電網郊外散歩道

本と音楽を片手に、電網郊外を散歩する風情で身辺の出来事を記録。退職後は果樹園農業と野菜作りにも取り組んでいます。

サクランボの剪定作業を始める

2010年02月28日 06時29分15秒 | 週末農業・定年農業
ポカポカ陽気の土曜日、午前中に床屋に行き、日中に妻と二人で果樹園の剪定作業を始めました。もちろん、今年初の週末農業です。まずは昨年の経験をもとに、おおづかみに樹形をとらえ、上に伸びすぎた太枝をバッサリと切り落とします。サクランボは、太い枝を切ると、そこから枯れ始めるので、トップジン・ペーストを塗布しながらの作業になります。
脚立に登ったり降りたり、足もくたびれますが、上ばかり見ているために首も痛くなります。日が傾くと風も冷たく感じますので、無理をせず早々に中断しました。本日の成果は、サクランボ成木が二本です。



夕方からは、いきつけの耳鼻咽喉科に行き、アレルギー性副鼻腔炎の定期診察。待ち時間にも、新調したウォークマンで音楽を聴きました。ジョージ・セル指揮クリーヴランド管弦楽団によるシューベルトの交響曲第8(9)番「ザ・グレート」、1958年のCBS録音です。後のEMI録音のほうが、柔らかさが出ているように思いますが、キリリとしたスタイルで推進力に富む演奏であるという点では、この旧録音のほうがより徹底しているように感じます。
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このポテチが取れないんだよ~

2010年02月27日 06時23分13秒 | アホ猫やんちゃ猫
先の週末のことです。妻が買ってきたポテチを、一枚アホ猫にやってみました。匂いにつられて興味津津、いっしょうけんめいになめるのですが、なにせ軽いもので、舌で押されてどんどん隅っこへ。

「このポテチが取れないんだよ~」

アホ猫は、おそらくそう言っているのでしょう(^o^)/
これが、映画「沈まぬ太陽」(*1)や伊坂孝太郎著『アヒルと鴨のコインロッカー』にいちゃもんをつけていた猫(*2)とは、とても信じられません(^o^)/

(*1):アホ猫が語る「沈まぬ太陽」~「電網郊外散歩道」
(*2):アホ猫と伊坂孝太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』~「電網郊外散歩道」
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八幡和郎『本当は恐ろしい江戸時代』を読む

2010年02月26日 06時26分44秒 | -ノンフィクション
ソフトバンク新書で、八幡和郎著『本当は恐ろしい江戸時代』を読みました。著者は、当方とほぼ同世代に属し、国土庁長官官房参事官、通商産業大臣官房情報管理課長などを歴任し、徳島文理大学大学院教授、作家、評論家として活躍中とあります。なるほど、それでソフトバンク新書か、と思わずうがった見方をしてしまいますが、内容はかなり痛烈です。構成は次のとおり。

第1章 餓死者が続出し、はげ山だらけ
第2章 サドマゾ趣味のでたらめ刑罰
第3章 自由も民権もなかった暗黒の日々
第4章 旅は自由でなく、しかも歩くしかなかった
第5章 食生活も財政も米のみが頼り
第6章 教育水準が高かったというのはウソ
第7章 地方は「江戸藩」の植民地
第8章 「鎖国」したので植民地にされそうになった日本
第9章 働くのは嫌いで賄賂が大好きなのが武士

内容的には、半藤一利『幕末史』などと真っ向からぶつかります。たとえば第7章には、「戊辰戦争の官軍が賊軍を冷遇した事実はナシ」という節があり、「薩長が維新の功労者として有利な地位を占めたのは事実だが、それ以外は官軍側だからといって優遇された例はほとんどない」(p.175)とされています。これは、ほとんど薩長の独占人事だった、ということの別な表現なのでは。また、「太平洋戦争も、もし薩長閥が堅持されていれば起こることはなかっただろう」(p.179)とまで言い切っています。陸軍について、「太平洋戦争に突入したときの責任者」は「南部藩の東条英機など佐幕派の出身者が多かったのは象徴的」(p.219)というわけです。このあたりも、下級軍人には貧しい東北出身者が多く、上級軍人、特に歴代の中枢クラスは薩長が占めるという構造だったのでは、と思います。

