電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

秋空の下で梨の収穫

2007年09月30日 05時19分25秒 | 週末農業・定年農業
涼しくなりました。昨日の午前中は、翌日の披露宴出席に備えて床屋さんに行き、その後は秋空の下で梨の収穫作業をしました。9月はじめの台風9号のためにだいぶ落果被害があり、収量はだいぶ少なくなりましたが、幸水と豊水の二種類を収穫。陽射しは強いですが風が涼しく、作業は楽です。腰に収穫用の篭を下げ、首からは携帯CDプレーヤーをぶら下げて、ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタを聴きながら、楽しく作業をしました。聴いていたCDは、先頃購入していたヨセフ・スーク(Vn)とヤン・パネンカ(Pf)による全集(DENON COCQ-83953-56)から、第4番~第6番です。スプリング・ソナタを含むこのCDは、最近の私のお気に入りです。



収穫は、いったんコンテナに集めます。これを一輪車で作業小屋に運び、箱づめをします。



ごらんのとおり、丸々と大きくなって、袋も破けています。



梨の出来具合は良好で、防鳥ネットのおかげで野鳥の食害も少ないようです。脚立をあちこちに移動しながら、ポケット型デジタルカメラで撮影もしましたが、プロの生産農家なら、何をやってるんだと叱られそうな作業ペースでしょう。でも、それでいいのです。果樹の収穫で生活しているわけではありませんし、気楽なものです。もっとも、だから週末農業は楽しいのかもしれません。
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J.S.バッハのカンタータ第156番から「アリオーソ」を聴く

2007年09月29日 07時08分56秒 | -室内楽
ここ数日、通勤の音楽として、バッハの「トッカータとフーガ」等を収録した、「バロック名曲集2」というCDを聴いておりました。これは、DENONのMyClassicGalleryというシリーズの某中古書店分売もの(GES-9207)で、様々な演奏を集めた、いわば寄せ集め盤です。ただし、こうした企画ものは、選曲によって、今まで知らなかった音楽に触れる、導入の役割を果たすこともあります。

実際、このCDで、J.S.バッハのカンタータ第156番より「アリオーソ」という曲を、小品の形で知りました。ヤーノシュ・シュタルケルのチェロ、岩崎淑のピアノによる二重奏で流れ出した音楽を聴いて、思わず聴き惚れました。ああ、バッハの音楽!そして、シュタルケルの演奏!シュタルケルのバッハは、「チェロとチェンバロのためのソナタ全集(全3曲)BWV1027-9」(*)等を聴いておりますが、このオリジナルのCDはどんな曲を集めたものなのでしょう。大いに興味があります。

本CDの曲目は、
(1) J.S.バッハ トッカータとフーガ ニ短調 BWV565
(2) J.S.バッハ 目覚めよと呼ぶ声が聞こえ BWV645
(3) エイク 涙のパヴァーヌ
(4) ヘンデル 「セルセ」よりラルゴ「オンブラ・マイフ」
(5) ヘンデル 調子のよい鍛冶屋
(6) ラモー タンブーラン
(7) ダカン かっこう
(8) ヴィヴァルディ ピッコロ協奏曲ハ長調 F.VI-4 ラルゴ
(9) J.S.バッハ フルートソナタ変ホ長調BWV1031 シチリアーノ
(10) J.S.バッハ イタリア協奏曲ヘ長調BWV971 アンダンテ
(11) ヘンデル ヴァイオリン・ソナタ第1番イ長調 Op.1-3
(12) J.S.バッハ カンタータ第156番 アリオーソ
(13) テレマン 「忠実な音楽の師」より冬/パストラール/ポロネーズ
(14) J.S.バッハ 小フーガ ト短調BWV578
(15) J.S.バッハ 主よ、人の望みの喜びよ BWV147

その他にも、スークの演奏したヘンデルのヴァイオリン・ソナタ(*2)はいいなぁと思いますし、ヴィヴァルディのピッコロ協奏曲などというのも面白いと思いました。オムニバス盤を聴くと、収録されたもとの演奏全体を聴きたくなってしまいます。とりあえず、シュタルケルのチェロをもう一度聴きましょう。

(*) : J.S.バッハ「チェロとチェンバロのためのソナタ」~電網郊外散歩道
(*2):スークとルージイッチコヴァの演奏でヘンデルのヴァイオリン・ソナタ集を聴く~電網郊外散歩道
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ネコの季節

2007年09月28日 05時45分45秒 | アホ猫やんちゃ猫
毛皮を脱ぐことができないネコ族にとって、暑い夏は、じっと忍耐の日々でした。最近の涼しさのおかげで、わが家のネコたちは、生き返ったように活発に活動しています。心なしか、目に野性の光(!?)が戻って来たようです。

