電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

宮城谷昌光『呉越春秋~湖底の城(3)』を読む

2013年12月18日 06時02分01秒 | -宮城谷昌光
講談社刊の単行本で、宮城谷昌光著『呉越春秋~湖底の城』の第三巻を読みました。講談社刊の単行本で、雑誌「小説現代」に連載中のものです。本巻は、楚王と費無極の奸計により、父・伍奢と兄・伍尚が斬首されることとなった刑場を、伍子胥とその配下の者たちが襲撃する場面から始まります。残念ながらこの襲撃は失敗するわけですが、伍子胥たちが誰も命を落とさないで逃げることができるところがすごい。

「太子をたすけよ」という父の遺言により、伍子胥は太子の亡命先の宋に向かいますが、途中で褒氏の子の小羊を預かり援けることになります。宋を出て鄭に向かいますが、亡命をためらって父の死の原因となった太子は、晋に欺かれて落命し、伍子胥らの一行は、内乱の中、鄭兵に追われながらかろうじて脱出、太子の子の勝を助けて呉に向かいます。

呉に向かった船の着いたところは、朱旦という大商人専用の船着場で、徐兄弟の紹介により蘭京に会います。蘭京は呉王の子で、王の命令により棠邑に住み、スパイ活動を束ねていたのでした。さらに伍子胥は、かつて呉の王位相続に関わる乱れを防いだ季札に会います。季氏の好意で用意された家では、かつて楚都の尹礼家で見初め結婚を申し込んだ女性・小瑰と再会します。楚の康王の娘であった小瑰は、尹礼の計らいで王家の争いから助けられ、養女としてひそかに育てられていたようです。伍子胥が一目ぼれしたのが長女の伯春ではなく養女の小瑰であったために、尹礼家では求婚を断った、というのが真相だったのでしょう。

伍子胥と小瑰、御佐と婚約していた青桐はここで結婚しますが、落ち着いてはいられません。公子光を通じて呉王に拝謁した伍子胥は、高く評価してくれた公子光の客となることを承諾します。伍子胥の片腕というべき右祐の妻となっている桃永の兄ではないかという彭乙は、両親を殺した永翁を恨んでいますが、永翁は妹の桃永にとっては育ての親ともいうべき人です。どうやら大きな謎があるようで、青銅の小函の中に入っていた絵図が、その鍵を握っているようです。



第三巻まで来ましたが、第四巻まではすでに刊行されているようですので、ストーリーを忘れないうちに、なんとか次巻を探してみましょう。大長編になりそう、という予感は、ズバリ当たったようです。

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宮城谷昌光『呉越春秋~湖底の城(2)』を読む

2013年12月15日 06時01分27秒 | -宮城谷昌光
講談社刊の単行本で、宮城谷昌光著『呉越春秋~湖底の城』の第二巻を読みました。今のところは、楚の高官である伍奢の次男、好漢・伍子胥の物語です。
兄の伍尚が邑主として政治を行っている棠で、伍子胥は永翁を襲撃しようとした海賊の手先を捕えます。しかし、彼らも根っからの悪人ではなさそうだし、その特殊技能を惜しんだ兄・伍尚は彼らを釈放します。単に恩義がある人の頼みを承知しただけのことだとして、恨みを残さない、情のある解決です。
棠の邑主としての伍尚の貢献はまだあります。呉王の大船団が川を遡行し楚を攻めてきた規模・陣容等をいち早く楚王に報せます。楚も大船団を組織して迎え撃ちますが、引き分けの形で呉軍は撤退します。そんな貢献も、愚かな楚王と悪臣の費無極には何の効果もなく、太子の婚姻のために向かったはずの費無極は、秦の公女を太子ではなく楚王の妃にしてしまいます。息子の嫁を横取りするとは、ヴェルディの歌劇「ドン・カルロ」以来のスキャンダルです(^o^)/
愚王と悪臣の企みはこれで終わらず、太子を辺境に追いやり、傅の伍奢も同行させただけでなく、太子に誅殺の使者を差し向けます。ところがこの使者がなかなかの武人で、あらかじめ自分の用件を太子に報せたため、太子建は国外に亡命、費無極は伍奢を人質に二人の息子も殺すことを企てます。父親を人質に取られた伍尚は、弟まで死ぬ必要はないと、自分だけが都にのぼります。良主を見送る棠邑の民の嘆きは、兄・伍尚の名誉ではあっても、弟を慰めるものとはなりません。伍子胥は、少数の配下を連れて、父と兄を奪還すべく王宮に侵入します。そしてその結末は……というのが本巻のあらすじです。

とにかく息をつかせぬおもしろさです。悪役は悪役らしく、善玉は力強く頭が切れるけれど、残念ながら権力はない。そんな想定は、冒険活劇にはお約束のものです。第三巻が楽しみです。