また、本書では、「統帥権の独立」というクギが、文民統制を外れ憲政を志向した近代国家の袋を突き破る結果をもたらした、その直接の当事者である山県有朋を、「世界に通用するような素晴らしい現実主義者」として称揚する見方をとっています。これは、歴史上の人物の二面性なのでしょうが、この見方には、やや違和感を覚えます。

まあ、そんなところはジャブの打ち合いみたいなもので、本質的な主張は書名のとおり「本当は恐ろしい江戸時代」が、明治維新のどたばたによって近代国家に生まれ変わり、まがりなりにも、庶民も幸福になった面が多いのですよ、ということであろうと思います。その点については、なるほど、そうだなあと同感、共感できるものでした。
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春はもうすぐ

2010年02月25日 06時21分44秒 | 季節と行事
近頃、だいぶ日が長くなったと感じます。風はまだまだ冷たく、これからも何度か小型の寒波はくることでしょうが、大寒を過ぎて立春も過ぎて、2月も残り少なくなりました。北国にも春はすぐそこまで来ていることでしょう。

そういえば、大雪の年は例外として、近年は本当に雪が少ないように感じます。私が子供の頃は、もっともっと積雪量は多かったという記憶があります。自家用車もなかった時代ですので、除雪をすることもなく、降った雪、降ろした雪はそのまま軒先まで積もっていました。戸外から玄関へは、踏み固めた雪の階段を降りて入るような状態でした。

急傾斜の茅葺き屋根がなくなり、断熱に配慮された部屋自体を暖める石油暖房が主体になったために、住宅全体、集落全体が温められ、雪が積もりにくくなっているのもあるでしょう。また、実際は地域気候そのものが、温暖化のために少しずつ変わってきているのかもしれません。



雪もだいぶ融けてきました。なにはともあれ、春はもうすぐです。日当たりの良い南向きの庭では、雪どけの向こうに、水仙の芽がもう顔を出しています。



何とはなく希望が感じられるこの季節、音楽も読書も、伸びやかなものに手が伸びます。早く確定申告の作業を終えて、週末には新調したウォークマンをお供に、果樹園の剪定作業に入りたいところです。
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散歩のお供に~ウォークマンE(4GB)の使用感

2010年02月24日 06時05分01秒 | Weblog
今年は、年明け早々にぎっくり腰になり、運動不足を痛感しています。そろそろ春の農作業も始まりますので、冬ごもりモードから少しずつ目覚めなければなりません。体をならすには、なんといってもウォーキングでしょう。外はまだ寒いのですが、防寒スタイルでポケットにウォークマンを入れて出かけましょう。ここしばらく、使ってみての率直な使用感です。

【良い点】
(1) 小型であることを生かし、パナソニックの首掛け型ステレオ・イヤフォンに付けているので、イヤフォンのコードが邪魔にならない。コート内、または胸ポケットに入れておけば、冬季間も電池が冷えて性能が低下しないので便利。
(2) 電池の持ちが案外よい。回転部がないせいか。
(3) 音は予想以上にまともである。圧縮の影響は最小限と思われる。
(4) 色が変えられる。青を購入したのでしたが、気分でオレンジにしています。



【良くない点】
(1) 表示部の小ささ。ベートーヴェン「交響曲第3番・英雄」第1楽章のように、曲名の終わりのほうがわからないうちに自動消灯してしまう(*1)。知った曲ばかりなら問題はないが、なじみの薄い曲だと不便。
(2) いろいろな機能があるらしいが、音楽を聴くだけ。操作は直感的にわかりやすいとは言い難い。
(3) 首掛け型からふつうのイヤフォンに付け替えるのが不便。ストラップの付けはずしがやりにくい。もっとも、これは首掛け型イヤフォンの問題か。

現在、スーク・トリオによるベートーヴェンのピアノ三重奏曲のほかに、次の曲が転送してあります。いずれも1950年代末の録音で、著作隣接権の保護期間が切れて、パブリック・ドメインになったものばかり。ようやく 1GB が埋まりました。数年かけて目指すは「ジョージ・セル正規録音集 on USB メモリ」です(^o^)/