朝っぱらから変な鳴き声がすると思ったら、アホ猫が獲物をくわえてご帰還あそばしたところでした。家に入れたら一騒動ですので、外で一応ほめてやると、ネコ殿、満足そうに顔を洗って、ゆうゆうとしております。


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藤沢周平『愛憎の檻・獄医立花登手控え(3)』を読む

2007年09月27日 05時15分29秒 | -藤沢周平
講談社文庫で、藤沢周平『愛憎の檻・獄医立花登手控え(3)』を読みました。この巻も新装版で、文字のポイントが大きく読みやすいです。



「秋風の女」、女牢の新入りであるおきぬは、牢の下男の佐七を手なずけ、牢名主のおたつのひんしゅくを買っている。まだ若い佐七は、年増でやり手のおきぬを可哀想な女と信じ込み、頼まれた秘密の使いを果たすが、それは大きな危険を伴っていた。
「白い骨」、家を飛び出し、好き放題に暮らした男が、牢を出て古女房のところに戻ることになった。だが、男の面子からも、手っ取り早く金を手にして暮らしを楽にしたいと、危険な仕事に手を出す。古女房に抱かれた骨箱の中で、勝手な男がゆっくり休んでいるようだ。
「みな殺し」、牢内で芳平が死んだ。だが、牢名主さえ顔をそむけ、真実を語ろうとしない。牢名主もおびえるほどの極悪が牢内にいたということだ。ご赦免になった者の中で、むささびの七と異名を取る悪党は誰か。推理ドラマの要素もあり、緊迫感が快い。
「片割れ」、人は見た目が9割ではない。登もあやうく誤解した。この巻では珍しく、おちえの出番がある。
「奈落のおあき」、以前、おちえの遊び仲間だったおあきが、伊勢蔵という男の情婦になっているらしい。牢内で頼まれた嘉吉の子どもは、生命の危険があった。叔父とともにようやく子どもの命を救う展開は、医者らしい、いい場面だ。子どもを救ってもらった嘉吉は、礼として、黒雲の銀次の手下が牢内にいると密告するが、その夜に口を封じられてしまう。おあきを尾行した登らは、黒雲の銀次の一味を捕らえるが、おあきは奈落の底でうちひしがれている。かつて一緒に遊んだおちえとの対比が無情。
「影法師」、おちせは、母親を殺したのは加賀屋だと思っていた。だが、牢内に届け物をしてきたのは、加賀屋だけではなかった。小さな親切・大きな下心。



わがままな一人娘に変わりはありませんが、すっかり身持ちが良くなったおちえと、ライバルだったおあきとの対比が哀れです。現実にも、子どもの同級生等の可哀想な運命を聞いたりするにつけても、境遇や人との出会いの怖さとありがたさを感じます。叔父の小牧玄庵は酒毒に冒された俗物ですが、医師としての職業的倫理は好感を持って描かれています。医者が偉いのではない、医術が尊いのだ、という立場でしょうか。

写真は、ジョロウグモです。産卵するメスは強い。役目を終えたオスは、すでにひからびています。
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軽妙な文章が面白い、「大学教授のぶっちゃけ話」

2007年09月26日 05時18分16秒 | Weblog
先日、シャープとパイオニアが、技術提携と資本提携を発表しました。このことで、世の中は、プラズマディスプレイが思うようにいかないパイオニアが液晶テレビがほしくてシャープと組んだ、ということになっているようです。が、経営上問題はないように思える東北パイオニアがなぜ本社の子会社になったのかを考えると、有機ELをめぐる業界先読み、特にシャープ側のメリットが興味深い。

で、検索してみました。そしたら、ミスター有機EL、山大工学部の城戸淳二センセイ(*1,*2)のブログ(*3)を見つけてしまいました。軽妙な文章が、なんとも面白い。このセンセイ、話も漫才みたいに面白いけれど、文章もやっぱり関西系です。9月23日の「父子家庭」という記事など、思わず爆笑です。

あのアマ、しゃべりやがった。

これじゃあ、探偵に尾行されてる嫁ハンに逃げられたさえない中年男、みたいじゃないか。

嗚呼。

なんて、ふつう「偉い大学教授のセンセイ」は書かないと思われてるでしょ(^o^)/
でも、コメントもトラックバックも、最初から受け付けない設定になっています。さすがに筋金入りです。

(*1):城戸淳二センセイとはこんな方です。
(*2):城戸研究室のホームページ。「城戸の独り言」が痛快。
(*3):「大学教授のぶっちゃけ話~笑ってゆるして」

ビル・ゲーツが結婚したとき、ライバル社のCEOは、これでマ社の勢いが少しは低下するのじゃないかと期待したとか。有機ELをめぐるライバルの方々は、ミスター城戸がブログ三昧にうつつを抜かすのを、ひそかに期待しているのかもしれません(^o^)/

写真は、わが家のリンゴです。9月のリンゴ「つがる」はおしまい。これから10月のリンゴ「紅将軍」の時期に入ります。
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チャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」を聴く

2007年09月25日 05時57分44秒 | -オーケストラ
チャイコフスキーの交響曲第6番は、実はずっと苦手な曲でした。「悲愴」などという暗~いタイトルも、終楽章の陰々滅々たる終わり方も、やっぱりチャイコフスキーの交響曲は、第4番のほうがいいなぁと思っておりました。特に長い第1楽章をつかまえそこなって、この曲のLPはついに購入しませんでしたし、CDも某中古書店で購入した250円のものや、例のロイヤル・フィル300円シリーズなどを、一応持っているという程度。われながら、いかにも扱いが冷たいです(^_^;)>poripori

ところが!

