史』に記されている。

重兵衛さんの台詞は消えた河南町であるが、重箱といい、キンノタマは同じだ。

遠く離れた大阪と天理に繋がる詞章があったことに驚きを隠せない。

下平田の亥の子の唄もそうであったが「今では口にすることができんようになった」と話す総代婦人。

亥の子の日にはボタモチを作って食べていたという。

(H23.12.15 EOS40D撮影)

古代の国道

2012年01月18日 06時41分57秒 | 大和郡山市へ
古代に造られた計画的な大道は直線的だ。

大都の始まりは奈良にある。

「藤原京から北に向かって次の都の平城京は下ツ道を伸ばした線上にある。古都と新都を造った際に大道を整備した」という人は多い。

そうなのであろうか。

実際は条理があってその線上にあったのが大道である、もしくは同時並行で築造されたのではと思っている。

大道がなければ物資を運ぶことにならないからだ。

古代の宮廷や池、都が発掘されれば古代史ファンがわんさかと押しかける。

道であればどうなんだろう。

12月13日に出土例としては過去最長になる下ツ道が発見されたのだ。

その場所といえば大和郡山市と天理市にまたがる八条北遺跡。

名阪国道ICの建設に伴って発掘調査が行われていた地である。

下ツ道は県盆地部の中央を南北に縦断する古代の大道。

藤原京西と平城京を結ぶ約23kmで日本書紀や過去の調査から七世紀に整備されたと考えられており、都が消滅した九世紀以降に埋没して水田になったとされる。

下ツ道の大道は白地図を見れば直線的な道であったことがよく判る。

奈良県では「歩く・なら」のポ-タルサイトが充実している。

“探して楽しい、歩いて感がい深いルート“の一つとして古代の幹道・下ツ道を紹介している。

その推定道にぴったりと収まる今回の発掘結果。

路面幅は約19mであったと判明したそうだ。

ウォークマップを持って古代の景観を思い起こしながら歩くのも楽しいだろう。

(H23.12.14 SB932SH撮影)

大和川の伝説

2012年01月17日 09時07分10秒 | 民俗あれこれ
大和川の伝説を調べている。

それは雨乞いである。

廣瀬神社の砂かけ祭はまさしくその様相を表している。

川といえば大雨や洪水で氾濫したとか、それによって土地が沈下、枕水したとか。

災害が祭り神事になったものがどれほどあるのか。

洪水の痕が市史に残されている。

それを調べてはみるものの、関係する祭りは素人では判らないが、先人たちが残した誌料はある。

洪水によって疫病が発生し、それから退散を願って祭りをしていたのでは、と考えられる。

謂れがあるかどうか判らないが、判る範囲内で調査にあたっているので協力してほしいということだ。

そういえば洪水によって町がごっそり移転した事例がある。

大和郡山市の池之内町がそうである。

満願寺町もそうだった富雄川の氾濫。

小泉町の市場の人が行っている九頭神祭もそうではないだろうか。

町が移った前のことも調べなければならない。

それは小字に名が残されている可能性もある。

専門に調べる人もいるそうだ。

大和川流域だけが調査対象ではあるが、支流をも含めれば調査日数は相当かかるものと思われる。

画像は平成23年1月3日に撮影した池之内町の八幡神社。

この年、境内は奇麗にされて石畳参道にされた。

(H23.12.13 記)

