電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

藤沢周平『玄鳥』を再読する

2023年10月05日 06時00分58秒 | -藤沢周平
読書の秋に、文春文庫で藤沢周平著『玄鳥』を再読しました。この文庫本を最初に読んだのは、奥付けのあたりにメモした記述によれば2006年10月9日、浦安にて、とあります。また、当ブログで記事にしています(*1)ので、まるまる17年ぶりの再読です。当時は表題作「玄鳥」の終わった感というか喪失感というか、温かかった家庭の懐かしい記憶と対比された現実の寂寥感に共感したり、「三月の鮠」の清涼感が映画やドラマにならないものかと思ったりしていましたが、年月を経て着目するポイントがやや増えていました。それは、「闇討ち」という作品を生み出した作家の背景です。



「闇討ち」という作品は、初読時の感想によれば、隠居している三人の仲間のうち一人を罠にはめて闇討ちした中老を、残る二人が逆に仕返しする話なのですが、かつてのように少年時代の友情の現れというだけではない、中高年の仲間意識というか紐帯というか、そういうものが色濃く背景に見えるような気がするのです。作品の最期の部分、

「ちくと一杯やって、権兵衛をしのぶとするか」
めずらしく植田の方から誘った。
「むじな屋か」
「そうだ」
「何かうまいものがあるかな。大根の古漬けはもうわしは喰わんぞ」
「おれも喰わん」
と植田は言った。いい日和だったが二人とも背のあたりに、こういうときにいるべきもう一人が欠けている寂寥を感じていた。口少なにむじな屋を目ざして歩いて行った。

このような寂寥感は、実感として心当たりがあります。昨年、一昨年、あるいはその前と、中学や高校の仲間を病気で失った後の感情は、まさにこうした寂寥感そのものでしょう。おそらくは作家もまた、仲間あるいは教え子の一人を失うという経験を経て、その寂しさを背景にこうした作品を生み出したのではなかろうか。「闇討ち」の発表は1989年、藤沢周平62歳ころの作品です。

(*1): 藤沢周平『玄鳥』を読む〜「電網郊外散歩道」2006年10月

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藤沢周平『海鳴り(下)』を読む

2023年06月28日 06時00分57秒 | -藤沢周平
文春文庫で、藤沢周平著『海鳴り』の下巻を読みました。重苦しい上巻の伏線が一気に展開されていく物語は、当初のイメージの「不倫もの」というよりもむしろ江戸のラブ・サスペンスというほうが正解かと思います。

紙問屋の組仲間で、仲買人や紙漉人たちの意向に反し、大手の問屋だけが利益を得るような決議が強行されますが、小野屋を潰そうと仕掛けられてきた一連の動きに、なんとか五分五分まで持ちこたえている頃、小野屋新兵衛は丸子屋のおこうと密会を重ねます。丸子屋の中ではおこうは不遇な立場ですが、新兵衛の家でも不協和音が絶えません。ただ、放蕩息子と思われた幸助の心中騒ぎで、相手の薄幸な娘おゆうの事情を知れば新兵衛も解決に力を尽くします。どうやらそれが息子の心を開いたようで、ショックで寝込んだ女房も、頼りになるのは夫新兵衛だと痛感したことでしょう。しかし、紙問屋仲間の寄り合いの後で、塙屋彦助が小野屋新兵衛と丸子屋おこうの密会をネタにゆすりをかけてきたとき、事態は破滅の方向へ転がりだします。こうなると、あとは二人が死ぬ結末しか見えませんが、どうやら作者は違う結末を考えていたようです。下巻の始まりの頃に、こんな記述がありました。

 「新兵衛さん、これからどうなるのでしょうね」
 どうなるのか、新兵衛にも定かにはわからなかった。だが新兵衛はいま、必ずしも暗い行先きだけを見ているのではなかった。
 それとは逆に、おこうと結ばれる前には見えもしなかった、かすかな望みのようなものが行く手に現れたのを、新兵衛はじっと見つめている。見えているのは、いま二人がいる部屋を満たしている光のように、ぼんやりとして心細いものだったが、少なくとも暗黒ではなかった。やはり光だった。(p.29-30)

塙屋彦助は悪役ですが、いわば実行犯の役回り。裏にいる本当の悪役は、実は…。でも、新兵衛が窮地に立っているのは明らかで、二人はどうなるのか、思わずハラハラドキドキします。とりわけ、岡っ引きが訪ねてきてからの緊迫したやり取りは刑事コロンボを彷彿とさせますし、まさに江戸のサスペンス・ドラマです。おもしろいです。



ところで、小野屋新兵衛が一時おちいった中年の危機というものに、残念ながら当方は心当たりがありません。なにしろ我が家には、30代で失明し全盲となった妻を支えて生きた祖父と、原爆症で何度もがんを患いながら84歳まで生きた夫を支え続けた母がいましたから、妻をよそに他の女性と不倫をするという発想がそもそもありません。作者には苦笑されそうですが、小野屋新兵衛さんの本性は実はけっこう浮気で助平だったんじゃないかと疑っておりまする(^o^)/