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宮城谷昌光『湖底の城(1)~呉越春秋』を読む

2013年12月12日 06時05分10秒 | -宮城谷昌光
宮城谷昌光著『湖底の城~呉越春秋』第一巻を読みました。先に同氏の『草原の風』を読んだ際に、主人公が伍子胥(ごししょ)は好きだが終わりがわるい、やはり范蠡(はんれい)がよい、というような評価をしておりました。これをきっかけに、伍子胥や范蠡という人物を知り、興味を持ちました。たまたま図書館で見かけたのが、この伍子胥や范蠡を主人公とする物語とは、偶然とはいえ、なにかご縁があったのでしょう(^o^)/

楚の高官である伍氏の次男である伍子胥は、身長が2mを越す大男で、気性も明るいが、激しいものがあります。加冠の答礼のために、父とともに諸家をまわった時に、伊礼家で美しい娘を見初め、求婚します。はじめはこころよく応対してくれていたのに、急に断られてしまいます。理由も不明で、伍子胥は割りきれない思いを抱いて棠邑の兄・伍尚のもとに行くことになります。旅の途中に、伍子胥は楚の国の乱れと船戦の難しさを感じますが、楚王の太子の傅佐である費無極の横暴をとがめ、対立してしまいます。舟を使えず、徒歩で棠に向かうこととなりますが、道案内をした才松は、楚王に恨みを持っているようです。
棠邑の領主である兄の伍尚は、商人に橘50本の移植を発注すると同時に、弟の提案を受け入れて、武術大会を開催することとします。
ここで、従来からの家臣である御佐や右祐らに加え、弓の名人の陽可や矛戟の達人の徐兄弟、あるいは抜群の視力を持つ朱毛などを配下に加えます。また、斉の孫武を助け、知己となります。河のほとりに住む永翁から、桃永と屯の母子を預けられますが、どうやら何かいわくがありそうです。
そんな時に、費無極の嫌がらせで、伍尚は佞臣の訪問を受けます。先の武術大会で、無頼の者を召し抱えたのは謀反の兆しだというのです。要するに賄賂の要求なのですが、無実の証明は難しい。陽可のヒントで、都の子常という権力者を動かし、なんとか困難を切り抜けます。
しかし、呉王の服喪が明ければ戦となることは明白です。さて、どうなるか?

当面は、まだ伍子胥の物語で、范蠡は影も形も出てきません。『孟嘗君』でも、最初は風供の物語であったのと似ています。伍子胥から描き始めることで、物語の広がりが出てくるという作者の意図なのでしょう。現在はまだ雑誌連載中だそうで、大長編になりそうな予感がします。

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宮城谷昌光『楽毅(四)』を読む

2013年10月31日 06時02分36秒 | -宮城谷昌光
新潮文庫で、宮城谷昌光著『楽毅』第四巻を読みました。

趙国内における沙丘の乱により主父が死に、楽毅は迷いを捨てて魏に移ります。首都の大梁において、法家の一人である李老子の門に入ります。「武のみに生きることにむなしさをおぼえました」という楽毅の言葉に真情を見た李老子のはからいで入門を許され、高弟の条有を通じて季進や単余などの協力を得ることとなります。魏にあっては守備隊の伍長に過ぎない里袁にも再会し、ようやく妻と子と一緒の生活を楽しむ中にも、中華の風は吹き止みません。斉の湣王は、愚かにも斉の柱石であるはずの孟嘗君を魏に追いやってしまいます。魏王は大喜びでしょう。魏に到着した孟嘗君は、ひそかに楽毅宅を訪ね、楽毅の意中を確かめると、昭王に、燕王への使者として楽毅を推挙します。

孟嘗君の推挙と犀首の肯諾を得て、魏王の正使として燕に赴いた楽毅は、かつての好敵手・趙与の示唆により、趙の奉陽君(李兌)を聘問し、その面識を得ます。そして燕国に入ると、これが驚くべき厚遇でした。いぶかしむ楽毅主従らでしたが、実は燕王の意図は楽毅本人にありました。斉に父を殺され、国土を蹂躙された過去を持つ燕の昭王は、大国斉への復讐を願っており、趙の侵略に抗し、中山国の滅亡を防ぐために奮闘した将軍・楽毅の力を欲していたのでした。魏王の臣下ではなく客に過ぎない楽毅に対して、昭王は楽毅が燕にとどまってくれなければ魏王への返書は書かぬと宣言します。楽毅は王の熱意にうたれ、魏王には妻子を人質として差し出す形で誠意を示し、燕と魏の交誼を成立させて、自らは燕にとどまることとします。かつて中山の将軍であった楽毅を昭王に面謁させた郭隗から、楽毅の承諾を聞いた昭王は、念願がかなったことに喜びますが、楽毅は王の宿願を果たすためには趙と結ことが肝要であることを提言し、雪路を踏んで趙に向かいます。

