電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

確定申告の季節

2006年01月31日 21時39分58秒 | 週末農業・定年農業
今日で一月が終わり、明日から二月。いよいよ確定申告の季節になる。以前は老父が公民館で納税相談をしていた。ところが、妙なことに気がついた。公民館で市役所の職員が出向いて行う納税相談は、基本的に標準課税である。標準課税というのは、
「収入は実際の収入を用い、支出は統計的な標準数値を用いる」
というものだ。これはおかしいと思った。
そもそも、収穫期間の短いサクランボなどの果樹農業は、高収入だが同じくらい高経費でもある。毎年高額の雇人経費を支払いながら、標準課税では家族労働の水田農業をモデルとした算定になっている。サクランボの高収入だけがクローズアップされ、雇人費などの高額人件費の負担は無視される仕組みなのだ。収入が実際の収入額を用いるのなら、支出も実際の支出額を用いるべきだろう。
老父を扶養することにしたある年、納税相談に私がいくことになり、どうしても納得できなければ、税務署に行ってくださいと言われた。税務署に行ったところ、標準課税でなく白色か青色申告にすればよいという。パソコンの表計算で確定申告書と同じフォーマットを作り、農協の資材購買実績をもとに各種経費を積算し、雇人費などの経費負担も計上したら、納税額が大幅に少なくなった。今までが払いすぎだったのだ。
老父も、計算をして申告書を作るのがたいへんで、今までおかしいとは思ってはいたが、毎年いわれるままに標準課税の税金を払ってきたのだという。この地域で、毎年毎年いったいどれだけの額の税金が、標準課税で納付されてきたのだろうか。
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老母の胃ガン手術終わる

2006年01月30日 20時29分20秒 | 健康
先に大腸ガンの手術を受けた老父に続き、こんどは老母に胃ガン発見。昼すこし前から手術室に入り、腹腔鏡補助下胃切除術を受けた。昔と違い、今は開腹切開の長さもごく短く、出血も最小限ですんだという。手術後に、執刀医から胃の切除部を見せてもらった。胃壁の内面に、百円玉くらいのひきつれたような痕があり、そこからうすく広がった形でガン組織が見える。胃を3分の1ほど残してビルロートII法により小腸(十二指腸?)と吻合したという。リンパ節の二箇所に腫脹が見られ、ガンに由来するものかどうか不明とのこと。これは病理検査の結果待ちだろう。
主治医の許可を得て、胃の切除部をデジタルカメラに収めてきた。ただし、あまりになまなましいので、本ブログに掲載することはしない。ガン組織の顔つきというのも妙な言い方だが、老父の大腸ガンとは顔つきがだいぶ違い、ひそかに表面に広がるタイプの油断のならないヤツ、という気がした。
老母の麻酔も醒めて、思ったほど大変ではなかった、との本人の感想。このあたりは、お産を経験している女性の強さだろうか。

なお、記述中にいくつかの専門用語が出てきますが、基本的に主治医の説明の受け売りであり、当方は医療関係者ではありません。むしろ、主治医の先生の説明がわかりやすく、よく理解でき、たいへん安心しました。ありがたいことです。
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「そこのマネヨーズ取って!」

2006年01月29日 20時54分03秒 | Weblog
どなたでも失敗談はお持ちだと思いますが、「そこのマネヨーズ取って!」と大声で言い間違えた方は少ないのでは?子どもの頃、ビルディングは「テッコンキンクリート」でできていたし、なぜ「ヘコリプター」はまっすぐ空を飛べるのか不思議でしかたがありませんでした。漫画で「しゃだんきがおりた」というセリフを、「しゃ、だんきがおりた」と読んで、どういう意味だろうとしばらく考え込んだ記憶もあります。今でも「斎藤」さんと「斎野」さんを間違えて大汗をかいたりします。
世の中には、こういう間違いを得意分野としているかたがたが多数おられるようです。鹿児島県が南半球だなどというのは序の口で、なんと、こんな世界地図プロジェクト(*)もあったのですね。「イタリア」の記述に思わず爆笑。他の地域に対する勘違いもウフフです。