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藤沢周平『海鳴り(上)』を読む

2023年06月27日 06時00分52秒 | -藤沢周平
文春文庫で、藤沢周平著『海鳴り』上巻を読みました。読む前にさらりと眺めた文庫の表紙カバーの説明では、作者には珍しい不倫もののようで、重苦しいストーリーなのではとためらいの気分もあったのでした。でも藤沢周平の代表作の一つなのだから、やっぱり読んでおかなければと手にした次第。

紙問屋の小野屋新兵衛は、仲買いから始めて紙問屋の組仲間に入るまでに商いを伸ばしたやり手の商人です。しかし、中年にさしかかった頃、境遇や生き方等に疑問を持つようになり、一時は酒や女に迷った時期もあって、家庭内には不和を抱えています。そんな時に、紙問屋仲間の寄り合いで酒を強制された丸子屋のおかみが、帰り道、悪酔いに苦しんでいるのにゴロツキに付きまとわれるという不運に見舞われ、小野屋新兵衛に助けられます。新兵衛は近くの飲み屋の二階を借りて介抱するのですが、運が悪かった。その店は連れ込み宿のようなところで、しかも帰りを酒クセが悪く商売が傾いてきている塙屋彦助に見られたようなのです。彦助の恐喝はなんとかしのいだものの、どうやら薄幸らしい人妻おこうに対し、思いを寄せてしまいます。芸能人の不倫が記事のネタにされる現代とは違って、不義密通は死罪という江戸時代の世間は、禁断の愛を許さないのです。

紙問屋仲間うちでも、ひそかにめぐらされている陰謀のような動きもあり、小野屋の家庭内の不和もかなりリアルに描かれて、読み進めるのが苦しい面もありますが、一方で続きはどうなるのだろうと結末を見届けたい気持ちも強くなります。たしかに名作だと実感させるけれど、実はまだ上巻。

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藤沢周平『決闘の辻』を読む

2022年11月15日 06時00分40秒 | -藤沢周平
新潮文庫の11月新刊で、藤沢周平著『決闘の辻』を読みました。もともとは昭和60年に講談社から刊行された単行本が同63年に講談社文庫に収録され、このほど新潮文庫として再刊されたもののようで、おそらく昭和50年代に講談社の雑誌等に掲載された作品を集めたものかと思われます。いずれも名だたる剣客5名の、しかも全盛期よりは盛りを過ぎてからの果たし合いを描くものとなっています。「名だたる」とはいうものの、実は私が知っているのは宮本武蔵と柳生但馬守宗矩くらいで、他の3人は全く知りませんでした。たぶん、作家が小さい頃に親しんだ立川文庫のような本の中で出てきていた剣客なのかと思います。

第1話「二天の窟(宮本武蔵)」。武蔵の晩年に、鉢谷助九郎という男がやってきて武蔵に挑みますが、武蔵は途中で勝負を中止します。単純に立会を続ければ若い鉢谷が優勢なのですが、老獪な武蔵の場合は闘争のマネジメントで勝つ。つまり、相手を驕らせ油断させ、場所・時・状況を有利に運ぶことで勝ちを得るというものです。うーむ、ここでの武蔵のあり方は、勝負への執念の凄さと言うよりも、伝説的剣豪の晩年のイメージとしては、老醜や妄執を感じさせてあまりよろしくありません。
第2話「死闘(神子上典膳)」。知らない人です。これもまた晩年の剣客の姿で、強い弟子どうしを争わせて自分は助かろうというのですから、なんだかなあ。そんなに強さ、勝ち続けるということは、大切なことなのだろうか。
第3話「夜明けの月影(柳生但馬守宗矩)」。この人はさすがに知っています。土井利勝にしてやられるところなどは、まだ人の良さが感じられますし、島原・天草の一揆に対応するところ、生命を惜しむ立場も好ましいと作者も考えていたのかも。
第4話「師弟剣(諸岡一羽斎と弟子たち)」。残された泥之助の選択は、ひと皮剥けた成熟を感じさせますし、第5話「飛ぶ猿(愛洲移香斎)」では母親の残した父の仇の話も、どうやら正しくなかったようです。こうなると、遺恨も勝負も前提を失うことになります。敗れてスッキリして、故郷で好きな娘と平穏に暮らすことを選ぶ話。今の年齢だからよくわかる、納得できる話です。



闘争において、永遠に勝ち続けることはできないわけで、年老いて気力・体力ともに衰えることは避けられません。若い時代になまじ勝ち続けると、勝ち負けの世界から離脱することができなくなるのかも。争わない、争う必要のない状況を作る政治力も大切なのかもしれませんが、むしろ作家が好んだという「普通が一番」という口癖に、妙に共感するところがあります。