ここからの楽毅の外交は、見事と言うしかありません。主父を殺害したという負い目を抱える趙の恵文王は、燕の昭王の書翰に心の通う情義を感じ、また使者である楽毅が中山王に示した忠節を信頼し、燕と趙の会盟を約束し、二城を献じます。ただし、昭王に復命する際に人質として太子を趙に送ってはどうかと示唆したことで、わがままな太子がカチンと来たことは、楽毅には予想外でした。太子が楽毅を誹謗したことは、昭王を激怒させますが、逆に楽毅が妻子を魏王の人質としていることを知り、昭王は使者を魏に遣わして、妻子を楽毅のもとに返します。昭王の思いやりに触れた楽毅は、感激したことでしょう。

燕王の絶大なる信頼と太子の敵意の間にあって、楽毅は昭王の治世の間に斉への復讐の事業をなそうと計略を進めます。斉の湣王の暴虐と魏の孟嘗君の存在が楽毅の大きな戦略を助ける結果となります。そして、この後の楽毅の謀計は、ついに大国斉の大半を燕の支配下に置くことになり、昭王の大望はついに果たされるのですが、その過程の描き方は実に綿密です。それぞれの国の王や宰相、将軍と民の感情などが表され、軍事の物語としての重厚さを感じさせますが、一方で昭王の急逝に伴う太子の即位によって、楽毅の偉業が潰えてしまう様などは、思わず無常を感じてしまいます。と同時に、趙王に厚遇される晩年に、思わず安堵するのも確かです。



以前、北海道出張の前後に読み始めた記憶がありますが、再読三読、読み返すたびに読後感は爽快なものがあります。『孟嘗君』『太公望』などに並ぶ、作者の代表的な作品でありましょう。余談ですが、作品の終わり頃になるとやけに端折ってしまう傾向が否めない作者の通例にはよらず、最後まで力の入った物語となっていると感じます。

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宮城谷昌光『楽毅(三)』を読む

2013年10月19日 06時04分56秒 | -宮城谷昌光
新潮文庫で宮城谷昌光著『楽毅』第三巻を読みました。表見返しに折り込まれた地図が、前巻までは中山と趙が中心だったのに、この巻では二つ折りと大きくなり、古代中国全体が描かれています。楽毅の活躍が、いよいよ広がっていく巻です。

燕の昭王とその臣下である郭隗のエピソードは、「隗より始めよ」という故事成語となっているのですね。理系の石頭は、こういう常識を知らない。恥ずかしながら、具体的な由来を初めて知りました(^o^;)>poripori
そして、ひそかに訪ねて来た楽毅を昭王に引見させた郭隗は、やはり相当の人物と言って良いでしょう。残念ながら燕王は中山への援助をやわらかく断りますが、楽毅という将軍の人物は高く評価し、自国に迎えたいとさえ言います。

呼沱に戻った楽毅は塞の守りを固めます。郭隗は千里の馬の予約金だと言って二千金を楽毅に届けますが、これはもちろん燕王の意向であり、先物買いと言って良いでしょう。趙の武霊王は退位して恵文王に後を継がせ、自らは主父を称しますが、実質的には主父による院政と言えます。内政は恵文王にまかせ、武力による侵略を主とするという形です。これに対抗して中山国を守るために、楽毅は思い切った手を打ちます。それは、負傷し斉に逃れる途中で亡くなった父王に代わって中山王となった尚を、扶柳の城からひそかに呼沱の塞に移すことでした。楽毅を信じる若き王尚は、呼沱の塞にこもる中山兵の奮戦と犠牲を目にして、喜ぶとともに心を痛めます。洞察力のある英主と言って良いでしょう。趙軍もまた、楽毅の策により趙希将軍と多数の兵を失い、呼沱攻めの序盤戦は楽毅の勝ち、です。

しかし、敵将楽毅を高く評価する趙の将軍趙与の手堅く愚直な攻めは、大きな犠牲を払いながらも確実に地歩を進めていきます。激戦に次ぐ激戦で、中山兵の損失も大きく、遂に塞に籠もる中山兵の数は六百にまで縮小してしまいます。このあたり、途中で復命した趙紹の報告を聞き、主父が落涙するところが名場面でしょう。

 主父はかたわらの恵文王に涙の目をみせ、
「王よ、よくごらんなされよ。一刻の王朝が倒壊し、つぎつぎに王が斃れ、懿徳のさだかでない若い王に殉じて死んでいった中山兵が数多くいた。しかも、来春、全員が戦死すると知りながら、砦をはなれず、王を守ろうとする者が六百人もいる。わしも王も、ある日滅亡を迎えるとき、はたして六百人も殉じてくれるであろうか。はなはだ心もとない。王は、こころしてこの六百人を視ておくことだ」
と懇切にいった。