(*):バカ世界地図プロジェクト

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除雪に精を出し筋肉痛に

2006年01月29日 17時45分54秒 | Weblog
昨日から二日連続の晴天、チャンス到来とばかりに除雪に精を出した。だいぶ積もっている車庫の雪おろしをする。鉄骨構造で1m20cmまでは耐えるはず、という業者の説明ではあったが、二月の湿った重い雪を前に、念のため雪おろしを敢行した次第。車庫とはいえ、車四台分のスペースとなると、かなりの作業量になる。スコップとスノーダンプでどかどかと雪をおろし、びっしょり大汗をかいた。久方ぶりの肉体労働、夏場の散歩など問題にならない位の運動量だ。おかげで気分は壮快だが、腕も足腰も筋肉痛(^_^;)

昼食後、NHKの地方局制作番組を見る。今日は山形県村山市のゆざ温泉そば屋「あいかも会館」(*)の紹介だった。私も夏場に一度利用したことがあるが、冷たい鴨そばがおいしかった記憶がある。だが、温泉に宿泊できることは知らなかった。二年前に58歳でご主人が急逝し、美人の奥さんは気力をなくしてしまい、店をやめようかと考えたという。だが、板前修行に出ていた長男夫婦が、自分達もがんばるから父親の仕事を続けてほしいと言ったとか。結局、近所の農家の応援を得て地元の食材を生かした新メニューを加えた話だった。うわ~、食べてみたい!

(*):いかにも最近HPを手作りしました風な「あいかも会館」WEB
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ベートーヴェンの「悲愴」ソナタを聞く

2006年01月28日 18時04分56秒 | -独奏曲
若い時代のベートーヴェンの作品は、魅力的だ。ボンからウィーンに出てきたころの1798年の作品、ピアノ・ソナタ第8番「悲愴」作品18は、ずっと以前から好きな曲だった。

まだ若いころ、音楽を学んでいるある娘さんが、この曲を弾いてくれたことがある。御両親も一緒だったが、ボロボロになりながらも、いっしょうけんめい弾いている姿がとてもかわいらしかった。彼女のおかあさんが、いつもはちゃんと弾けるのに、ずいぶんあがっちゃって、とからかっていた。私もこの曲が大好きだと話題にしたことを覚えているが、若いベートーヴェンの音楽には、そんなほのかな甘さや香りを持つ一面がある。当時のウィーンの貴族や市民階級の聴衆たちが愛したのは、輝かしい変奏や名技性だけではないだろう。たぶん、若いベートーヴェンの音楽の持つ、ストレートに心に訴えてくる魅力を愛したのではないか。

「悲愴」ソナタ、LPの時代はアルフレート・ブレンデルのしみじみとした演奏による廉価盤(コロムビア MS-1052)でずいぶん長く楽しんだ。CDの時代には、児島新校訂版によるブルーノ・レオナルド・ゲルバーの深い演奏(DENON 33CO-2203)で、これまたずいぶん長く楽しんでいる。最近は、ブックオフの全集分売もののCDから、ディーター・ツェヒリンの演奏(デンオン MyClassic Gallerryシリーズ GES-9250)でも聞いている。

第1楽章、グラーヴェ、深く重々しい前奏から始まる。高みから一気に駆け下りるような下降のあと、アレグロ・ディ・モルト・エ・コン・ブリオの、情熱を噴出させる音楽となる。繰り返しの後、再びグラーヴェの深い響きに戻り、ピアニシモからアレグロ・ディ・モルト・エ・コン・ブリオに変わり、終わる。
第2楽章、アダージォ・カンタービレ。晩年の第31番のソナタのような深さはまだないが、実に美しいベートーヴェンのアダージョ。心をこめてこんな音楽を演奏してもらった女性たちは、きっと若いベートーヴェンにぽーっとなったことだろう。
第3楽章、ロンド、アレグレット。ここでも、若いベートーヴェンの甘い歌とスピード感のある技巧性とが共存して、華麗なロンド・フィナーレとなっている。

その後、くだんの娘さんは音大に進み、私は専属の録音技師のように、休日に行われる主要な発表会の生録音を依頼された。プッチーニやヴェルディなどのイタリア・オペラに開眼したのは、このときの経験によるところが大きい。残念ながら、悲しい事情によりほろ苦い記憶に変わってしまい、今ではすっかり色あせてしまったけれど、「悲愴」ソナタを聞くとき、あの日の一途でひたむきな演奏を思い出すことがある。たぶん、それもまた人生の一コマなのだろう。