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織田信長に対する人物評価は時代によって変わった

2022年07月27日 06時00分52秒 | -藤沢周平
何で読んだか忘れてしまいましたが、藤沢周平は織田信長があまり好きでなかったらしい。たしか残虐に過ぎると嫌っていたのではなかったかと思います。一方で、世の中には織田信長の先進性・開明性を高く評価する立場から描かれた小説もたくさんあるようです。戦国大名の人物評価などというと、なんだか床屋政談のようなものですが、徳川時代には信長は「性残忍にして」という評価だったのが、明治期に鉄砲の三段撃ちや集団戦法などの合理性・決断力、天皇を復活させた点などが傑物と評価されるようになったらしく、このあたりは明治維新の影響というか、皇国史観の影響なのかもしれません。司馬遼太郎の『国盗り物語』などは、清濁併せ持った人物として描かれていますが、この中に徳富蘇峰の影響を指摘する意見もあるようです。

では、藤沢周平の信長嫌いは、作家個人の資質の違いによるものだったのか。もしかすると、長年にわたり酒井家が君臨した鶴岡では、明治維新にもかかわらず、徳川時代の人物評価が底流として流れていたのかもしれないと想像したりします。『論語』等の読み方にも荘内藩独特のものがあったようですが、これも明治維新で別の読み方が権威づけられただけのことかもしれず、かつては荘内藩的な読み方が正統だったのかもしれません。藤沢周平の作家としての資質の中には、そうした庄内人の底流があったと考えることもできます。さて、本当はどうだったのだろう?

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藤沢周平『孤剣・用心棒日月抄』を読む〜7年ぶりの再々読

2021年06月25日 06時00分46秒 | -藤沢周平
軽い風邪を引き、念のために休んだ雨降りの日、枕元の書棚から藤沢周平著『孤剣・用心棒日月抄』を取り出して読みました。奥付に記録した読了年月日を見ると前回の読了は2014年の10月で、7年ぶりの再々読です。何度読み返しても面白い、名作シリーズの第2巻です。

前作『用心棒日月抄』で国元の陰謀を阻止したものの、まだ一味の首魁である寿庵保方の反撃が始まります。青江又八郎は、奪われた一味の連判状と証拠となる日記・手紙類を取り戻すために、新婚の妻と母を残して再び脱藩するはめになります。江戸で剣鬼・大富静馬を追うのですが、なかなか手がかりを掴むのが大変です。しかも、日々の糧は自分で稼げという無責任な条件で、生活に追われて探索どころではありません。探索の尻を叩く間宮中老も、その使いの土屋清之進も、暮らしの費用に思い至らない。それは

禄を離れたことがないからだ。

と又八郎は思うのです。このあたりは、中学校の先生だった作者が結核で療養生活を送り、結局は復職がかなわなかった作者の若い日々、生活上の不安という実体験による実感でしょう。

たまたま江戸屋敷から出てきた短刀術に優れた女忍び佐知と遭遇し、協力を得られることとなりますが、前作では敵味方として戦った相手だったはずが、深手を追った佐知を助けたことが幸いして、今作では一転して貴重な味方となっています。

今回も、細谷と米坂という二人の相棒と共に、吉蔵の紹介する大小様々な依頼を解決するというパターンで話が進みますが、不器用な生き方しかできない細谷も愛妻家(恐妻家?)だけれど、こんどの相棒の米坂も無類の愛妻家で、これは明らかに又八郎と佐知の関係を対比的に浮かび上がらせるための設定でしょう。

「それに、そのようなことで、少しでも青江さまのお役に立てましたら、うれしゅうございます」
 佐知は、いつもの表情の少ない顔でそう言っていたが、声には真情がこもっていた。孤立無援と思って来た江戸だが、頼りになる人間がいた、という気がした。
 又八郎は、思わず手をのばした。すると、心が通じたように、佐知も手をのばして、軽く又八郎の手を握った。だが、それは一瞬のことだった。二人は驚いたように、お互いの手をひいた。

このあたりは、まだ同志的な信頼の中で、わずかに互いを意識し合う場面。しかし、公儀隠密と大富静馬と三つ巴の争いの中で、ときに助け、ときに命を助けられる過程を通じて信頼を深め、やがて切ない愛情に変化していきます。

いやいや、国元の新妻はどうするのかと奥様方は抗議するでしょうし、男どもは都合よくロマンスを夢見るだろうという想定のもとで作者は話を組み立てているでしょうが、しかし男女の三角関係の修羅場を描くことはありません。このあたりは、教え子であったはじめの奥さんを病で失い、残された娘を育てながら生活に苦闘する中で、倒れようとする者が支えを掴むように再婚したという作者の半生(*2)が反映されているところでしょう。

(*1):藤沢周平『用心棒日月抄』を読む〜「電網郊外散歩道」2007年5月
(*2):『蝉しぐれ』、あらためて原作の厚みを思う〜「電網郊外散歩道」2005年10月