先ごろ、車の常備CDの入れ替えをしまして、その中に、何気なくチャイコフスキーの交響曲第6番を入れておいたのです。たまたま、通勤の1週間、ずっとこの曲をエンドレスに聴いていたら、特に第1楽章の構造が(素人なりに)次第にわかってくるにつれて、けっこう面白い曲だなぁと思えるようになりました。

第1楽章、アダージョ~アレグロ・ノン・トロッポ~アンダンテ・モデラート・アッサイ~アレグロ・ヴィヴァーチェ~アンダンテ。なんとも長い指示ですが、これがこの楽章を知る手がかりでした。はじめに重苦しい序奏から弦とフルートに。次第にはやくなり、クラリネットとオーボエも。金管が加わりますが、だんだんゆっくりとなって全休止します。このあとのホルンと弦楽による再開は、甘く美しいものです。フルートとファゴットのメロディーがクラリネットとファゴットに移り、再び甘美な旋律を歌います。クラリネットの静かなソロが終わると、間髪を入れず激しく爆発するような暗い情熱の奔流に。速いテンポで緊迫感と迫力があります。ティンパニの連打の後に静かになり全休止。再び甘美な旋律が歌われ、クラリネットソロがまた登場します。弦のピツィカートにのって管が旋律を歌い、静かに終わります。全休止をうまく生かしていますね。
第2楽章、アレグロ・コン・グラツィア。この楽章は昔から好きでした。たいへん優美な音楽です。
第3楽章、アレグロ・モルト・ヴィヴァーチェ。スケルツォ風の行進曲とでも言えばよいのでしょうか。気分が昂揚するときと、場合によってはなんともドンチャカドンチャカと、前後の楽章との対比に違和感を感じるときとがあります。
第4楽章、フィナーレ:アダージョ・ラメントーソ。沈潜するような暗い暗い結末。これが標題の由来でしょうか。

ふだん聴いているのは、ウラジーミル・フェドセーエフ指揮モスクワ放送交響楽団の演奏する、The Best Collection of Classical Music というシリーズ分売もの(V CDMC-1032)と、ユーディ・メニューイン指揮ロイヤル・フィルハーモニックの演奏(FRP-1037)で、メニューイン盤は「スラブ行進曲」Op.31がフィルアップされております。特徴としては、第3楽章のリズムが、フェドセーエフ盤のほうが軽やかというか、シャープです。
演奏データは次のとおり。

■ウラジーミル・フェドセーエフ指揮モスクワ放送響
I=19'05" II=7'47" III=8'33" IV=10'54" total=46'19"
■ユーディ・メニューイン指揮ロイヤル・フィルハーモニック
I=18'05" II=7'16" III=8'42" IV=10'59" total=45'02"

実は、メニューイン盤の演奏データは、CDジャケットには IV=9'35" と表記されておりました。が、どう考えてもテンポにそれほどの違いは感じられない。おかしいな、とパソコンのCDプレイヤーで再生してみると、トラックの表記データが明らかに違います。9'35" という時間は、スラブ行進曲とぴったんこ同じです。たぶん、ジャケット作成時の校正ミスでしょう。

こんなことも、遠く離れたプレイヤーのかすかな液晶表示では気づきませんでした。音楽CDのタイム表示でパソコンの画面が頼りとは、全く妙な話です。オーディオ機器のデザインは、昔のほうがくっきりと明るく表示され、遠く離れていても、機器単独でトラック番号やタイム表示を見ることができたものです。いつのまにか、音さえ出ればいい、近付いて見えればいい、という具合になってしまったのでしょうか。昔のパイオニアのステレオ・レシーバ・アンプ、SXシリーズのような派手なデザインが懐かしく感じられます(^o^)/
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藤沢周平『風雪の檻・獄医立花登手控え(2)』を読む

2007年09月24日 06時01分13秒 | -藤沢周平
講談社文庫で、藤沢周平『風雪の檻・獄医立花登手控え(2)』を読みました。こちらは新装版ですので、文字のポイント数が大きいため、実に読みやすいです。
さて、この巻は、友人の新谷弥助が借金のかたに年増の悪女につかまっているのから身を引かせる経緯と、従妹のおちえが次第に登に思いを寄せるようになる話が軸になります。