参考までに、演奏データを示す。
■アルフレート・ブレンデル(Pf)
I+II=14'50" III=4'01" total=18'51"
■ブルーノ・レオナルド・ゲルバー(Pf)
I=8'42" II=5'18" III=4'20" total=18'20"
■ディーター・ツェヒリン(Pf)
I=8'30" II=5'10" III=4'00" total=17'40"
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気になる。『大いなる遺産』の続きが。

2006年01月27日 21時00分01秒 | -外国文学
先に上巻を読了して、その読後感の苦しさに、なかなか下巻を手に取れない今日この頃。だがなんとも気になる。読みたいと強く思うわけではないのに、なぜか気になる。チャールズ・ディケンズ著『大いなる遺産』。この連休には、除雪の合間に読めるかな。ウンウン苦しみながら読む本も、印象に残りやすいのかもしれない。これが文豪の呪縛力か。
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老母、早期胃ガンと判明

2006年01月26日 22時18分19秒 | 健康
先に大腸ガンで入院手術した老父の回復は順調で、全く健康になったようだ。めでたいことである。しかし、夫婦の片方がガンになると、もう片方もガンになるケースが多いことから、老母にも検診を受診することを勧めた。念のために半信半疑で受診してみたら、見事的中。早期胃ガンと判明。老父と同じ主治医にお世話になることになった。結局、今月末に腹腔鏡補助による幽門側胃切除の手術を予定。大腸、肝臓、肺などに画像上でみる限り転移はないとのこと。腎・心肺機能も正常。手術に耐えられる状態のようだ。

なぜ夫婦の片方がガンになるともう片方もガンになるのか、理屈はわからないが、身近にそういう例が多いことから、何らかの合理的な原因があるものと考えている。遺伝的な要因も無視できないだろうが、ガン家系と非ガン家系の夫婦の場合も同様であることから、後天的な要因だろう。アデノウィルスやヘルペスウィルスのようなありふれたウィルスが、ガン遺伝子のキャリアになっている可能性もあるかもしれない。細菌のようないわゆる感染ではないが、長期間同一生活を続けていると、見かけ上感染に類似した現象が起こってしまうのかもしれないと思う。
その意味では、息子である私もまた可能性があり、妻も同様であろう。折を見て受診する必要を感じている。
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サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタを聞く

2006年01月25日 21時14分40秒 | -室内楽
音楽CDを一度にたくさん購入すると、どうしても聞かないCDができてしまう。ちょうど本を積ん読するように、そのうちじっくり聴こうと思っているのだけれど、なかなか手が出ないうちに興味が別のものに移ってしまったりするからだ。
今日は、そんなCDの中から、サン=サーンスのヴァイオリン・ソナタの第1番を聴いた。出だしから、とても新鮮な音楽だ。こんな素敵なCDをあまり聴かずにおいたなんて、もったいない!まして、美音のヴァイオリニスト、ジャン=ジャック・カントロフ(Vn)、ジャック・ルヴィエ(Pf)のコンビによるデンオン盤(COCO-70550)、1991年にオランダのライデンでデジタル録音されたものだ。
1883年に作曲されたこの曲、第1楽章と第2楽章からなり、それぞれが二つの部分に分かれている。だから、全体として4つの楽章からなる曲のようにもとらえることができる。カッコ内はカントロフ盤の演奏時間表記。
第1楽章の第1部、アレグロ・アジタート、ニ短調。不安げに始まるヴァイオリンの調べ。ピアノが分散和音を奏でる中で、フランス近代音楽らしい清新な旋律をヴァイオリンが歌う。(6'49")
同じく第2部、変ホ長調のピアノとヴァイオリンによる夢見るようなアダージョ。やわらかく優しい音楽だ。(5'01")
第2楽章の第1部、アレグレット・モデラート、ト短調。軽やかなパッセージが続き、なかなかしゃれた雰囲気の音楽だ。(3'45")
同第2部、アレグロ・モルト、ニ長調。後半には第1楽章前半の第2主題が再現され、ああそうそう、この主題だったなぁ、と思い出させるしくみ。(5'48")
なお、ネット上にあるいくつかのサン=サーンス作品表では、このヴァイオリン・ソナタを3楽章と表記している。なにか特別な根拠があるのかどうかは不明だが、誤りの孫引きの可能性もあるので、2楽章の4部制ととらえておくことにする。