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山形新聞社編『藤沢周平と庄内』を読む

2020年12月04日 06時01分50秒 | -藤沢周平
図書館から借りてきた本で、1997年にダイヤモンド社から刊行された単行本、山形新聞社編『藤沢周平と庄内〜海坂藩を訪ねる旅』を読みました。「あとがき」によれば、山形新聞鶴岡支社に赴任した寒河江浩二支社長(当時、現在は社長)が、作家が逝去した後の平成9年2月から「その風景を探して」と題して朝刊に連載した20回分と、同年4月から連載した「第2部 ゆかりの人々」と題する10回分を中心に編まれたもののようです。
構成は次のとおり。

第1部 なつかしい風景を探して
1.【ただ一撃】 小真木原、金峯山  お役に立つなら、お試しなさいませ
2.【又蔵の火】 総穏寺、湯田川街道  始末をつけねばならん
3.【春秋山伏記】 櫛引町の赤川  庄内弁の美しさ溢れて
4.【三年目】 三瀬、小波渡  耐える女、一途な女
5.【龍を見た男】 善宝寺・貝喰ノ池、加茂  助けてくれ、龍神さま
6.【夜が軋む】 越沢、摩耶山  「山の精」を呼んだ淫蕩な血
7.【義民が駆ける】 鶴ヶ岡城  百姓といえども二君に仕えず
8.【暗殺の年輪】 五間川(内川)  ずいぶんと愚かなことを
9.【潮田伝五郎置文】 赤目川(赤川)  再開した盆踊りの夜
10.【唆す】 青龍寺、播磨  八十万人の「お粥騒動」
11.【臍曲がり新左】 金峯山周辺  年頃の娘を持つ父の心情  
12.【隠し剣孤影抄・邪剣竜尾返し】 金峯神社  俺の女房だ、あの女は
13.【隠し剣秋風抄・暗黒剣千鳥】 致道館  謀られた藩校の若者
14.【用心棒日月抄・凶刃】 寺々  青江又八郎の歳月
15.【三屋清左衛門残日録】 日本海  日残リテ昏ルルニ未ダ遠シ
16.【秘太刀馬の骨】 千鳥橋(大泉橋)  さあ、早く帰って旦那さまのお夜食を
17.【蝉しぐれ】 城下や近郊の村々  青春の「思い」叶って
18.小鯛の塩焼きやハタハタの湯上げ  心を許した女がもてなす旬の味
19.古里の方言への愛着  言葉と喰べものぐらいは残ってもらいたい
20.ペンネームと海坂の由来  吐き出さねばならなかった無念の気持ち
第2部 ゆかりの人々
1.兄・小菅久治さん  こぶしの木を切っていた
2.幼友達・五十嵐久雄さん  少年時代のつらい思い出
3.幼友達・石川弘さん、石川今朝太郎さん  作文
4.夜間中学同級生・三村千吉さん  飄風も朝を終えず
5.師範学校の同級生・小松康祐さん  テーマは「悪」の登場人物
6.師範時代の同級生・小野寺茂三さん  未発表詩「死の準備者」
7.教え子の1人・大滝澄子さん  好きだった馬酔木とサンシュユの花
8.荘内文学同人・富塚喜吉さん  私もまた人生の失敗者だった
9.句会主宰・畠山弘さん  「大山庄太夫」の一件
10.恩師の娘さん・松田静子さん  吐き出さねばならなかった無念の気持ち
付録 庄内ところどころ

新聞への連載という性格上、1編1編は短く読みやすいものです。新聞記者という職業柄、文章の上手い人が多いのではないかと思いますが、それにしても無駄のない簡潔で明快な文章は流石です。原作をまた読みたくなります。ある意味、この企画が、同紙の藤沢周平関連企画の原動力の一つになっていたのかもしれません。

※本書の本文は、山形新聞社ホームページにある「藤沢周平文学の魅力」中で読むことができるようです。


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藤沢周平『雪明かり』を読む

2020年03月29日 06時01分15秒 | -藤沢周平
講談社文庫で藤沢周平著『雪明かり』を読みました。2004年の秋に一度読んでいますから、16年ぶりの再読になります。文字のポイントが小さい昔の講談社文庫ですので、敬遠していた面がありますが、ふと表題作が読みたくなり、探し出してきました。