これは、主父(武霊王)の最後を知れば、まことに哀しい認識でありましょう。

そして、自らに殉じる覚悟を持つ六百人の命を預かる中山王尚は、主父の勧告を受け入れることを決断します。それは、中山の完全な抹殺ではなく、辺境の一城に引退する、という条件でした。中山王尚は山を降り、兵はそれぞれの道に分かれていきます。楽毅と少数の従者は、趙国内の妻孤祥の実家に身を寄せます。

ひそかに好敵手であった楽毅将軍の動静を調べさせていた趙与がこれを察知し、主父に推挙しようとしますが、敵将の推挙に難を示す上司の壁は厚く、楽毅もまた趙に仕えることを潔しとせず迷っているうちに、沙丘の乱により主父と平陽君は横死してしまいます。



なんといっても呼沱における山岳ゲリラ戦の描写が圧巻です。また、沙丘の乱における主父の悲惨な結末も、シェークスピアの悲劇を観るようです。そして、失意の楽毅がどのように再起するのか、初読時には実に興味深く、再読時にも次の大きな活躍が楽しみになります。

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宮城谷昌光『楽毅(二)』を読む

2013年10月17日 06時04分37秒 | -宮城谷昌光
新潮文庫で、宮城谷昌光著『楽毅(二)』を読みました。物語は、趙の武霊王によって三方から攻められた中山王が、四邑を献じて趙と講和を結ぼうとします。楽毅は、父の喪中であるにもかかわらず使者として趙に向かうように命じられます。中山王は太子の死を画策していますが、一方で趙の武霊王もまた、太子の廃替に迷いを見せています。ところが武霊王は、外に対しては果断を見せる。四邑を献ずるという中山の意向を示す楽毅に対して、約束は十四邑だとゴネます。これは、使者を怒らせて無礼を咎め、斬ろうとするものでした。楽毅は、武霊王の底意を見抜き、残りの十邑を献じる連絡を取るとして時間を稼ぎます。実はそこからがさすがの対応で、好敵手の趙与を人質に取り、郊昔の胆知もあって国境を突破し、帰国を果たします。この点を見れば楽毅の勝ちですが、愚かな中山王が講和決裂で帰国した楽毅を怒り、王と楽毅との間の溝が深まる結果となり、楽毅を信頼する太子は中山国のために王と楽毅の対立を悲しみます。

この対立を緩和し、服喪に戻った楽毅を守ったのは、楽氏に代わり新たに宰相となった司馬熹でした。中山国の危機に、これまで対立することが多かった楽氏と司馬氏とが手を結んだ形となったために、王の暴威も頓挫しますが、服喪を終えて参内した楽毅に、王は昔陽攻めを命じます。これを献言したのは宰相の司馬熹であり、その狙いは、堅城に楽毅を置くことで中山の延命を図ること、でしょうか。

楽毅は昔陽の城を陥し、趙軍の攻撃を防ぐことができるように守りを固めます。しかし、情勢は違った方向に進み、司馬熹と中山王は没し、太子が新たに中山王となります。楽毅は、新王を救うべく、包囲された首都の霊寿へ急ぎ、趙の牛翦将軍を倒します。このとき、王はすでに霊寿を脱出して斉に向かう途中で、負傷していたのでした。楽毅は太子となった尚を斉に亡命させ、斉軍は昔陽の城に入り、楽毅自身は三千メートル級の山岳地帯である呼沱の山野に塞を築き、敗兵を集めながらこれに籠もります。そして、燕に中山の窮状を訴え、燕の利を説くため、敵国・趙を経由して燕への潜入を試みます。その際、楽毅に嫁した妻の孤祥の実家である孤氏の助けが必要でした。

宮城谷作品には、主人公を多くの女性が取り巻く例が多いのですが、『楽毅』の場合は夫人の孤祥との場面が少しずつ描かれるくらいで、彩やかな恋愛模様などは描かれません。このあたりも、「軍事の物語」という印象を強く受ける理由になっているのかもしれません。

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宮城谷昌光『楽毅(一)』を読む

2013年10月13日 06時03分38秒 | -宮城谷昌光
風邪で寝込んだ床の中で、宮城谷昌光著『楽毅(一)』を再読しました。

戦国時代の中期、中国が統一される前に、河北に中山という国があり、宰相の子・楽毅は斉の都である臨淄に学びます。下級役人である田氏を友とし、孫子の兵法や季梩の法などを修めつつ、本当に身になったのは、大都市における孤独を味わい、自らの生き方を考えたことでした。

故国の中山は、武のみを尊ぶ独善的な王により、拙劣な外交しか行えず、孤立して諸国の支援さえ受けられぬままに、趙の武霊王の侵略を受けています。楽毅は、留学先の斉を離れる前に、孟嘗君と会見し、中山を救うべく中山と斉の同盟を訴えます。両国の国民感情から、この同盟の実現は難しいものの、孟嘗君の知遇を得たことは大きかった。帰国してから、中山の太子が聡明であることを知りますが、王は太子を殺し別の公子を後嗣としたいと考え、太子と楽毅を魏に派遣します。魏との交渉はうまくいかず、太子と楽毅は帰途に中山王の内意を受けた暗殺者の襲撃を受けますが、楽毅の武勇と知略、砦を守る騎兵の龍元の登場などで危機を脱し、二人は互いに信頼を深めます。