「老賊」、老いて死病に冒された悪党が、娘を探してほしいと登に頼みます。ところが、探し当てた女は恐怖に転々と住処を変え、父はもう死んでこの世にいないといいます。
「幻の女」、流人船を待つ身の巳之吉が会いたがった女おこまは、女牢にいました。転落した二人の思いは交わりません。
「押し込み」、女のために押し込みを企んだ素人三人組のほかに、むささびの七という本職の強盗が狙っていました。牢内で、仲間にやめろと伝えてくれと依頼した男が、口を封じられそうになります。
「化粧する女」、与力が執念で牢問にかける房五郎は、頑として自白しません。ですが、その女房も相当の女狐でした。
「処刑の日」、無実を訴えても取り上げられず、諦念のため無気力となった助右衛門でしたが、おちえの話から一人の手代の姿が浮かび上がります。そして、まさに処刑のその日に真犯人がつかまりますが、助右衛門の出牢証文は出ず、処刑の時刻が来てしまいます。緊迫のやりとりです。



最後の「処刑の日」は、サスペンスものに通じる緊迫感と、ほっとする解放感、そして甘美な幕切れとを併せ持った、いいお話です。たとえばこんなふうに。

「あたしが教えたこと、役に立った?」
「役に立ったとも」
 登はお茶を飲み干すと、立って手拭いをさがした。
「手拭いなら机のそばよ」
「おちえが女のことを教えてくれたおかげで、人間の命ひとつが助かった」
「ごほうびをくれないの?」
「ほうび?」
 登はおちえの顔を見た。おちえは手を袖に入れて柱に寄りかかっている。登の胸にいたずらな気持ちが動いた。
「ほうびはこれだぞ」
 登はおちえの身体をすっぽり抱えると軽く口を吸った。きゃっと叫んで逃げるかと思ったら、おちえは動かなかった。目を閉じてじっとしている。登がはじめてみる、酒に酔ったような顔色になった。
「湯屋に行って来る」
 登はあわてふためいて身体をはなすと、玄関にむかった。外に出ると、登は闇の中に立ちどまって大きくひとつ息を吸い込んだ。胸の動悸が高くなっていた。これまでふれたことのない甘美なものにふれた感触が唇に残っている。
 登は頭を振った。それから下駄を鳴らして門を出た。

テレビドラマでは、たぶん人気の出る場面でしょう。昭和50年代、中井貴一と宮崎美子のコンビが、「立花登・青春手控え」という題の連続ドラマを演じ、人気を博しています。この場面でどんな演技を見せてくれたのか、残念ながら記憶にありませんが、全体に面白かったことだけはよく覚えています。
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藤沢周平『春秋の檻~獄医立花登手控え(1)』を読む

2007年09月23日 06時09分49秒 | -藤沢周平
藤沢周平『春秋の檻~獄医立花登手控え(1)』を読みました。講談社文庫の第1巻は、まだ新装版になる前で、小さな文字で読みにくいのですが、しばらくぶりの再読です。



立花登、羽後亀田藩出身。江戸で開業する、母の弟・小牧玄庵を頼ってやってきた。叔父は、酒に目がない、流行らない町医者であり、医術は時代遅れになりかけている。夫を尻に敷き、口やかましい叔母と、母親に似て美貌だが驕慢な従妹のおちえらのもとに居候をしている。登は、小伝馬町の牢医見習いをしながら、起倒流柔術の鴨井道場で、師範代の奥井と友人の新谷弥助とともに三羽烏と呼ばれている。

「雨上がり」、女のために罪を犯し、島送りになる男。だが、その女には情夫がいた。
「善人長屋」、無実を訴える年寄の罪名は殺人。娘のおみよは全盲で、長屋の人々の世話になっている。だが、おみよを訪ねた帰路、登は匕首を持った男に襲われた。
「女牢」、女牢の新入りであるおしのは、遊び人の亭主を出刃で殺した罪だという。三年前、江戸に出て間もない頃、登はおしのに会ったことがあると思い出す。その頃、亭主と別れたら、とは言えなかった。
「返り花」、勘定吟味下役が入牢し、その妻女が届けた餅菓子に毒が盛られていたという。後妻の登和は毒を盛ってはいなかったが、女心は不可解。やがて夫は無実が判明し、晴れて出牢するだろう。
「風の道」、従妹のおちえは、遊び仲間とほっつき歩いている。牢内で石屋の職人が殺され、残された妻にも危険が迫る。登の柔術が冴える。
「落葉降る」、手癖の悪い老いた父親がまた牢に入った。しっかり者でよく働く気丈な娘は、父親の留守中、帰り道で襲われる。真相を知った娘は出刃包丁を持ち出す騒ぎになる。出牢した老いた父親の孤独が哀しい。
「牢破り」、従妹のおちえがまた遊び呆けている。つきあっている若い男は新介といい、堅気ではないようだ。登は、おちえを人質にされ、牢破りに使う鋸を持ち込むように脅される。最後は大捕物となり、緊迫した幕切れだ。