本CDには、同じサン=サーンスの第2番のヴァイオリン・ソナタと、ラロ及びプーランクのヴァイオリン・ソナタが併録されており、なかなかしゃれた近代フランス・ヴァイオリン音楽集となっている。写真も、無粋な東北の雪景色ではなく、しゃれた緑をあしらった窓辺を。たしか、伊丹空港かどこかで撮影したもののはず。
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少しずつ日が長くなっている

2006年01月24日 22時16分09秒 | Weblog
通勤時に、日が長くなったことを感じる。いつもは、まだ暗い内に早朝出勤しているので、車のライトをつけて走っているが、途中日の出により明るくなると消灯する。その消灯時刻がどんどん早まっているのだ。
今日も、モーツァルトのヴァイオリン協奏曲第4番のCDを聞きながら、途中の交差点でライトを消した。まだまだ雪が降り、気温は低く、道路は凍結するが、確実に日が長くなっている。冬の真っ盛りにも、春の要素が忍び込んでいる。
雪国の皆さん、春はすぐそこまで来ています。もう少しの辛抱をいたしましょう(^_^)/
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携帯電話の電池は何日持つか

2006年01月23日 22時05分21秒 | Weblog
先週の日曜日、出張前にふだん使っているPHSを充電した。で、昨日電池マークが出たので、充電しておいた。結局、まるまる一週間持つことになる。今使っているPHSは、メーカーはPanasonic、DDIのH"で、2001年の1月に購入したもの。ちょうど満5年を経過したことになる。この間、内蔵充電池の交換もしていない。その割には、ずいぶん長持ちするなぁ、というのが正直な感想である。
電池が長持ちする理由は、次のようなものが考えられる。
(1)モノクロの小さな液晶画面で、もともと消費電力が少ない。
(2)夜11時に自動電源オフ、朝7時に自動電源ONにしているので、夜間電力消費がない。
(3)充電するときもタイマーで充電しているので、過充電がほとんどない。
家族が使っている新型の携帯電話は、どうやらたびたび充電する必要があるらしく、電池がなくてつながらないことがしばしばあるようだ。いざというときにつながらず、何のための携帯電話だかよくわからない。まるまる一週間、全く充電しなくとも使える携帯電話は、古くともそれだけで価値がある。さて、いつまで持つだろう。
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ひな人形を買う

2006年01月22日 21時47分59秒 | Weblog
昨年の夏、お嫁に行った娘に赤ちゃんが生まれた。したがって、この春は初節句になる。嫁の実家にあたる我が家では、初孫「ほにょリータ」のためにひな人形をプレゼントすることにした。娘夫婦は転勤族のため、あまりに大きなひな人形はいらないと言う。専門店でいろいろ探すうちに、気に入ったものを見付けることができた。
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フランクのチェロソナタを聞く

2006年01月22日 09時08分00秒 | -室内楽
このところ、フランクのチェロソナタを聞いています。フランクの作品一覧(*)を見ても、そんな曲はありません。これは、ピエール・フルニエ自身が編曲したもので、もともとはヴァイオリン・ソナタです。作曲者68歳、最晩年のヴァイオリン・ソナタは、携帯音楽CDプレーヤーで聞いても、たいへんに魅力的な音楽ですが、チェロで奏でられるのを自宅のステレオ装置で聞くと、これはまた素敵なチェロの音楽になりますね。

(*):セザール・フランク簡易作品表

ひそやかに始まる第1楽章、ピアノの序奏に続くチェロの音色がごく自然に感じられます。アレグレット・ベン・モデラート。
第2楽章、アレグロ。おさえられてはいるが、激しさを内包した音楽。第1楽章の主題が様々な形で現れる。ここではピアノがかなり主導的な役割を果たします。チェロの音色は雄弁になりがちだが、フルニエは過剰をいましめ抑制しているみたいで、細かい技巧的な部分も、まったく違和感なし。
第3楽章、レチタティーヴォ、ファンタジア・ベン・モデラート。ピアノの主題に応答するチェロの叙唱。チェロの深い響きが、なんとも幻想的な雰囲気を生む。
第4楽章、アレグレット・ポコ・モッソ。聞きなれた主題が次々に再登場、なるほど、それで循環形式というのね(少し違うけど、まぁいいか)。コーダもチェロの響きだと華麗さというより重厚な感じがする。この雰囲気はたいへんいいですねえ。