ハイドン、交響曲第97番、第99番、セル指揮クリーヴランド管
モーツァルト、ピアノ協奏曲第25番、フライシャー(Pf)、セル指揮クリーヴランド管
ベートーヴェン、交響曲第3番「英雄」、セル指揮クリーヴランド管
ベートーヴェン、ピアノ協奏曲第4番、フライシャー(Pf)、セル指揮クリーヴランド管
シューベルト、交響曲第8番「ザ・グレート」、セル指揮クリーヴランド管
メンデルスゾーン、ヴァイオリン協奏曲、ミルシュテイン(Vn)、セル指揮クリーヴランド管
シューマン、交響曲第1番「春」、セル指揮クリーヴランド管
ドヴォルザーク、交響曲第8番、第9番「新世界より」、セル指揮クリーヴランド管
R.シュトラウス、交響詩「ドンファン」、「死と変容」、「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」、セル指揮クリーヴランド管

自宅では、デスクトップ機を ONKYO の USB オーディオプロセッサ経由でステレオアンプに接続(*2)して聴いています。当然のことですが、同じ音源を密閉型のヘッドホンで聴くのと比べてしまうと、小さなイヤフォンとは低音の迫力がまるで違います。これは、まあ、やむをえません。でも、CD を何枚も持参しなくてもよいので、ちょいと楽しみではあります。

(*1):おそらく一定の秒数で強制的に自動消灯しているのだと思います。曲名テキスト文字の末尾を検知して消灯するようにすればよいのでしょうが、組込みプログラムが、そういうテキスト処理ができるレベルなのかどうか。
(*2):ONKYOのUSBオーディオ製品を試す~「電網郊外散歩道」
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伊坂孝太郎『重力ピエロ』を読む

2010年02月23日 06時18分47秒 | 読書
新潮文庫で、伊坂孝太郎著『重力ピエロ』を読みました。なるほど、今話題の作家だけあります。けっこう興味深く読むことができました!

春が二階から落ちてきた。

この一文で始まる物語は、最後、同じ文で完結します。なかなか粋な、というか、よく工夫された構成です。

レイプ事件によって妊娠し、生まれた弟。父親は妻を愛し、兄弟を分け隔てなく育て、接します。なんとも魅力的な父性像ですが、残念ながら癌の再発で入院中。そこに連続放火事件が起こり、遺伝子を扱う、兄・泉水の勤務先もボヤに遭います。落書き消しを業として営む弟・春は、連続放火とグラフィティ・アートの間に関連を見出し、兄を張り込みに誘います。兄が扱った客の一人で、葛城という男が実は……、というふうに物語は進みます。

連続放火事件とグラフィティ・アートとの関係が、二重らせんのG(グアニン)とC(シトシン)、T(チミン)とA(アデニン)の関係を投影しているというあたり、つい数十年前にはあり得なかった素材です。平凡だが偉大な父と、あまりにも美人であるために不幸を招いてしまうような母と、論理的で凝り性な兄と芸術家肌の弟という四人家族の、遺伝子決定論に対する挑戦の物語。

生物学的な事柄に関しては遺伝子決定論も力を持ちますが、社会的・文化的な問題については、必ずしも遺伝子の連続性が大事とは言いきれません。よく継母が子供を虐待し、可哀想な子供が本当の母親を慕って泣く、というメロドラマのパターンがありますが、実際にはどうなのでしょう。子供のいない、あるいは子供を失った親が、養子を迎えて養育し、普通の家族関係を築いている例はたくさんあり、その数は、児童虐待の例よりもはるかに多いだろうと思います。児童虐待についても、たぶん「継母→子イジメ」なんじゃなくて、「経済的貧困→子イジメ」なのでは。その意味では、著者の提起した「家族の絆は遺伝子の連続性じゃないよ」には共感するところが大です。

ただし、この小説では同害報復の論理が展開されているけれど、現実には誰が真犯人かは不明確でしょうから、無実の人間に罪を着せてしまう冤罪の可能性があると思います。実際は、真犯人が明確である小説だから可能な筋立てなのでしょう。

まあ、いかにも理屈っぽい理系の石頭ならではの感想で、我ながらしょうもないと思いつつ、『重力ピエロ』の映画を見たかったなあとつぶやいております。
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ベートーヴェン「ピアノ三重奏曲第1番」を聴く