遊び呆けるおちえは、当時高校生くらいだった娘の展子さんがモデルなのだとか。藤沢周平は、なぜ牢医を主人公に選んだのでしょう。登場人物の大半は囚人であり、悪党もいますが、やむを得ない事情で罪を犯した者も多く描かれます。だいぶ前に、この作品がNHKでドラマ化されたとき、なぜNHKは牢内に善人しかいないような描かれ方のドラマを放送するのか、という反響があったそうな。脚本にそんな傾向があったのかどうか、今となっては記憶が判然としませんが、原作自体が、単純に娯楽作品とは言い切れない、やや挑戦的な意気ごみを感じさせる作品であるように思います。
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モーツァルトのピアノ協奏曲第21番を聴く

2007年09月22日 09時21分29秒 | -協奏曲
昨晩の宴席は、ビールがうまかったし、楽しかった。今朝は、自室のステレオ装置でモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を聴きました。

モーツァルトのピアノ協奏曲の印象というと、「優しい」「きれい」「迫力がない」「眠くなる」等々、様々なことを言われます。どれも一面の真実を伝えている面があるように思います。眠くなるというのも、若い頃にそのように感じる時期もありました。(^_^;)>
ですが、今ならばまず「聴いて楽しい」「明快である」ことを第一に感じます。

第20番ニ短調と対になるこのピアノ協奏曲は、同じ1785年の作だそうです。実際には数ヵ月の時間差があったようですが、ニ短調のピアノ協奏曲と、このハ長調のピアノ協奏曲は、対にして作曲されたのかもしれないと思ってしまう、全体としては対照的な曲調です。でも、ところどころに、思わずはっとするような転調が隠されていて、陰翳を感じさせる音楽となっています。

第1楽章、アレグロ・マエストーソ。この曲の出だしにしては、ずいぶんと武骨な印象があります。モーツァルト、自作の演奏会で、巨匠風に見せたかったのかな。それとも、連続して演奏された場合の、ニ短調の協奏曲との対比効果をねらったのかも。独奏ピアノが入って来ると、ト短調交響曲の動機がちらっと出たりして、ごく自然な転調が美しい。
第2楽章、アンダンテ。映画のBGMに使われて、多くの人に親しまれている、転調の妙を尽くした音楽です。幸せなのですが、はかなさを感じさせ、若い恋人たちの映像によく合っていたのでしょう。(残念ながら、映画はまだ観たことがありません。)オーケストラの優美な響きを背景に、ピアノが甘美な旋律を奏でます。
第3楽章、アレグロ・ヴィヴァーチェ・アッサイ。一転して、軽快なテンポで鍵盤の上を駆け回るようなリズミカルな音楽です。

私の手元にあるCDは三種類。カサドシュ盤、アンダ盤、ヤンドー盤です。演奏の特徴は、アンダ盤がアンダ自作のカデンツァを用いていますが、カサドシュとヤンドーはカサドシュ作のカデンツァを用いていること、などでしょうか。むしろ、オーケストラの違いが際立つようです。特に、軽やかなリズムをさりげなく刻みながら、ふっと転調したり、弦楽が音色を微妙に変えたりする細やかさがありながら、さらに現代の大オーケストラの迫力を併せ持ったところが、セル指揮クリーヴランド管弦楽団のすごいところだと思います。1961年11月5日の録音。
ゲーザ・アンダ盤はピアニスト自身の弾き振りで、録音年代は不明。ヤンドー盤は1989年、ハンガリーのブダペストにおけるデジタル録音です。

■ロベール・カサドシュ(Pf)、ジョージ・セル指揮クリーヴランド管 (SONY 5033902)
I=14'15" II=7'45" III=6'11" total=28'11"
■ゲーザ・アンダ(Pf、指揮)ウィーン交響楽団 (DENON GES-9232)
I=14'10" II=7'12" III=6'29" total=27'51"
■イェネ・ヤンドー(Pf)、アンドラーシュ・リゲティ指揮コンツェントゥス・ハンガリクス (Naxos 8.550434)
I=13'26" II=6'43" III=6'11" total=27'20"
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目標と計画

2007年09月21日 04時45分53秒 | Weblog
もうだいぶ昔の話です。中学生のとき、社会科の授業で、ソ連(当時)の社会主義経済のことを習いました。教えてくれた先生は、アヒルというあだ名の男の先生で、計画を立てて生産するので無駄がない、と説明しました。すると、クラス一番の腕白坊主が、「オレは計画どおりいったためしがない。夏休みの計画も、立てても絶対そのとおりになったことがない!」と発言しました。クラス中どっと笑って、先生は困ったような顔で苦笑いしていました。印象的な一コマです。