法蓮の阿弥陀講と稲荷講

2012年01月16日 06時41分47秒 | 奈良市へ
久しぶりに法蓮町に寄ってみた。

常陸神社を守っている阿弥陀講のIさんが境内を清掃している。

木の葉が落ちて散らかっているのを見かねて朝から清掃されていたのだ。

阿弥陀講はかつて50人も居たが、年老いて亡くなったこともあり講員は年々減っていった。

今では20人ほどになったが毎月19日に営まれる神社の祭礼に奉仕活動をされている。

前日は講員が揃って一斉に清掃をしているのだが、見るに見かねて今朝から掃除をしていたと話す。

作業をしながら話す内容といえば農家の暮らしだ。

こういう機会も徐々に減ってきているという。

随分前のことだがと前置きされて語られた「アマヨロコビ」。

日照りが続いて田んぼも干上がった。

3日間もカンカンに照ってしまうと田んぼが干上がる。

池の水を管理するのは水利組合。

田んぼがひび割れするときには池の水を入れる。

それでも雨が降らない日が続く。

そのときに「アマヨロコビ」をしていた。

「今日はアマヨロコビや」と言って鉦を叩いて町内を振れ回っていた。

カン、カンカンと聞こえてくる鉦の音は農作業を休む合図。

仕事を休んで一日中遊んだという。

それは戦中時代までされていたが、戦後に途絶えたそうだ。

それからも農業を勤めてきた法蓮の人たち。若くはない。

80歳にもなったので後継者を育てるという意味を込めて代表者を替ってもらったそうだ。

若い人にこれからの時代を継いでもらいたいと替ってもらった代表者も70歳。

新参になるので講中の座は末席になるという。

もう一人の男性は砂を運んでいた。

五色の旗を立てる砂場が硬くなってきたので入れ替えるというのだ。

それも祭礼日の前日に入れ替える。

普段からこうして神社を守っている講中は、法蓮の会所で毎月の営みをされている。

この月は10日に営まれた。

1月は総会になっている。

2月は10日を予定しているという。

昨年の3月に行われた慰霊祭を取材させてもらったことがある営みと同様に観音さんの掛け図を掲げるそうだ。

その掛け図にはカミナリさんが描かれているという。

しかもだ。

阿弥陀講の御詠歌には、雨が降って喜んでいる様子を表した「アマヨロコビ」を謡っている歌もあるそうだ。

その番唄は、雨がほしいときにはたいそうなご利益があるといって近隣地区から貸し出されたこともあったと話す。

当時の取材では、そのことにまったく気付かなかった。

常陸神社の末社に稲荷神社がある。

そこでは毎年12月にアゲゴハンが供えられる。

2年前に聞いていたその日にやってきたのだが清掃しているIさんただ一人で清掃をされていたのであった。

話によれば今年は4日にされたそうだ。

バランに乗せるゴハンはアゲゴハン1個とセキハンが3個だそうだ。

アゲゴハンは三角のおむすびのような形で数社あるお社にもそれぞれ供えてお参りをする。

この年は5、6人が参拝したそうだ。

稲荷講はおよそ20人もいるというが集まる人は少ない。

参拝をした後は会所に移る。

そこではお稲荷さんの掛け図を掲げているという。

その掛け図も古くなったから新しい掛け図を作って替えたいと話が進んでいるらしい。

(H23.12.13 SB932SH撮影)

脇本の閏年の庚申

2012年01月15日 09時24分18秒 | 桜井市へ
泥棒除けのお札取材の際に発見した庚申杖。

それ玄関に飾ってあった。

「奉幣常猿田彦大神壱千日祭村内安全五穀豊就諸願赦就祈(俢?)」の文字が見える。

持主であるN氏に電話で聞き取りを敢行した。

主人が話すには4年に一度行われている「庚申トウゲ」で使われたモノであるという。

4年に一度といっても閏年に当たる旧暦年の五月だそうだ。

「庚申トウゲ」は日待ちだと思われると語ったN氏。

それを行う場所は地蔵堂の傍らにある庚申塚。

脇本の下ノ町垣内の8軒で営みをされている。

4年に一度というから32年間の回りである。

一升のオモチを前日に搗いて酒一本を供える。

その斎主は村の神主。

庚申杖の文字はその神主に書いてもらうという。

次の当番(ヤドとも)はN氏と隣家であるT家だそうで来年の4月に行う。

杖は樫の木。

前日に採っておいた葉付きの樫の木である。

皮を削ってそこに墨書する。

祭事を終えればN家と同様に玄関に飾る家もあれば床の間に置く家もあるそうだ。

古い家ならまだしも新しく建て替えられた家の玄関はサッシ。

杖を止める個所がないから床の間に置くという。

その杖は正月明けのとんどで燃やすと電話でいわれたが実際はそうではなかった。

ちなみに脇本で行われている閏年の庚申について大和郡山市にある小泉町の庚申堂まで出かけて地域の行事との関係を尋ねていったそうだ。

小泉のお堂には住職(明日香の橘寺)がおられたが「それは判らない」との返答に肩を落として帰ったと話す。

(H23.12.12 EOS40D撮影)