第1話:「恐喝」。竹二郎は、怪我をして痛みに耐えかねているところを助けてくれた娘を恐喝の魔手から逃がすために、本物の悪党と対決するはめになります。発表は昭和48年。
第2話:「入墨」。入墨者の卯助が、娘を痛めつけた悪党を瀬戸物の破片一つで倒したのは、おそらく親子の情からではないでしょう。風邪で伏しているときに世話をしてもらった娘に対する義理を返すもので、これまでの世渡りの闇の深さを思わせます。昭和49年。
第3話:「潮田伝五郎置文」。最後の視点の変化で、男女の関係はがらりと様相を変えます。潮田伝五郎の心情は相対化され、顧みられることはありません。小説として実にうまい。昭和49年。
第4話:「穴熊」。いかさま賭博ですってしまった浅次郎は、女郎屋で昔の恋人と面影の似た武士の妻女を買いますが、その理由が子供の喘息治療の薬代と知り、夫の塚本伊織と組み、一計を案じます。いかさま賭博を暴き、口止め料をせしめて大半を塚本に渡すのですが、伊織の妻は再び身体を売っていました。むしろ自ら積極的に。おそらく背景は儒教的禁欲主義に縛られた武士の夫婦関係にあったのでしょうが、どうも妻がのめりこむ性分だったようで、悲劇のもととなりました。昭和50年。
第5話:「冤罪」。勘定方で不正があり、組頭の非を咎めた相良彦兵衛が死にます。源次郎は真相を突き止め、娘の父親の冤罪は明らかになりますが、実直な兄夫婦の生活を破壊することにつながりかねません。源次郎は農家の養女になる明乃の婿に入り、武士を捨てることにします。昭和50年。
第6話:「暁のひかり」。長く寝込んで歩くのが不自由になり、早朝に歩く練習をしている娘と言葉をかわすようになり、腕のいい賽子賭博の壺振りの市蔵はまっすぐな娘の健気さが気に入っていました。娘があっけなく死んだ時、世間や運命というものにやり場のない怒りや憤りを覚え、絶望し、自暴自棄になったのでしょう。昭和50年。
第7話:「遠方より来る」。「友遠方より来る、また愉しからずや」が前提になっているのですが、曽我平九郎は多少の義理はあるけれど迷惑な客でした。小市民的現実を思わせる微苦笑。昭和51年。
第8話:表題となった「雪明かり」。兄妹とはいえ、菊四郎と由乃に血のつながりはありません。破格の養子縁組で芳賀家に入った菊四郎は、間もなく許嫁と縁組をすることになっています。しかし、義妹が嫁ぎ先で流産し養生もできずに虐待されているところを背負って助け出しますが、養家では以後会わないようにと冷たく言います。江戸に出た由乃は、義兄に行き先を書き残していました。闇の中で雪明かりがうっすらと見えるような佳品です。昭和51年。



作家が『暗殺の年輪』で直木賞を受賞する前後の作品です。ほの暗く、鬱屈や運命に対する憤怒が背景にあると感じるものが多いです。その点では、後年の明るさやユーモアには乏しく、好みは分かれるかもしれません。でも、切なさやリアリティの点では破格の作品ではあります。また、2004年の初読時には気づきませんでしたが、ここまで津波が来たということを示す「波除碑」を「入墨」の作中に取り入れていたことに驚きました。東日本大震災を経験したがゆえの、読者の視点の変化ということでしょうか。

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遠藤展子『藤沢周平・遺された手帳』を読む

2020年01月15日 06時01分42秒 | -藤沢周平
文藝春秋社から2017年11月に刊行された単行本で、遠藤展子著『藤沢周平 遺された手帳』を読みました。作家のエピソードは多くの人に様々な形で書き残され、語られていますが、作家本人がどう感じ考えていたのかはわかりません。その点、作家が遺した四冊の手帳に書かれた内容は、まるで作家本人の肉声を聞くようで、その人となりをよく表しているようです。当方、初めて知ったこともありましたし、あらためて確認できたこともありました。

例えば、娘が幼い頃に歌っていた子守唄がレイ・チャールズの「愛さずにはいられない」であり、その歌詞の意味がいまだに愛している別れた恋人を思う内容であること(p.83〜4)。若くして亡くなった妻を思いながら幼い娘に歌う子守唄としては、実に切ないものがあります(*1)。

また、「直木賞受賞」前の記述には、

一人の人が世に出るときは、その背後にそうでない人を多数置き去りにしていることを思う。(p.141)

とあります。おそらくは、多くの作品が英雄豪傑ではなく無名の下級武士や市井の人々を取り上げている背景には、こういう自戒が深く作用していたのでしょう。

そのような姿勢は、作品を書く際の言葉の選び方にもあらわれており、

選びぬかれた日常語というものがあるのかもしれない。陳腐で、手垢のついた言葉の中に重いものがあるかもしれない。気のきいた表現は不必要かもしれない。人生の重みをになってきた言葉があるかもしれない。そういう言葉で一篇の小説を書いてみたい気がする。(p.191)

というような記述として手帳の中に遺されています。こうした考え方や姿勢はたいへん好ましく思え、共感するところが大きいです。

そうそう、作家の手帳の中に直接的な記述があったわけではありませんでしたが、運命を憤る暗い情念をぶつけるような作風が少しずつ変わっていき、明るいユーモアの要素が増え、結末にも救いが見えてくる理由として、作品に対する教え子たちの感想が影響しているのではないかという私の推測(*2)は、どうやら当たっていたようです。(p.258)