2010年02月22日 06時20分52秒 | -室内楽
このところ、通勤の音楽として、また入手したばかりのウォークマンによるウォーキングの音楽として、ベートーヴェンの「ピアノ三重奏曲第1番変ホ長調」を聴いております。作品1の1という、文字通り若い作曲家の出版デビューです。スタートがピアノソナタとかピアノの小品とかいうものでなくて、ヴァイオリンとチェロ、ピアノという編成の室内楽作品であることに意外性を感じますが、その作品は、予想通りにピアノが活躍する若々しくフレッシュな佳品です。演奏は、ヨゼフ・スーク(Vn)、ヨゼフ・フッフロ(Vc)、ヨゼフ・ハーラ(Pf)のスーク・トリオ。1983年、DENON による、プラハの「芸術家の家」におけるデジタル録音です。

第1楽章:アレグロ、4分の4拍子、変ホ長調、ソナタ形式。冒頭、力の入った音で始まります。第1主題の提示に続き第2主題が提示され、提示部の反復を経て展開部へ。そして第1主題と第2主題が再現されるという典型的で見事な構成です。第1主題の活発な魅力、第2主題のややメランコリックな性格など、たいへん魅力的な音楽です。
第2楽章:アダージョ・カンタービレ、4分の3拍子、変イ長調、ロンド形式。若いベートーヴェンらしい、よく歌う、すっと心に入ってくるような音楽です。冒頭のピアノ独奏に始まり、ゆったりとしたテンポでヴァイオリンが歌うと、チェロが朗々と答えます。全体に、ピアノが効果的に支えながらヴァイオリンとチェロが交互に歌い交わすようなところなどに、室内楽の魅力を存分に味わうことができます。好きですねぇ、こういう音楽。若いベートーヴェンの魅力です。
第3楽章、スケルツォ:アレグロ・アッサイ。4分の3拍子、変ホ長調。すでにメヌエットではなくスケルツォです。前楽章から曲想は一転して跳ね回るような軽やかなものへ。
第4楽章:フィナーレ、プレスト。4分の2拍子、変ホ長調、ソナタ形式。オクターブ高くなる印象的な導入に始まる、いかにも晴れやかなフィナーレ。ピアノ、ヴァイオリン、チェロが交互にカノンふうに旋律を奏するところなど、充実した音楽です。

伝記によれば、ボンからウィーンに出て、ハイドンのもとで対位法を学びながら、1793年からはヨハン・シェンクに、ハイドンがロンドンに向けて出発した1794年からはアルブレヒツベルガーにも師事し、対位法を学んでいるそうな。1795年の春まで続いたレッスンの後期には、Op.1となる三曲のピアノ三重奏曲が誕生、この変ホ長調のOp.1-1は1794年の作だそうで、作曲者24歳頃でしょうか。まさに疾風怒濤の真っ只中、強情なところもある青年ベートーヴェンの、若いエネルギーと努力を傾注した、後の膨大な作品群の堂々たるスタートです。

■スーク・トリオ盤
I=10'14" II=7'41" III=4'57" IV=7'47" total=30'39"

【追記】
ベートーヴェンのピアノ三重奏曲Op.1の記事リンクです。
(*1):ベートーヴェン「ピアノ三重奏曲第2番」を聴く~「電網郊外散歩道」
(*2):ベートーヴェン「ピアノ三重奏曲第3番」を聴く~「電網郊外散歩道」
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岡田暁生『音楽の聴き方』を読む

2010年02月21日 06時24分04秒 | クラシック音楽
岡田暁生著『音楽の聴き方』(中公新書)を、ようやく読み終えました。前半は比較的すんなりと読めましたが、後半はなかなか難しい。体裁はコンパクトな本ですが、あちこちで議論になりやすい性格を持った、けっこうハードな本のように思います。

本書の構成は次のようになっています。

第1章 音楽と共鳴するとき~内なる「図書館」を作る
第2章 音楽を語る言葉を探す~神学修辞から「わざ言語」へ
第3章 音楽を読む~言語としての音楽
第4章 音楽はポータブルか?~複文化の中で音楽を聴く
第5章 アマチュアの権利~してみなければわからない