演奏は、ピエール・フルニエ(Vc)、ジャン・フォンダ(Pf)、1971年にミュンヘンでアナログ録音されたドイツ・グラモフォン原盤。聞きやすく好ましい録音です。ポリドールがユニバーサル・クラシックに統合されて、廉価盤で再発売されたもの(UCCG-9578)で、ショパンのチェロソナタが併録されています。

そういえば、先年亡くなった恩師もフルニエのファンだったなぁ。写真は恩師の葬儀が行われた教会にある小型のパイプオルガン(ドイツ製らしい)。フランクというとどうしてもオルガンを連想してしまうが、これも威圧的でない、好ましい響きでした。

■フルニエ(Vc)、フォンダ(Pf)盤
I=6'09" II=7'58" III=6'27" IV=5'48" total=26'22"
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RSSリーダのこと

2006年01月21日 17時20分26秒 | コンピュータ
今日の朝日新聞土曜版beに、RSSのことが記事になっていた。実は、朝日新聞の読者でない人でも、アサヒコムで読むことができる。
てくの生活入門--最近話題のRSSって何だ
これによれば、RSSとは
(1)記事見出しや更新時間などを集約した情報
(2)ニュースやブログの最新の記事をキャッチ
(3)RSSリーダーで一括まとめ読みも可能に
なるものだそうで、ニュースやブログの記事を直接読みに行かなくとも、更新された記事のうち興味を引かれたものだけを拾い読みすることが可能になる。
もともと、RSS とは、Rich Site Summary の略称であり、サイトの要約や更新日時などを表す情報である。それを定期的に収集することで、更新情報を把握することができる。ブックマークや「お気に入り」などは、そのマシンにしか保存されず、複数のPCで同期させるのは面倒だ。すこし前からGooブログのWEB版RSSリーダを使っているが、異なる場所の異なるパソコンからでも、同じサイトを定期巡回するのに便利なことは確かだ。
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宮部みゆき『霊験お初捕物控(二)・天狗風』を読む

2006年01月20日 22時21分02秒 | 読書
出張に持参した宮部みゆきの文庫本『霊験お初捕物控(二)・天狗風』、けっこう速いスピードで読了。日中は歩き回っても朝晩は他に予定もないし、CDで音楽を聞きながらひたすら文庫本を読みまくった。
第1章「かどわかし」、真紅の朝焼けの後に、強風がふき下駄屋の娘がいなくなる。番所では神隠しの線よりも父親の殺害説が強くなり、父親が自殺する。だが、本当に神隠しではないのか。南町奉行・根岸肥前守鎮衛は、夜桜見物にことよせ呼び出したお初と右京之介に探索を命じる。
第2章「消える人びと」、下駄屋の職人2人は奉行所に引っ張られたという。天井からお初に近づくなと警告する声がしたり、「助けて」というおあきの朱文字が浮かんだり、首なし猫の死骸が落ちてきたり、怪奇なことが連続する。真紅の朝焼けの中、強風が吹き、今度は八百屋の長野屋の娘が消えた。便乗して千両箱をゆすり取ろうとした悪党は、一見観音様の姿をした天狗すなわち女の悪霊に首を取られてしまう。なんだか妙な虎ネコも登場、これがなんとも生意気なネコだ。
第3章「お初と鉄」、このネコの名が鉄。お初は鉄の話すことがわかる。鉄は天狗を不倶戴天の敵とみなしている。鉄の働きで、下駄屋の職人たちは浅井屋の蔵に閉じ込められていることがわかり、二人を救い出すことに成功するが、口の悪い生意気な鉄も相当の化け猫だ。源庵先生の見立てで、下駄職人の一人は阿片中毒と判明、どうも浅井屋と因縁があるらしい。
第4章「武家娘」、浅井屋の周辺を探索するうちに吹き矢で襲撃されたり、なにかと怪しい。また、しのと呼ばれる武家娘が持つ、亡くなった叔母の小袖にこめられた執念が、悪霊となっていることがわかる。鉄と和尚と呼ばれる年寄りネコが根岸肥前守鎮衛に会って、お初は知恵と勇気をもらい悪霊と対決、大活劇ののちめでたく大団円となる。