(*1):YouTube より、レイ・チャールズ「愛さずにはいられない」の歌詞はこんな意味だそうです。
 ■愛さずにはいられない / レイ チャールス / 歌詞


(*2):藤沢周平のユーモア〜「電網郊外散歩道」2007年2月

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地元紙の連載「やまがた再発見」で3週連続「藤沢周平」を特集(3)

2019年09月13日 06時02分51秒 | -藤沢周平
地元紙「山形新聞」の連載「やまがた再発見」に、三週連続して特集が組まれた藤沢周平シリーズ、その第3回です。筆者は鶴岡藤沢周平文学愛好会代表の万年慶一氏。



■9月8日(日)付、「教え子たちが記念碑建立」、「先生を都内でたびたび訪問する際、第一声は決まって古里の農民たちが交わすあいさつ言葉そのものだった」

結核の治療・療養のため上京し、教員生活はわずか二年で終わったけれど、業界新聞に勤めるかたわら小説の執筆を続けます。その結果、1971(昭和46)年にオール讀物新人賞、1973(昭和48)年に直木賞を受賞します。同年10月、湯田川中学校で開かれた講演会で、教え子たちは突然姿を消した恩師と約20年ぶりの再会を果たします。このあたりは、随筆にも描かれているとおり。翌1974(昭和49)年には作家活動に専念することとなりますが、すでに30代も後半、もうすぐ40歳に手が届く年代の教え子たちが申し出た記念碑の建立の考えを、小菅留治先生は固辞します。たしかに、わずか二年の教員生活で教え子たちに記念碑を立ててもらうわけにはいかない、元の同僚たちに申し訳なくまた恥ずかしい、などといった気持ちもあったことでしょう。しかし、教え子たちもすでに大人であり、分別ざかりの年齢になって、それでもと希望するものを断り続けるわけにもいかなかったのでしょうか、萬年慶一氏は先生から「お前に任せる」との言葉をもらい、碑が建立されることになりました。

その後、碑の完成を見ることなく先生の急逝に接し、教え子代表として弔辞を読むこととなるあたりも、同級生や遺族からの氏への信頼感を表すものでしょう。さらに、後年、湯田川中学校の統廃合等にともない、校舎を解体し様々な碑を再編配置することになりますが、萬年氏は自治会長としてその仕事にあたることとなります。かつての教え子として、様々な思いが去来したことでしょうが、とりわけ結びの一文;

先生の記念碑も例外ではなく、朝日の昇る金峯山に向かって据えられた。文学碑にはこう刻まれている。「赴任してはじめて私はいつも日が暮れる丘のむこうにある村をみたのである」(「半生の記」の一節)。その隣の俳句「花合歓や畦を溢るる雨後の水」は、若き日に子どもたちと野山を駆け回った頃を思い浮かべて詠まれた。記念碑が正面に見据える方向には、古里の高坂集落がある。

には、客観的に事実を記しながら、恩師であり心のつながりの中心であった作家が寄せたであろう古里の追慕への共感が感じられるようです。

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地元紙の連載「やまがた再発見」で3週連続「藤沢周平」を特集(2)

2019年09月12日 06時03分23秒 | -藤沢周平
地元紙「山形新聞」の連載「やまがた再発見」に、三週連続して藤沢周平が特集されました。筆者は、鶴岡藤沢周平文学愛好会代表の万年慶一氏。その第2回です。



■9月1日(日)付け、「途切れなかった師弟の縁」、「句、詩がだれのものか知りたい、と。教え子の成長を推し測るのが楽しみだったのだろう。」

1951(昭和26)年の春、三年生の担任になるはずだった学校に、小菅留治先生の姿はありませんでした。昔も今も、中学三年生で担任がいなくなるのはよほどのことでしょう。学校の集団検診で肺結核が発覚、鶴岡市内の病院に入院します。20人の教え子が自転車で病院まで見舞いに行ったそうです。よほど慕われていたのだろうと推測されますが、それだけではありません。同年の初冬、三年生の補習授業が開始される前に、学芸会が開かれます。おそらくはクラスを解体して別々の補習授業クラスを編成する関係で、最後のクラス行事となったはずです。この出し物が、前年の放送劇「しらさぎ」の舞台化に決まります。この放送劇は、担任だった小菅留治先生が脚本を書き、生徒が演じて放送したもので、これをアレンジして舞台劇にすることとなったらしいです。その相談のために、何度も先生の元へ伺ったとのこと。たぶん、「用がないなら行くな」と言われていた生徒たちと大人たちの間に、「劇の相談があるから行く」というようなやりとりがあったことでしょう。中学校卒業は、1952(昭和27年)の3月になります。