第1章、内なる図書館の比喩は、なるほどと説得的。
第2章、音楽を語る言葉はある。それは、オーケストラのリハーサルを見れば明らか。指揮者は言葉でイメージを伝え、奏者の身体感覚を喚起します。「言葉の無力について雄弁に言葉で言い立てる」(p.43)ロマン派的音楽批評の自家撞着の指摘もその通りだと思います。
第3章、ハイドンやモーツァルトの交響曲や弦楽四重奏曲をコース料理にたとえ、第1楽章で恭しく宮廷に通され(序奏)、サロンで活発な議論が交わされる(主部)。第2楽章はティータイムで、第3楽章は舞踏会のメヌエット、第4楽章で王宮の祝典の喜びが爆発するーといった型、約束事がある、という説明は面白いものです。ベートーヴェン以降、こうした約束事が市民階級の成長とホールでの演奏会形式に合わせて改変され、「闇から光へ」「苦悩を通して歓喜へ」のパターンが定着し、さらにその「盛り上がり型」のパターンを避ける瞑想的終結が工夫されるようになる、などの説明も興味深いものです。
第4章、「音楽はポータブルか」において、(1)楽譜(五線譜)、(2)音楽院や楽派の形成による伝承、(3)レコード録音と再生の技術開発、という三つの区分を示しているのも、たいへん説得的です。

でも、アドルノのトスカニーニ批判や、ポリーニのショパン「エチュード集」についての文章(第4章)など、なんだかやけに難しい。さらにパウル・ベッカーに続き紹介される、ハインリッヒ・ベッセラーの「聴く音楽」と「する音楽」の二分法などは、素人音楽愛好家にすぎない当方などにとって、排除の論理のテーゼにきこえてしまいます(^o^)/
「聴く」から「する」へ、などという節が全体の末尾を飾る構成は、もう平均寿命を八割方通過しつつある者には、絶望的な結論のように思えて、思わず「え~っ!」と悲鳴をあげたくなります(^o^)/
クラシック音楽を空気のように呼吸してほぼ半世紀、正直言って、いまさら「する音楽」へ向かえと言われてもな~、という感じです(^o^)/

当方は、どうも発想の根本に、真理はわかってみると単純で明快なものである、というふうな思い込みがあるようで、「遺伝情報はA,T,C,Gの4種の塩基の配列によって伝えられている」という類のものだと、実にすとんと腑に落ちる感覚があります。ところが、読んだこともない難しい本の著者Aはこう言った、Bはこう言った、それは実はこうなのだ、というような議論は、正直言って文章の筋道をたどるのが精一杯で、ストンと腑に落ちることはありません。音楽や芸術に関するハイブロウな論議をコンパクトに圧縮した本書は、あまり未来がなくなった理系の石頭にはいささか手に余るものがあるようです。
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最近、パッケージソフトを購入していない

2010年02月20日 06時16分07秒 | コンピュータ
ふと、思いました。最近、パッケージ・ソフトウェアを購入していないなぁ。最後にパッケージ・ソフトを購入したのは、いつだったのだろう?

どれどれ。記録によれば、OS では Windows2000PRO、アプリケーションでは PaintShopPRO 7 や「いきなりPDF」あたりでしょうか。時期的には2000年~2005年ころのようです。あとは、WindowsXP や MS-Office XP など、パソコン本体の購入時に添付されるものを更新する形で使用し、便利なツールはネット上で探し出す形になっています。

参考までに、テキスト備忘録等によって、1989年以降の購入記録を調べてみました。グラフでは、時期の区分として1989~1995(MS-DOS/Win3.1の時代)、1996-2000(Win95/98とLinux導入)、2001-2005(高速インターネット常時接続)、2006-現在、としてみました。このデータによれば、コンピュータにかける経費は激減しています。特にMS-DOSの時代には、機種依存のために、ハードを交換すると周辺機器もソフトウェアも買い直さなければならず、たいへんな負担でした。しかも、今から考えると完成度の低いソフトウェアが多く、ひんぱんなバージョンアップに毎回お金を出して対応しなければなりませんでした。当時、物珍しさもあって、新しいジャンルのソフトウェアに興味を持つと、購入して試していたせいもあると思います。