一方、趙の武霊王は国を挙げて胡服騎射を決断、中山を含む北方の征服に決意を示します。中山王は太子に騎馬軍を預けますが、実はこれは、城を出て戦う騎馬軍の将は戦死の可能性が高いという、陰険な思惑が背後にありました。太子は楽毅を副将に任じ、彼の戦略を信頼します。楽毅は、小邑の住民を避難させ、その中に騎兵を充満させて門を閉じます。趙軍は小邑を無視し、後方から中山の正規軍が攻撃することに備えていました。ところが、夜、ひそかに邑門を出た太子の騎馬軍五千は趙の後軍三万を襲います。趙の太子章は逃げ、武霊王は将軍趙紹を呼び、右軍を中山の騎馬軍に向けます。逃げる中山の騎馬軍を追った趙軍は、楽毅の策にはまり、みじめな敗戦を喫します。

敵の見事な策に武霊王は瞠目し、中山の太子の存在を再認識するとともに、背後に孟嘗君の存在を意識しますが、まだ楽毅のことは注目しておりません。それは、楽毅自身が、その名を伏せた方が良いという判断があったからでした。一年間、ひそかに中山の内情を探り、用心すべきは太子と宰相の楽氏の動向という判断をもって、武霊王は再び趙軍を中山攻略に向けます。しかも、今回は三方からの侵入です。楽毅は父と太子と離れ、井徑の塞で趙与の軍を迎え撃ちます。この攻防はまことに読み応えがありますが、いかにも孤立無援の戦いで、中山は趙に四つの邑を献ずることで停戦を図ろうとします。



華やかな恋愛模様など皆無に近い、浮ついたところがないという点で、まことに男性的でストイックなお話です。でも、読んでいて気分はたいへんよろしい。爽快感があります。

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「もともとそういう人だったのだろう」という見方

2013年10月04日 06時01分03秒 | -宮城谷昌光
このところ、宮城谷昌光作品を一気に再読しています。なかなかおもしろいです。
ところで、項羽と劉邦の二人については、乱暴で戦に強い項羽と、戦は弱いが人徳のある劉邦という見方が通り相場なのでしょう。ところが劉邦は、偉くなると昔の仲間を次々に粛清していきます。その理由を後からあれこれと考え、そうするしか仕方がなかったのだと弁護する、いわば英雄という結論にそった描き方もありますが、逆に「もともとそういう人だったのだ」という描き方もできます。

後者の典型が、宮城谷昌光の『香乱記』でしょう。こちらは、滅亡する側の田氏三兄弟を描くなかで、劉邦の詐欺・卑劣を描き出します。こうなると、後年の粛清は「もともとそういう人だったのだ」と理解することができます。

「高い地位に登った英雄なのだから、きっと立派な人物だったのだろう」という発想は、勝者の立場に立った見方であって、英雄は立派な人物とは限らない。「非道な者であるがゆえに、歴史の谷間に転落しなかったのだ」という見方は、たぶん勝者・敗者いずれの側にも与しない、冷静な見方なのでしょう。

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宮城谷昌光『管仲』下巻を読む

2013年09月25日 06時02分46秒 | -宮城谷昌光
文春文庫で、宮城谷昌光著『管仲』下巻を読みました。運命のいたずらで敵味方に分かれることとなってしまった鮑叔と管仲が、斉の君主を覇者とするまでを描きます。

斉の老王が逝去し、太子諸睨が即位して襄王となります。ところがこの王は、どうもあまり出来がよろしくない。父の服喪をおろそかにするわ、軍事に独断専行するわ、民の信望は集まりません。それどころか、襄王は辛い人質生活を送った鄭に復讐するとともに、異母妹の文姜が忘れられず、嫁ぎ先の魯君から取り戻そうとします。どうもこういうレベルですから、なんともしょうがありません。では、召忽と管仲が補佐する公子糾が良いのか、それとも鮑叔が補佐する公子小伯が良いのか。

王の悪政に対する態度が、召忽と管仲が補佐する公子糾の場合は、ひたすら従順にしたがうというもので、民の目には王の悪政を黙認したと映ります。ところが、鮑叔が補佐する公子小伯のほうは違いました。わずかな主従とその家族が、きれいさっぱりと跡形もなく消えてしまったのです。これは、弟として、公子として、反逆はしないが悪政を黙認もしないという、無言の批判でした。当然のことながら、民の信望は公子小伯に集まります。公子糾の家宰として、管仲は焦りますが、傅の召忽は顧慮しません。