ですが、今の年齢になって思うのです。優秀な誰かが机の上で立てた目標を目指し、優等生の誰かが立てた計画にしたがって生産する実態は、実は彼の言葉のとおりだったのではないか。そしてそれは、社会主義経済に限らないものなのかもしれません。誰かが決めた期限にしたがい、決められたスケジュールによって働く人々は、どこかでつじつまを合わせようと四苦八苦しながら、この腕白坊主の言葉にひどく共感したりするのではないでしょうか。まあ、いずれの社会でも、目標と計画には、そんなあやうさがつきまとうものなのかもしれません。



さて、最近の通勤の音楽は、もっぱらチャイコフスキーの交響曲第6番「悲愴」です。この曲、実はあまり得意ではありませんでした。ユーディ・メニューインの指揮、ロイヤル・フィルハーモニックの演奏。例の300円CDシリーズ中の1枚。また、自宅ではモーツァルトのピアノ協奏曲の続きで、第21番ハ長調K.467 を聴いております。

今晩は、宴席が予定されています。ちょいと楽しみです。
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火坂雅志『天地人』下巻を読む

2007年09月20日 05時47分57秒 | 読書
再来年の大河ドラマの原作、上杉藩の執政・直江兼続を描く、火坂雅志著『天地人』の下巻は、人質として送られた真田幸村が、直江兼続本人から出迎えられる場面から始まります。直江兼続が上杉謙信に私淑したように、軍事的才能に富む兼続の別の面、義と、それを支える利、という視点に目が開かれる真田幸村の若き日の姿が描かれます。

時代は豊臣秀吉と徳川家康を軸に動いて行きます。徳川家康に対抗していた上杉景勝は、天下を手中にした豊臣秀吉に味方することを誓います。秀吉は、上洛した景勝の家臣に過ぎない直江兼続を高く評価し、破格の待遇で迎えます。秀吉の能吏である石田三成は、直江兼続と語り、家康に対抗する戦略を練ります。

しかしながら、秀吉の朝鮮出兵はいかにも不始末。自ら蒔いた種とはいえ、豊臣家の衰退は目を覆うばかり。三成憎しという旧臣たちの離散も、これに輪をかけます。上杉は会津に転封となりますが、しぶしぶ秀吉に従った東北の独眼龍こと伊達政宗は、同様に上杉を恐れる最上義光とともに徳川方に味方し、上杉に対立します。関が原の前夜、徳川家康に対し、果敢に喧嘩腰の手紙をたたきつけた上杉は、討伐に向かった徳川軍を迎え撃つ態勢を整えていたのですが、家康は豊臣方が決起したことを知り、急遽軍を西に転じるのです。

このとき、上杉軍は徳川軍を追撃することができたのに、しなかった。これが、徳川の世をもたらすこととなる関が原での決戦を、家康が直接に指揮することができた最大の原因でしょう。

豊臣方で敗軍の将となった上杉景勝は、領地召し上げ・上杉藩は取りつぶしとなってもおかしくはなかったのですが、そこは直江兼続、硬軟取り混ぜたねばりづよい交渉で、ついに30万石に減じて上杉家存続を実現します。そして自分の領地になっていた米沢に、会津から主君である上杉景勝らを迎え入れるのです。すべての家臣を召し放たず、という決定と財政対策や、一気に拡大した米沢の町づくりなど、不満たらたらの藩士たちを抑えて、きわめてリアリスティックな形で奔走します。このあたりの政治的・行政的才能も、後の世の上杉鷹山が尊敬したという直江兼続の特質でしょう。

米沢市で見た米沢上杉藩の大きな墓石群は、それぞれ銃眼となることを想定した穴が開けられ、侵入者に対して正対するように建てられていました。たとえ不利益は甘受しても、義が通らないのであれば、徹底した軍事的対応も覚悟しているぞ、という意地の現れでしょうか。



さて、どこが「愛」なのか。どうも、現代人が考える「愛」ではなさそうです。
たぶん、まずは家臣と領民に対する仁愛、ということでしょう。
そして、時代の転換を見つめる目に、天下の平和を希求する仁愛があったとも言えるかもしれません。

古代中国の歴史上にも、孟嘗君や范雎、管仲など、多くの魅力的なナンバー2が描かれます。日本の大河ドラマも、いつまでも信長・秀吉・家康ではないのでしょう。宰相や補佐役が描かれる時代が来た、といってよいのでしょうか。直江兼続という知られざる武将を紹介する、娯楽性も大きな、たいへん読みやすい本だと思います。
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BS-2で「腕におぼえあり」を見る

2007年09月19日 06時00分29秒 | -藤沢周平
火曜日の19時45分から20時30分まで、BS-2で、藤沢周平の時代劇「腕におぼえあり」再放送を見ました。これは、『用心棒日月抄』(*)を原作としてドラマ化したもので、話には聞くものの、実際に見るのははじめてです。