1953(昭和28)年、小菅留治先生の病状は一進一退で、復職の見込みは立ちません。医師のすすめで上京し、都内の療養所に入ります。ここで、句誌「海坂」へ投句し、入選を重ねます。このあたりは、師範学校時代の同人誌に詩人的才能の片鱗を見せていた作家の姿が見えるような気がします。一方、卒業生は就職と進学に分かれ別々の道に進み始めるのですが、高校卒業を前にして、おそらくは1954年から55年にかけて、文集「岩清水」を計画・発行し、恩師の元へも送ります。これに対し小菅先生は、「師弟の縁はなかなかに消えないものだ」「句、詩がだれのものか知りたい」と書き、返信します。この「岩清水」は単年度では終わらず、第3集まで発行されたとのことです。

こうしたつながりの深いクラスは、決して「よくあるケース」ではないでしょう。生徒に慕われ信頼された先生と、やはり信頼を集めるまとめ役の生徒と、両方があってのことではなかろうか。こうした経緯から、「先生が有名作家だからまとまった」のでは決してないことがわかります。

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地元紙の連載「やまがた再発見」で3週連続「藤沢周平」を特集(1)

2019年09月11日 06時04分03秒 | -藤沢周平
地元紙「山形新聞」では、日曜日に「やまがた再発見」というシリーズを連載しています。いずれも山形県にゆかりの人を取り上げて、興味深いものですが、8月25日、9月1日、9月8日の三回は、藤沢周平の特集でした。執筆者は、鶴岡藤沢周平文学愛好会代表の萬年慶一氏。むしろ、教師・小菅留治の教え子の一人で、学級委員長のような立場だった人、という方がわかりやすいでしょうか。先の藤沢周平没後二十年特集「藤沢周平と教え子たち」でも取り上げられていましたが、むしろ紙幅を充分に与えられたときに、どんな思い出話が聞けるかに興味がわきます。


■令和元(2019)年8月25日付け、「充実した青年教師の日々」、「気配り、気遣いの人だった。教え子たち、古里をいつも思っていた。」
 記事は、小菅留治先生の生い立ち等に触れた後、山形師範学校を卒業後に湯田川中学校に赴任し、途中転任した担任の後釜として50人位の一年生の担任になった経緯を記します。1949(昭和24)年、由良の海浜学校で自信を付け、熱心に生徒の指導にあたります。英語の時間限定で一人ひとりに英語の名前をつけ、出席をとるあたりは、E.G.ヴァイニング『皇太子の窓』でも共通の、当時のやり方なのでしょう。週1〜2回のホームルームの時間、これも戦後教育の特徴でしょうが、この時間には読書に力を入れ、ヴィクトル・ユーゴーの『ああ無情』を読んでくれたことや、ヴェルレーヌの「落葉」、詩経より「凱風」など詩の朗読などが記憶に残るとのこと。また、戦後まもない時期、農繁期には就学前の弟や妹を学校に連れてくる生徒もおり、先生はよく面倒を見てくれたこと、学級図書を取り入れ、春はジャガイモをゆで、秋は芋煮会を開くなど、気配り、気遣いの人だった、とのこと。多感な中学生の、1951(昭和26)年までのわずか二年間の担任でした。

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文藝春秋編『藤沢周平のこころ』を読む

2018年11月27日 06時03分03秒 | -藤沢周平
文春文庫の10月新刊で、文藝春秋編『藤沢周平のこころ』を読みました。もちろん、藤沢周平の未公開作品を収録したものではありませんで、帯によれば「佐伯泰英、あさのあつこ、江夏豊、北大路欣也らが語る〜私が愛してやまない藤沢作品の魅力」について語ったものを収めたアンソロジー風の「永久保存版」です。内容を大まかにまとめれば、

1 名作を紡ぎ続けた作家の軌跡
   対談、インタビュー、直木賞選評、選考委員座談会など
2 藤沢作品の魅力を徹底紹介
   対談、エッセイ、作家と作品について
3 新たなる映像の世界へ
   映画、ドラマ、対談、役者として

といった構成になっており、多彩な内容で楽しめるものです。

いくつか、どこかで読んだ文章もありましたが、興味深い指摘もたくさんありました。例えば、松岡和子×あさのあつこ×岸本葉子さんの熱愛座談会(^o^)/

岸本 『蟬しぐれ』でいいますと、私はタイトルから気になって、どんなときに蟬が鳴くのかを調べてみたんです(笑)。そうすると、後悔というテーマが出てくるところではよく鳴くんです。

この指摘には、うーむ、なるほど。

また、宮部みゆきさんがミステリーの観点から選んだ三冊、『秘太刀馬の骨』、『闇の歯車』、『ささやく河〜彫師伊之助捕物覚え』というのも納得ですし、児玉清さんが『霧の果て』の神谷玄次郎にゾッコン惚れ込みながら、「小説の面白さ」について、「娯楽性というものを大事にしたい」と書いた作家の一節を紹介して文を終えている点も納得です。