現在は、既存のソフトウェアは実用上完成の域に達し、大きな改善の必要を感じません。また、Linux 中心の利用になったために、ウィルス対策ソフトの経費もなくなりました。

新しいソフトウェアを導入していないわけではないのです。例えば、昔のカセットテープの録音をデジタル化するために、Windows 上に SoundEngine を導入したり、Linux 上に Audacity を導入したりしています。それ以外は、コンピュータ上のソフトウェアは本当に飽和状態。ここ最近の経過を見ると、ウェブ上のサービスでもじゅうぶんに間に合う時代になったのかもしれません。パッケージ・ソフトの企業にとっては、まったく冬の時代です。

昔は、「ハードウェア、ソフトなければただの箱」と揶揄されたものでしたが、実は「ソフトウェア、ハードなければただのゴミ」というのも真実でしょう。ハードとソフトの分離は、標準化という良い面もありましたが、寡占という逆の面もあったように思います。パッケージソフトの時代はすでに終わり、例えばサーバが提供するサービスを担う形で、あるいは携帯できるデジタル製品に内蔵されるような形で、商用ソフトウェアは生きのびていくのでしょうか。
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音楽CDと文庫本を購入

2010年02月19日 06時17分50秒 | 散歩外出ドライブ
先日、山響のモーツァルト定期演奏会のために、ど田舎の自宅から都会の山形へ(^o^) 出かけましたので、演奏会が始まる前に駅ビルなど周辺を散策し、音楽CDと文庫本を購入してきました。

(1) バルトーク 弦楽四重奏曲全集 アルバン・ベルク四重奏団
(2) モーツァルト ピアノソナタ全集 第4集 マリア・ジョアオ・ピリス
(3) モーツァルト ピアノソナタ全集 第5集 マリア・ジョアオ・ピリス
(4) 日高敏隆『セミたちと温暖化』(新潮文庫)
(5) 鶴我裕子『バイオリニストは目が赤い』(同上)
(6) 平岩弓枝『はやぶさ新八御用旅(四)』(講談社文庫)

このうち、バルトークの弦楽四重奏曲は、山形弦楽四重奏団の定期演奏会の予定演目(*)をにらんで、曲に親しむためのもの。そういえば、ずいぶん昔、NHK-FMでジュリアード弦楽四重奏団の録音を聴いて以来、バルトークの弦楽四重奏曲に接するのはしばらくぶりのような気がします。実演を契機に、こうした20世紀の音楽や、日本の作曲家の作品などに接することができるのは、たいへん嬉しいことです。

(*):2010/2011年度 今後の予定(山形Q)~「らびおがゆく Vol.3」より
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好きな音楽が途中でとぎれる(中断する)ことを惜しむ気持ち

2010年02月18日 06時26分16秒 | クラシック音楽
中公新書で、岡田暁生著『音楽の聴き方』を少しずつ読んでいますが、中にこんな一節を見付けました。三輪眞弘さんの言葉だそうですが、

たとえば着メロとか、僕はそうとう耐え難いんです。なぜかというと、曲が始まって、途中で切らなければならないわけです。もし音楽が好きだという人がいたら、そんなことがどうしてできるんだろうと、まずは思うわけです。~後略~

というものです。思わず共感してしまいました。当然のことながら、当方は途中で中断を余儀なくされる着メロは設定せず、不粋なベル音または振動音であります(^o^)/

ところで、好きな音楽が鳴り始めたとき、途中で切ることができない、もっと聴いていたいと思ってしまう、という心理(*)はよくわかります。たとえば、ラジオドラマの制作でブルーノ・ワルターによるマーラーの交響曲第9番の第4楽章アダージョをバックに使ったとすると、私などは、場面が終わってしまっても途中でフェードアウトできなくなってしまうのではないかと思います。ディレクター、あるいはミキサー失格です。いやはや、実際ラジオ番組制作者にならずによかったなぁと思います(^o^)/

素人音楽愛好家は、純粋に音楽が「好き」なだけでいられる。これは、とても大事なことなのではないかと思います。そういう聴衆の層の厚みが、実は音楽の土壌なのではなかろうか。