脇本の泥棒除け札

2012年01月14日 08時58分11秒 | 民俗あれこれ(護符編)
「十二月十二日」の逆さ札を貼っている脇本の元一老。

3年ほど前に近所の方から教えてもらってお札貼りをしているという。

話を聞いた頃になる。泥棒に入られかけたことがあった丁度そのころだ。

「お札を貼れば二度と泥棒が入って来ないだろう。泥棒も退散するやろ。」と、考えて家中のあらゆる扉に貼るようにされた。

そんな風習をされているお宅を12日に伺った。

当主は朝、起きたときに貼られた。

勝手口の扉、玄関口、各々の窓に室内の扉までありとあらゆる出入り口に貼ったお札はご自身で書かれたものだ。



M家の当主がされている泥棒除けの札。

それは3年ほど前に、近くに住むN氏から教わったそうだ。

「ややこしいのが来てな」と悩んでいたM氏。

N家で実際に拝見したお札はご利益があると思い、「これはえーこと聞いた」と言って翌年から始められたM家であった。

が、その発端となったN家の様子を聞かねばならない。

M家に紹介されてN当主に電話で聞き取りを行った。

当主によればテレビで放送があったという。

それは情報番組だったのか、ニュースであったのかと思いきやそうではなかった。

奥さまが言うにはテレビではなく、ご近所からだった。

上ノ町垣内に住む90歳のNさんに教えてもらったことに始まる。

同家におじゃましたときに貼ってあった「十二月十二日」のお札。

それは逆さに貼ってあった。

「泥棒除けのお札を貼っておいたらよろしいのやで」と聞いてN家でも始めたそうだ。

お札は、玄関、窓などありとあらゆる家内部の出入り口に貼る。

その毎数といえば30枚。

それほど開け閉めする扉が多いということだ。

そうこうしてお札の教えが集落を練り歩いていったのである。

実に面白い伝わり方である。

では、90歳の奥さんはいつから始めたのだろうか。

これもN氏に聞いた。

その結果、奥さんは五條市から来た人に教わったというのだ。

五條市から桜井市へと一挙に駆け巡った泥棒除けのお札の伝播。

お札はこのようにして人から人へと地域に繋がっていった。

こうした泥棒除けのお札は我が家でもしていた。

それは大阪市住之江の実家であった。

キョウおばあちゃんが毎年の12月12日にこのお札を玄関に貼りつけていたことを子供のときに眺めていた。

その光景は今でも思い出す。

キョウおばあちゃんはおばあちゃんの母であるオコマさんから伝えられたものだとおふくろは言う。

生まれ育ったのは大阪市内、現中央区の瓦町。

北浜から南下したところで呉服屋さんを営んでいた。

その店の娘だったキョウおばあちゃん。

戦災で焼け出されて住之江のバラック家で住むようになった。

息子と結婚したおふくろはそこで住んでいた。

戦時中は大阪河内に疎開していたが戦後に建てられたそこで住むようになった。

そこで生まれたのが私である。

バラック家は団地化されて消えた。

その光景もときおり夢の中にでてくる。

ちなみに家内の実家は東大阪の枚岡。

そこでも泥棒除けの札を貼っていたとかーさんは話す。

(H23.12.12 EOS40D撮影)

ダイコン干し

2012年01月13日 06時46分57秒 | 民俗あれこれ(干す編)
この時期には採れたてのダイコンを干している風景に出合うことが多い。

大和郡山市伊豆七条町では畑に櫓を立てて干してある。

朝日に照らされて白い肌のダイコンが眩しく光る。

この時間帯は学校へ向かう生徒たちが自転車で走っている。

干してあるダイコンはおそらく漬けものにするのであろう。

後日、長安寺町に住む婦人たちがその話題でもちきりになった。

干すのは数日だそうだ。干しすぎてもあかんらしい。

ダイコンが曲がる程度が良いそうだ。

それを漬けもの桶に入れてコブ(昆布)を入れるそうだ。

コブがあれば良い味がでるようだが、入れない人もいる。

塩といえば2升ぐらいが適度だという。

(H23.12.13 SB932SH撮影)

高田亥の子行事の夜のあばれ

2012年01月12日 06時50分20秒 | 桜井市へ
行事の前日に当家が作られた新しい神さんは行事当日の朝に山口神社へ祀っておく。

それはお仮屋あばれの前に新しい神さんと入れ替えて家型の屋形に納められる。

神さんの前でお仮屋あばれや膳あばれを繰り返してきた亥の子の子どもたちは日が暮れるころの再び出荷場に現れる。

またもや登場する亥の子の子どもたち。

出荷場の電器が消されると神棚に置かれたローソクに火が灯される。

待ってましたとばかりに、それを目がけて藁束を速球で投げる。

見事命中すればローソクの火が消える。

火が消されたら「火を灯せー 火を灯せー」の連呼。

口々に大声を掛けて火点けを催促する。

再び当家が火を点ける。

そうすれば藁束が飛んでくるという具合だが、執拗に藁を叩きつけていたこの年の灯明消し。

このときも膳あばれと同じように小さな小学生は年長者の真似をして藁を叩きつける。

背丈が低いものだから届かない。

大人たちからは「投げるんでなく飛ばすんだ」と檄がはいるが、そんな大人たちの声は子どもに届かない。

何度も、何度も藁を叩きつける。

何十分もそれが続いたのだろうか。



それを見学する人は出荷場を立ち去ろうとしない。

後半戦はようやく指示通りの藁投げに転じていった夜のあばれは1時間も越えていた。



長時間に亘る灯明消しはようやく終えた。

火との戦いはこうして幕を閉じたのであった。

舞台の後方付をしたら当家以外の人たちは解散した。

山の神が亥の化身となって暴れた亥の子たちは既に戻っている。

昨年に勤めた小学6年生の年長者は中学生になって卒業した。

この年の高田は小学生の男の子は9人だったが、暴れた子どもは4人であった。

村は再び静けさを取り戻した。

そのような状況を見計らって二人の当家が動き出した。

屋形を抱える小当家と大当家は真っ暗な道を歩いて神さんを戻しにいく。



目指すは山の神さんの山口神社だ。

次の当家に神さんを引き継ぐ儀式が始まるのである。

道中もさることながら神さんの遷しましは一切の灯りを点けずに無言で行われる。

万が一、道中で人と出会っても言葉を交わしてはならないのである。

神社に到着すれば神前に供えていた新しい神さんを古い神さんととり替える。

暗闇の中で行われる遷しましの神事である。

こうして新しい神さんを納めた屋形は次の大当家の家に納めにいく。

こうして新しい家で山の神さんを一年間祀られるのである。

(H23.12. 4 EOS40D撮影)