結局、襄王の死によって空位となった王の席に、公子糾と公子小伯のどちらが着くのか、というぎりぎりの瀬戸際で、鮑叔の適切な判断が光り、公子糾の側は召忽と管仲の不一致がたたります。それにしても、管仲によるライバル公子暗殺作戦はいかがなものか。これはやはり、鮑叔のほうの勝ちでしょう。

とは言うものの、公子糾の処刑と管仲・召忽の引き渡しを求めた戦後処理も、たいそう厳しいものです。だからこそ、管仲を宰相にするという大抜擢が光ります。鋭利な刃物のような大きな才能を生かしつつ使うことができるのは、良き理解者と良き主君があってのことなのでしょう。



管仲の為政者としての記述はごく簡潔なものとなります。このあたりは資料の不足なのかそれとも小説としてのドラマ性の不足のためなのでしょうか。文庫本二冊という入れ物の中に、「管鮑の交わり」と「運命の一矢」を軸に描いた、読むにはちょうど手頃な長さの佳編です。

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宮城谷昌光『管仲』上巻を読む

2013年09月19日 06時02分19秒 | -宮城谷昌光
文春文庫で、宮城谷昌光著『管仲』の上巻を読みました。記録によれば、初読は2005年の冬、2月に図書館から借りてきた単行本でした。この文庫本は2006年11月に読了とありますので、ほぼ7年ぶりの三読め。上巻は、恵まれた貴族の子である鮑叔(ほうしゅく)と不遇な青年管仲との友情の物語です。

中国の春秋時代の前期、東国の斉の大夫の三男である鮑叔は、周の都・洛陽に遊学し、召公の高弟の一人、管仲に師事し、互いに信頼を得ます。偶然に鄭の太子との関わりができますが、中原の諸国を旅し見聞を広めている途中で、鄭の公子に再会します。鮑叔は、家庭的には不幸で社会的には不遇な境遇にあった管仲を鄭国に招きます。

太子のもとで不幸な娘(木へんに需叔)を下賜された鮑叔は、彼女を愛し妻にすることを決意しますが、好悪の激しい鄭の太子曼伯は、鮑叔を高く評価しながら、間諜ではないかとの予断から、管仲を招こうとはしません。鄭と周とが戦ったとき、管仲は生活のために一兵卒として鄭に従軍しますが、敵の間諜との疑いを受け、自軍に捕えられて拷問を受けます。実は、管仲が命を助けた巣画が、自分こそ敵の間諜であることを、逃亡先から書簡を送り、釈放させたのでした。生来、明るい性格の鮑叔は、鄭の太子に厚遇されますが、もともと陰性の管仲は鄭とは相性が悪いようです。

管仲は鮑叔をさそい、行商を始めます。資金も乏しいため、鮑叔は太子にかけあい、南陽の情勢を探りレポートするという名目で、資金を引き出し、同行します。

「わたしは見識と予見をもっているつもりです。あなたの不幸が大きければ大きいほど、不遇が長ければ長いほど、比類ない幸福と厚遇とが、未来にあるようにおもわれてならない」

このように、鮑叔の陽気な信頼が、ともすれば崩れようとする管仲の感情を支えたであろうことは疑いありません。

牛車を引きつれた二人の行商の成果は、管仲にとっては妻となる女性・梁娃との出会いですし、鮑叔にとっては調査報告を受け取った鄭の太子の信頼と、斉への帰国命令でした。鮑叔は、斉王に管仲を強く推薦し、二人は斉の公子のために仕えることとなります。ただし管仲は召忽が傅をつとめる公子糾の家宰となり、鮑叔は公子小伯の傅となります。二人の公子を比べてみると、才能のある公子糾のほうは、残念ながら召忽という傅と管仲という家宰の方針とが、大きなところで必ずしも一致していませんが、平凡な公子小伯は、鮑叔の教育方針によって徐々に成長しているようです。

なかなかおもしろい。二人の対照的な性格と相互の信頼は、好感が持てますし、二人のまわりにいる脇役の人たちの描き方も魅力的です。

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宮城谷昌光『草原の風』(下巻)を読む

2013年09月03日 06時03分21秒 | -宮城谷昌光
新聞小説として連載されていたものが単行本化された、宮城谷昌光著『草原の風』の下巻を読みました。奥付を見ると、2011年の12月に中央公論新社から刊行された初刷ですので、もう二年近く経つことになります。早いものです。この間、たしか三読くらいにはなるはず。記事にするには時間がかかりましたが、面白さと読後の後味の良さが、とくに印象的です。



劉秀が河北を平定するためには、真定王の劉楊と同盟を結び、偽帝の王郎を倒さなければなりません。ところが劉楊は、姪の郭聖通を劉秀の後宮に入れて姻戚となることを条件とします。陰麗華を悲しませたくないという思いは強いけれど、同盟をせずに単独で戦う場合の兵の命と時間の損害を考慮すれば、最善とは言わないまでも、仕方のない判断と言えるのでしょうか。このあたりの、政略結婚に対する考え方が、庶民と貴人の立場の違いに由来するのでしょう。