(*):でも、ごはんの前に音楽を聴き始めないで、という妻の主張は正しい。「ごはんだよ~」の声が聞こえる前に、ちゃんと音楽が終わるようにするのが、素人音楽愛好家の保つべき節度であります(^o^)/

【追記】
文意をより明確化するために、「当然のことながら~振動音であります」と、接続詞「ところで」を追加しました。
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さすがにプロの文章~山形新聞の「山響」記事をスクラップする

2010年02月17日 06時05分41秒 | クラシック音楽
人口20万人規模の地方都市で、プロのオーケストラを持つところは少ないと思いますが、同様に人口120万程度の規模の県域地方紙が、このオーケストラの定期演奏会の報道や演奏会評を毎回きちんと掲載しているという例も珍しいだろうと思います。先日のモーツァルト定期演奏会について、翌14日(日)に、さっそく記事が掲載されました。音楽監督の飯森範親さんと、ソリストの八木健史さんを中心にした、山響の演奏風景をカラー写真で掲載するとともに、「ホルン独奏 力みなく」という見出しです。これに、「山形で山響『アマデウスへの旅』公演」という副見出しを添えています。

本文中では、こんなふうに。

八木さんの力みがなく、余裕の鳴らしぶりには「ブラボー」の喝采(かっさい)。弦楽曲が並んだ前半は、ディヴェルティメントK.136、「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の明朗さと対照的に、「アダージョとフーガ」K.546では厳粛な響きが包んだ。

という具合に、曲目と共に雰囲気をも伝えます。短いですが、情緒に流れず要点をおさえた的確な文章です。さすがにプロの文章だと感じます。署名記事ではありませんので、どなたが書いておられるのだろう?と、実は興味津津。おそらく記者さんなのだろうとは思いますが、スクラップしながらこのへんの詮索をするのもまた、地元紙を読む楽しみの一つです。
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コクヨのSystemicには、なぜB6がないのか

2010年02月16日 06時19分26秒 | 手帳文具書斎
当ブログのネタ帳としていま愛用しているノートは、コクヨのA5判のカバーノート"Systemic"です。これは、机上で使うにはちょうど良いのですが、手持ちで、あるいは膝上でなぐり書きでメモするには、少々大きすぎるようだ、というのが使ってみての実感です。いわゆるバイブルサイズも、B6判の幅を少し縮めたくらいの大きさですので、やっぱりB6判というサイズは、絶妙に使いやすい大きさのように思います。

そういえば、コクヨのカバーノートには、B5やA5、あるいはA6といったサイズはありますが、なぜかB6判というのは見当たらないように思います。なぜ Systemic のB6判はないのだろう? Moleskin を意識するとか、なにか権利関係の問題でもあるのでしょうか。

写真は、BUN2 2月号の「ノートは機能で選べ!」特集号と文庫本『アーサー王宮廷のヤンキー』と Jetstream の 1.0mm の替え芯など。うーん、私の場合、ノートは紙質とサイズで選んでおりまする(^o^;)/
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アホ猫と伊坂幸太郎『アヒルと鴨のコインロッカー』

2010年02月15日 06時15分34秒 | 読書
あのね、うちのご主人がね、最近、伊坂幸太郎さんっていう作家の小説を読んでいるようなのよ。おもしろいのが多いそうで、それはいいんだけど、こないだの『アヒルと鴨のコインロッカー』って、ひどい話じゃない?あたしたちネコ族にとっては、重大問題だわ。理由もなく猫をいたぶって殺しちゃうようなひどい人たちに、それをとがめた若者が脅されて、最後は車にひかれて死んじゃうっていうじゃない、そんなの、あたしたちにとっては、サイテーのお話よ。

「(警察に行くべきかな)」ドルジが口を開いた。
「(そうだね、でも)」と私は言葉を濁す。特に被害があったわけではなかった。「(そんなに大事じゃないよ)」言い聞かせるようにした。こんなの大したことじゃない。(p.171)

留学生のドルジ君と、仲良しの日本人の娘さんの会話だけど、ここが違うと思うわ~。あたしたちの仲間を殺しちゃう犯人でしょ、ここで警察に行かなかったら、いつ行くのよ!ぜ~ったいここが判断ミスだと思うわ~。