今回は、原作で言えば「夜の老中」。老中の小笠原佐渡守が夜分ひそかにおしのびで出かける際の用心棒です。浅野と吉良の暗闘を背景に、あらわれた刺客は細谷が斬られて怪我をしたほどの腕前、青江又八郎は刺客を倒し、報酬を手にします。しかし、追加の仕事はあまり嬉しくない、浮気の護衛でした。浮気妻の亭主は意気地がないかもしれませんが、

「おそれながら……」
濠ばたまで来たとき、又八郎はうしろから声をかけた。
「少々、夜遊びが過ぎはいたしませんでしょうか」
「…………」
「今夜のことは、天下のご老中がなさることとは思えませぬ」

という又八郎の直言は正論です。そして、「いかにも、以後つつしもう」という佐渡守の言葉を信じ、女の一件は喋るまい、と心に決めるのです。

終わり近くに、細谷の妻女のけなげさにうたれて、せっかくの七両を細谷に見舞として提供してしまうのですね。細谷が酔っ払ったおかげで、吹き矢を使う藩からの刺客に気づき、ようやくこれを倒しますが、酔っ払い細谷は、のんきに古女房の自慢をする始末。来週は "ますぞう命" の「内儀の腕」だそうです。

(*):藤沢周平『用心棒日月抄』を読む~電網郊外散歩道
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火坂雅志『天地人』上巻を読む

2007年09月18日 05時57分04秒 | 読書
先日、上杉と直江兼続ゆかりの史跡を探訪した米沢市の旅館で、NHK出版から出ている火坂雅志著『天地人』の上巻を読みました。なんでも、再来年の大河ドラマの原作となっているのだとか。いつも流行に数歩遅れる私には珍しい先物買いです。というのも、藤沢周平の『密謀』を読み、童門冬二『直江兼続』を読み、米沢市民の同僚が上杉鷹山とともに尊敬する、直江兼続という武将に興味を持ったからでした。

鎧兜の頭部に愛という文字を入れた武将、というだけで惚れ込むほど単純ではないつもりです。核弾頭に愛という文字を入れることの愚かさを思うまでもなく、人を愛するならば戦をしないのが本当だとは思います。ですが、おそらく戦国武将の考える愛は、現代人の考える愛とは違うだろう。では、写真の墓所に見られるように、後世の人々にも長く尊敬された直江兼続という人は、どんな武将だったのか。作家はどんなふうに考えたのか。

物語は、若い兄弟が川中島の合戦の主戦場、妻女山をたずね、武田の領地である善光寺で足軽たちに追われる場面から始まります。兄は樋口与六兼続、弟は与七実頼、絶体絶命の窮地を救ったのは、禰津のノノウと呼ばれる女忍たちでした。このあたりの場面設定は、もちろん作家の創作です。しかし、いきなり色っぽい場面も設定し、読者を巧みに物語に引き込んで行きます。

今川義元が桶狭間で織田信長に敗れると、武田信玄は三国同盟を公然と破り、駿河領へ侵入します。危機感を持った北条氏康は、かつての敵である越後の上杉謙信と同盟を結びます。人質として越後に送られた氏康の七男の三郎は上杉謙信の養子となり、三郎景虎と名乗ります。

樋口与六兼続が仕えたのが、謙信の姉・仙桃院と長尾政景との間に生まれた、謙信にとっては甥にあたる、上杉喜平次景勝です。景勝は無口で、叔父の謙信の前でも滅多に喋りません。兼続はその才能と人柄が謙信に気に入られ、謙信に私淑するようになります。三郎景虎と喜平次景勝との間に対立が生じたとき、望んだわけではありませんでしたが、兼続は争いの当事者となってしまい、蟄居謹慎を命じられます。謹慎中に亡くなった母の弔問に来た直江大和守景綱の娘・船と再会しますが、お船は上野の直江家から不釣合な婿養子を迎え、既婚者となっていました。帰路、お船の一行を見送る兼続らは、雪崩に巻き込まれます。このあたりの運命的な場面は、映像的にもドラマティックになることでしょう。

さて、謙信が跡継ぎを指名せずに急死したために、対立は表面化し、御館の乱が起こります。ここから、直江兼続の才能が、鮮烈に光りを放ちはじめます。

この上巻では、信長、光秀、秀吉、石田三成、徳川家康、真田幸村などの有名どころが顔をそろえ、歴史の転換点が、上杉の視点から描かれます。藤沢周平の『密謀』のような、ストイックな緻密さのかわりに、娯楽的な要素をふんだんにとり入れた、なかなか面白い本です。大河ドラマの原作としては、適している作品でしょう。