劉秀の名が高くなるにつれて、味方が増えていきます。とくに、上谷の騎兵が加わったのは大きく、ついに王郎の籠もる邯鄲城を包囲します。徳のない僭称者・王郎には全く援軍が来ません。ついに城は陥落し、王郎は討たれてしまいます。そして邯鄲城の広場に文書や書簡の類を山のように積み上げた劉秀は、これに火を付けてすべて焼き払い、報復を予想した諸将の不安を一掃するとともに、人心を掌握してしまいます。このあたり、陰惨な粛清を常とする中国古代の歴史小説の中で、光武帝劉秀の物語が、清々しさを感じさせる理由の一つでしょう。

王郎の勢力を一掃した劉秀に対して、更始帝の側は疑いの目を向け、なんとかして彼を呼び戻して無力化しようと計画します。しかし劉秀は、使者に対して、蕭王の称号は受命するが河北の平定は終わっていないことを理由に帰還は断り、大量の贈り物を持たせて返してしまいます。蕭王となった劉秀らはさらに従わぬ者たちを平定しながら軍を進めて南下し、洛陽に迫る位置に達しますが、そこから直接に洛陽を攻めることはせず、再び北に向かいます。このあたりは、更始帝と赤眉の軍が対戦すれば赤眉が勝つことを予想し、その後にこれを討つ、という形をとりたいという戦略的判断でしょう。ストレートに都に王手をかけるのはカッコ悪いのです。



物語の最後の二章は、あまりあからさまにせず、割愛したほうが味わいが残るでしょう。光武帝の物語の後味の良さは、故郷で庶人を招待した最後のエピソードでも発揮されています。終わりは駆け足になりやすい著者にしては、しゃれた余韻の残る閉幕です。

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宮城谷昌光『草原の風』(中巻)を読む

2013年08月28日 06時00分34秒 | -宮城谷昌光
挙兵した劉エン(糸寅)と劉秀の兄弟に、一族から加わる者も出て、漢王室の再興を願う動きがいよいよ具体化し始めます。宮城谷昌光著『草原の風』(中巻)は、大激動の幕開けです。

王莽政権打倒のためとはいえ、略奪を繰り返す賊たちと組んだことが正しかったのか。彼らの最大の弱点は、次代の国家像を持っていないことです。しかし、彼らの中にも優れた者はいることが次第に明らかになってきます。劉秀の戦術眼はけっこう的確で、状況判断も適切なのですが、殿軍をつとめることとなった時には官軍の前に敗北し、姉を死なせてしまいます。そんな戦いの中でも、陰麗華から贈られた護身符を持っているせいか劉秀は無事で、しだいに名を上げていきます。例えば薬売りに変装して敵情を視察し、動向をつかんだ劉秀は、賊の中でもこれはと目星をつけていた馬武の隊とともに官軍の輜重隊を急襲し、補給物資を入手します。さらに劉エンらは厳尤将軍の率いる五万の官軍の背後に回ってこれを襲い、大勝を得ます。

ここまでは、腐敗する王莽政権政権に反旗を翻した劉エンらのペースですが、賊将間で仲間割れと主導権争いの内部抗争が始まっていました。劉エンの不在時に、劉玄を皇帝に立てることが決定されますが、劉秀は兄が災厄を免れることができると喜びます。蔡陽は、官民を殺害しない劉秀が将であると聞き、開城降伏を申し出ますが、そんなケースばかりではなくて、昆陽の城では十万の官軍に包囲される前にからくも脱出し、周辺の豪族を説いて官軍の本営を襲い、これを大破します。

このあたりまでは、波風はあってもほぼ上り坂の展開ですが、ここからの中巻は全く風向きが変わります。賊に担がれた劉玄は皇帝となり更始帝と呼ばれます。敵も多い劉エンは刺殺されてしまい、劉秀は事態を素早く判断し、更始帝に恭順を誓うために急行して、死中に活を拾います。そして、戦に明け暮れていた生活に、謹慎という形でひとときの休息が与えられたのを幸いに、陰麗華を新婦に迎えます。この間に、都では王莽が殺され、ついに政権は革命軍の側に移ります。

しかしながら更始帝は劉秀に北方の討伐を命じます。それは、まるで龍を空に、虎を野に放ったようなものでした。北方を順調に帰服させつつあった時に、思いがけない大事件が起こり、劉秀らは窮地に立たされてしまいます。それは、王郎という占い師が、漢の成帝の子・劉子輿を騙り、決起したためでした。