「わたし、きれい?」というのは、昔はやった口裂け女の台詞だったはず。この観音様の姿をした天狗という名の悪霊、やることなすことかなりダイナミックな妖怪だ。これと対決するのだから、お初も相当に気の強いスーパー娘さんだね。鉄というネコのため口が笑える。
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ディケンズ『大いなる遺産(上)』を読む

2006年01月19日 20時37分56秒 | -外国文学
関西出張に際し、持参した文庫本から、チャールズ・ディケンズ著『大いなる遺産』の上巻を読んだ。Wikipediaによれば、1860年~61年というから、ディケンズ49歳頃の作品。若い時代の作品とは異なり、後期の作風は戯画化された人間性の描き方に辛らつさが加わり、読むのが辛く苦しくなって思わず投げ出したくなる。たぶん、殺風景なビジネスホテルのベッドの上だったからだろう、なんとか読み終えることができた。

主人公ピップは、英国の貧しい沼沢地にある、姉の嫁ぎ先である貧しい鍛冶屋のジョーの家で、姉夫婦の手により育てられていた。ピップには、幼い少年時代に、逃亡した囚人に脅され、家から食料とやすり盗み、それを渡したという秘密があった。囚人は捕まるがピップの秘密は露見せずにすんだ。
成長し幼い秘密の記憶も薄れた頃、ピップは町の俗物バンブルチュク叔父の紹介で、過去の恋愛の記憶から復讐を誓った偏屈な老女ミス・ハヴィシャム家に出入りするようになり、愛するものを裏切り絶望させるよう入念に育てられた美少女エステラに出会う。エステラこそ、ミス・ハヴィシャムが自分の代わりに男や恋愛に復讐するための武器だった。だが、人生経験の浅いピップには、お金持ちの家の見かけの洗練や豊かさは見えても、ジョーの信念や誠実さ、ビディの優しさなどの価値は見えない。

「あんたが紳士になりたいってのは、そのひとを見かえしてやるためなの、それともそのひとを自分のものにするためなの?」ビディはちょっと黙っていてから、こうたずねた。
「ぼくにはわからないんだ」と、わたしはふさぎこんでいった。
「というのはね、もしそのひとを見かえしてやるためだったら」と、ビディはつづけた、「そのひとのいうことなんか、ちっとも気にかけないでいるほうが、もっといい、もっと独立的なやりかただと、わたし思うの----でも、あんたがいちばんよくごぞんじよ。それから、もしそのひとを自分のものにするためだったら、----あたし、そのひとは、自分のものにする値打のないひとだと思うの----でも、あんたがいちばんごぞんじよ」(新潮文庫版、山西英一訳)

こういう助言の価値は、経験をへて初めてわかるものだろう。
さて、奇妙な条件がついてはいるものの、ピップには突然大きな遺産が入ることになる。若者の好奇心と独立心は、村を出て紳士になり、エステラと結婚することを夢見て、この条件を受諾させることとなる。ロンドンの生活も、後見人となったジャガーズ氏の冷酷さや、現実と関わらないことが貴族的だと育てられた妻と結婚したポケット氏の無力な怒りや、単に上品であるにすぎない浮草のようなハーバートなどとの関わりの中で、金遣いだけが荒くなるだけだった。
そして、ミス・ハヴィシャムの招きで村に帰ることになったとき、ジョーとビディの待つ家に戻らず青猪亭に泊まり、ミス・ハヴィシャムの屋敷に行く。私には優しさがないのよ、と警告するエステラの美貌に、ピップはただ憧れるだけだった。

さて、下巻に取りかかるのが、いささか気が重い。たしか、むかし若い時分に読んだときも、後味はずいぶん悪かったように思う。ピップの破滅に幼い頃の恐怖がどう関わってくるのか、細部の記憶は残っていない。新規に読むのとほとんど同じ状態であり、作者の意図は残念ながらまだつかめていない。
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