作家・藤沢周平は、教師・小菅留治として教え子たちとの再開を果たした後に、先生の作品の暗さを指摘する元生徒に「もう少し待って欲しい」と答えながら、徐々に「彼らにも読まれる」ことを意識していったのではなかろうか。運命に抗う自分の負の感情のはけ口としての小説から、世の中で懸命に生きている読者に対してそっと差し出せるのは小説の持つ面白さだろうと考えたのかもしれない、と思います。

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山形新聞「藤沢周平没後20年」の鼎談がネットで提供

2018年01月02日 06時02分46秒 | -藤沢周平
地元紙・山形新聞では、藤沢周平没後20年を記念して、様々な企画を実施していました。その中で、文藝春秋社の担当編集者であった鈴木文彦氏、作家の娘でエッセイストの遠藤展子氏、山形新聞社社長で『藤沢周平と庄内』の著書を持つ寒河江浩二氏の三氏による鼎談の要旨が、2017(平成29)年12月25日付の山新に二面見開きで掲載(*1)されました。当日にざっと斜め読みしてページを抜き取り、正月休みを契機にゆっくり読んでみました。これが、なかなかおもしろい。



思わず笑ってしまったのが、遠藤さんがバラした話。

遠藤 私と今の母と父の3人が全部反映されているのが『獄医立花登手控え』シリーズ。私が中学、高校のころ、父は話をよく聞いてくれた。よく話を聞いてくれていいお父さんだと思っていたら、後で本を読むと、私が話した友達のような子が出てきて「これはネタにされた」ということがあった。登のおばは今の母にそっくり。登は誰なんだろう? 東北から江戸に出てくるわけだから、登もお父さんだ、と。観察力がすごいので、家族といえども観察され、ネタにはされている。

第1巻で遊び呆けるおちえは、高校生の頃の娘の展子さんがモデルらしい、という話は何かで読んで承知しておりました。しかし、あの締まり屋のおばさんが作家の奥さんがモデルだったとは、初めて知りました。思わず爆笑、作家にあらためて親近感を持ってしまいます(^o^)/



ところで、紙面に「ホームページで鼎談の音声紹介」という案内が出ており、この鼎談が「山形新聞ニュースオンライン」の特集記事で、音声として聴くことができる(*2)ことを知りました。また、先に記事にした「小菅先生と教え子たち」(上中下)等の記事も公開されている(*3)ことがわかりました。こういう提供の仕方は、山形以外の藤沢ファンにとって得難い貴重な機会でしょう。たぶん、公開には期限があることでしょうが、こうした太っ腹な形での提供に感謝しつつ、皆様にご紹介いたします。

(*1):「藤沢周平の世界」鼎談〜「やまがたニュースオンライン」
(*2):藤沢周平没後20年、生誕90年〜「やまがたニュースオンライン」
(*3):藤沢周平没後20年「小菅先生と教え子たち」(上)(中)(下)

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藤沢周平没後二十年「小菅先生と教え子たち(下)」を読む

2017年12月10日 06時03分08秒 | -藤沢周平
11月29日付け山形新聞に、藤沢周平没後二十年の特集企画の一環として、「小菅先生と教え子たち(下)」が掲載されました。地元鶴岡に残る教え子たちのまとめ役として、学級委員長みたいな役割を果たしたらしい、元JA鶴岡の理事・萬年慶一氏の回です。氏が語る小菅先生の思い出は、ホームルームの時間に読み聞かせをしてくれたこと。とくに印象深いのが『レ・ミゼラブル』で、ジャベール警視の探索の中、マドレーヌ市長が馬車の下敷きとなったフォーシュルバン老人を救い出す場面です。

中学生のまっすぐな心情として、自己の保身を考えるならば見て見ぬふりをするほうが良いのだけれど、目の前で苦しむ老人を救えるのは自分しかいないというジレンマに陥ったマドレーヌ市長の決断が、価値あるものとしてストンと腑に落ちた、ということでしょう。そしてそれが、かつて自分を救ってくれたミリエル司教の教えに忠実であろうとした、愛ある決断だったことも。

若い日のこうした記憶は、意外なほど深いところで影響を残しているものです。老年期に入ると、記憶の底から浮かび上がるエピソードは、穏やかで優しいものでありたいと願うところです。



学級図書や「脳天コツン」の話からは、若い中学校教師として楽しく過ごしていたことが想像されますし、「碑が建つ話」の関連の経緯はエッセーで親しいところですが、湯田川中学校での教師生活と教え子たちを終生懐かしく思っていたことがうかがえます。

おそらく、紙面に登場しない教え子たちの中には、言い尽くせない不幸や苦難の人生を送った人もいたことでしょう。小菅留治先生の家庭的な不幸からの回復と作家としての成功を、彼らもまた我が事のように喜び、励みにし、勇気づけられていたのではなかろうか。そして、先生もまた、教え子たちの「その後」を気にかけ、幸せを念じながら、様々な人生の哀歓を感じつつ、作品の中にあたたかく投影していたのではなかったか、と思います。

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