激動の中巻は、一気に読ませる面白さがあります。一難去ってまた一難、でも報復や粛清を行わない劉秀のすがすがしさは格別です。

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宮城谷昌光『草原の風』上巻を読む

2013年08月22日 06時07分20秒 | -宮城谷昌光
中央公論新社刊の単行本で、宮城谷昌光著『草原の風』上巻を読みました。正確に言うと初読ではなく、三読くらいかと思います。上巻は、後漢の名君・光武帝の若い時代を描く、気持ちの良い物語です。

劉邦の末裔である蔡陽の劉氏の末弟・劉秀は、父の死後、家計の苦しさから叔父のもとに引き取られます。劉秀は実直な働き手で、農作業に創意工夫を加え、働く者に親しまれ、豊かな実りをもたらしますが、兄の劉エン(糸ヘンに寅)は弟をこき使うばかりでした。叔父は、なんとかして劉秀の身が立つようにと、留学と官位の途を探ります。そこへ、新野の豪族の陰氏より招かれ、なぜ自分が?と不思議に思います。

実は、陰氏の子供たちは、息子は侯に、娘は皇后になるという予言を得ていたのでした。母は娘に、ひそかに将来の夫を選ばせますが、娘・陰麗華は劉秀を指差します。常安への留学から帰る際には、ぜひもう一度立ち寄ってほしいという招きを、劉秀は不思議に思いながらも受諾します。

常安での留学生活は、経済的には決して豊かとは言えませんが、多くの知己を得て、充実したものと言ってよいでしょう。はじめて家を離れ、学生生活を送った自分自身の若い時代を思い出し、感慨深いものがあります。

留学後に叔父の家を出ることを勝手に決め、さらにキュウ(イに及)を従者にと願ったために叔父の不興を買い、経済的援助を得られなくなりますが、陰氏の息子・陰識の家庭教師をしたり、友人と宅配業を始めたり、さらには薬を作って売るなどして稼ぎ、なんとか学業をやり通します。このあたりは立派です。

劉氏の宗家である劉祉のもとで田畑と家を借り、農業に精を出している頃、中央政府から唐突に宗家に命じられた無理な納税額を、およそ九分の一に減額する段取りをしますが、このときには学生時代の宅配業の人脈が力を発揮しました。宗家は破産を免れ、劉秀は声望を高めますが、中央政府の無茶苦茶はついに地方の反乱を呼び起こします。そしてその中には、兄の劉エンの姿もありました。いずれ連座し攻められるのであればと、劉秀も兄とともに決起します。



ふむふむ。経済的に自立した学生生活が送れればそれは理想的ですが、実験に追われる理系学生には無理な話です。アルバイトが面白くなり、ドロップアウトしていった同期生も少なくなかったようで、このあたり、実際にはなかなか難しいところでしょう。中巻は、劉秀らの苦難と激動の転戦編。

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小さな希望を見失わないことを喩えて

2013年05月16日 06時04分05秒 | -宮城谷昌光
インフルエンザ以来、再読が続いています。現在は、宮城谷昌光著『孟嘗君』(講談社文庫、全5巻)を読んでいるところです。第5巻、田文との間に生まれた赤子と離れ、しかも田嬰を仇としてきた過去を持つ洛芭は、田氏の嫡子としての田文に添って生きていくことはできません。深い哀しみに一人泣く洛芭に、白圭が諭す台詞:

「希望は星の光のように小さく遠いものです。星は月とちがい欠けたり消えたりはしない。希望をいだいた者は、つねに顔をあげ、暗く長い夜に、その光をみつづけることです。うつむいた者に、その光はけっしてみえない」

いい言葉です。作者は、かなり主観性の強い人のようですが、それにしても不遇の時代を経てきた人でなければ、こういう、ごく小さな希望を見失わないようにと励ます言葉は言えないものだろうと思います。

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宮城谷昌光『新三河物語(下)』を読む

2012年10月16日 06時05分00秒 | -宮城谷昌光
新潮文庫で、宮城谷昌光著『新三河物語(下)』を読みました。徳川家康の家臣団の中で、大久保一族が果たした役割と功績と、それに対してどのような結果が待っていたかが描かれます。

功績に対して恩賞が与えられるのは、普通に納得できますが、どうも家康の場合には、執念深いと言うか恨みを決して忘れないというか、あまり良い印象を受けません。肌合いの違いすぎる武将を組み合わせて差し向けるなどというのは、人を見る目がないか、戦略的に双方の潰し合いに持ち込もうという魂胆かと思ってしまいます。

大久保彦左衛門忠教(平助)は、松平家を中心とした三河武士の事績を書き綴り、これが『三河物語』となります。大御所や将軍も密かに読みますが、訂正は命じられません。許容範囲であったと言うべきか、それとも懐かしむ気持ちがまさったと言うべきか。

歴史は勝者が書くと言われますが、勝者の側にもいろいろあるもので、そう簡単に、一筋縄ではいかないものなのでしょう。なかなか複雑な読後感です。

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