写真は、米沢市・林泉寺に今も残る、直江兼続夫妻の墓所です。墓石に三つの穴があるのは、いざ戦闘となったときに、銃眼となることを考えて作られたのだとか。うーむ、直江兼続、おそるべし。
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バラ園と弦楽四重奏

2007年09月17日 07時44分29秒 | -室内楽
16日の日曜日、村山市の東沢公園内にあるバラ公園に行きました。少しだけ、パラパラと小雨が降りましたが、すぐやんで、たいへん良いお天気に。入園料を払ってバラ園に入ると、写真のようにたくさんの花が咲き、バラの香りが快い。





写真奥のログハウスで、山形弦楽四重奏団の演奏会が開かれました。



曲目は、前半がモーツァルトのディヴェルティメントなどクラシックの音楽を、後半は宮崎駿監督のアニメ・メドレーとジャズ等のスタンダード・ナンバーという、お洒落なプログラムです。
モーツァルトでは中島さんが第1ヴァイオリンをつとめましたが、その他は駒込綾さんが第1ヴァイオリンをつとめ、中島さんは第2ヴァイオリンに。いい席を確保したので、駒込さんのトークもよく聞こえます。宮崎アニメの音楽を書いている久石讓さんは、クインシー・ジョーンズを尊敬し、こういう筆名を使っているのだとか。思わず「へぇ~」です。
「天空の城ラピュタ」から「君を乗せて」、「となりのトトロ」から「風の通り道」と無事に進んできましたが、「魔女の宅急便」だったか「ハウルの動く城」だったかで、ヴィオラの倉田さんの楽譜が譜面立てからぽとり。文字通り「風の通り道」だったのでしょう(^_^)/
でも、なんとか曲を終えて、中島さんに手で合図。「やー、ごめん、ごめん」といった感じかな。

スタンダード・ナンバーでは、"Fly me to the moon" でチェロをベースに見立て、弓のかわりに終始指で弦をはじいた茂木さん、指が痛くなったのでは。そして大好きな "Over the Rainbow" では、思わずマイクを持って歌い出したくなりましたし、ボサノバの "イパネマの娘" も大いに楽しみました。

「バラが咲いた」は、こんなシンプルな曲が、カルテットで演奏すると、いいものですね。「百万本のバラ」は、スケール感と迫力を感じました。これは、ぜひもう一度聴いてみたいものです。



アンコールの「小さい秋見つけた」までおよそ一時間。小さい子どもがむずがって、途中退席せざるを得なかった若いお母さん、だいじょうぶ。せいぜい数年の辛抱ですよ。子どもはすぐに大きくなり、一緒にコンサートを楽しめるようになります。そのときに、また同じ弦楽四重奏団の演奏を聴くことができたら、幸せですね。

演奏が終わって、ログハウスでバラのソフトクリームを食べました。写真を撮るのを忘れて、一口食べてしまってからになってしまいました。



こちらは、つるバラの門に咲いた、小さなバラの花。



そして、この見事な色!プリンセス・ミチコというのだそうです。1966年の作出とのことですので、なるほど、というネーミング。



東沢バラ公園は、JR村山駅から東に車で5分か10分ほど行ったところにあります。明治初期、喜早伊右衛門という人が、東沢に灌漑用の大規模なため池を作ったことが始まりで、現在は一帯が公園になっており、その中に大きなバラ園があります。春の桜のシーズンや、初夏のバラのシーズンには、私の格好の散歩コースになっています。



こちらは、東沢公園の無料駐車場。小トトロみたいです(^o^)/



お昼には、そば街道でそばを食べ、夜は「風林火山」と「N響アワー」を見て、「余は満足じゃ~」ほとんどバカ殿状態の一日でした(^o^)/
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題名のない音楽会21

2007年09月16日 20時00分47秒 | クラシック音楽
日曜朝9時に民放テレビを見ることなど、これまでほとんどありませんでしたが、2日に続き飯森範親指揮山形交響楽団の出演ということで、じっくり見ました。今日のテーマは「王子」です。前々回と同様、錦織健さんがゲスト司会者として出演し、会場も同じ昭和女子大学の人見記念講堂であることから、たぶん同じ収録日なのでしょう。
今日は、作曲家というよりも、いまやタレントと言ってよいかもしれない、青島広志さんが、「ハミダシ王子」として解説をしますが、これがなんとも楽しい!
リストのハンガリー狂詩曲、シューベルトの「未完成」交響曲、ハイドンの交響曲「時計」、ムソルグスキーの「禿山の一夜」、ワーグナーの楽劇「ワルキューレ」など、それぞれ演奏されたのはごく一部でしたが、山響の演奏を楽しみました。

ただし、わずか30分の時間枠、その中にCMが入ります。もう少し余韻がほしいところですが、そこが民放のつらいところなのでしょうね。日曜夜のN響アワーや、金曜夜の芸術劇場は、貴重な時間枠なのでしょう。

写真は、わずかに咲き残っているわが家の黄色いバラ。


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