ご主人は、面白かったっていうけれど、若い人が、特にあたしたちをかわいがってくれそうな学生さんが、理由もなく死んでしまうお話は、切ないわよ。あたしのご主人は、被曝二世とかだそうで、日頃から意地でも長生きするって言ってるんだけど、作者の生と死を見る目が、ちょっと軽いように思えて、それがあたし的には気になるのよ~。

アホ猫が、クルミの脳みそでなにをエラそうなことを言ってるんだい。小説とね、現実とは違うの。そのくらい、覚えておけよ。一番いい席を取っちゃって、のうのうと寝てるくせに。ぷんぷん!
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山響モーツァルト交響曲全曲定期演奏会Vol.9で「小夜曲」やホルン協奏曲等を聴く

2010年02月14日 06時42分20秒 | -オーケストラ
ようやくスケジュールが空いた週末の土曜日、山形交響楽団によるモーツァルト交響曲全曲定期演奏会Vol.9 を聴きました。妻と二人、早めに会場の山形テルサに行き、今回は二階のバルコニー席を確保、少し時間があるので、妻は手芸用品店へ、私は駅ビル内の書店とCDショップとをのぞきます。時間をみて会場に入ると、戸外は冷えていても内部はぽかぽかです。足台のついた、ゆったりとした椅子にすわり、気持ちもほっとします。

恒例の指揮者によるプレコンサートトークでは、音楽監督の飯盛範親さんが本日のプログラムについて解説をしてくれました。それによれば、前半は弦楽合奏による曲目で、ディヴェルティメント ニ長調 K.136、アダージョとフーガ ハ短調 K.546、そしてセレナード ト長調 K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の三曲、後半はホルン協奏曲第3番とK.95のニ長調の交響曲というものです。

今日は、別の面で変化もありまして、コンサートマスター席には、長岡京室内アンサンブル(*1)の音楽監督で、高木和弘さんやヤンネ館野さんの先生でもある、森悠子さんが座ります。森さんは、パイヤール室内管弦楽団などヨーロッパで長く活躍され、五年ほど前に日本に帰って来られたそうで、飯森さんのご縁で客演と指導をお願いしたのだとか。

さて、楽員が登場します。最初は弦楽合奏だけの曲目ですので、編成は小規模に、8-8-6-5-3、すなわち第1・第2ヴァイオリンがそれぞれ第4プルトまで、ステージの左右に対向配置で、右奥にヴィオラが第3プルトまで、左奥にチェロが5、中央奥にコントラバスが3、というものです。モーツァルト定期らしく、女性奏者はカラフルなドレスで、視覚的にも華やかです。

最初の曲目、ディヴェルティメント ニ長調 K.136 は、耳馴染みのある音楽です。うーん、何かのテーマ音楽に使われたような気がしますが、思い出せません。第1楽章:アレグロ、第2楽章:アンダンテ、第3楽章:プレスト。たしかに、とても澄んだ音で、繰り返しを実行して弦楽合奏の魅力をいっぱいに味わいました。

続いて「アダージョとフーガ」ハ短調K.546 です。チューニングのあと登場した指揮者は、会場が完全に静まるまでじっと待ちます。低弦がリードする劇的なアダージョ。なるほど、ハ短調の響きです。緊張感に満ちた音楽はやがて全休止してフーガへ。ただし、バッハ風というよりは、ところどころ小刻みにふるえるような音を配し、たしかにヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの刻印が記されています。

前半の最後は セレナード ト長調 K.525「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」、いわゆる「小夜曲」です。第1楽章:おやおや、飯森さん、指揮棒なしです。山響としても、スクールコンサートなどで頻繁に演奏する曲目の一つでは?百人をこす規模の大オーケストラで聴く豪華なセレナードもよいけれど、30人くらいの弦楽アンサンブルで聴く「アイネクライネ」もいいものです。第2楽章:ロマンツェ、アンダンテ。ここからは指揮棒を持って。繊細なサワサワいう音が印象的。第3楽章:メヌエット、アレグレット。軽やかで短い曲です。第4楽章:ロンド、アレグロ。バランスを取りつつ、大きな音、強い音も聴かせます。たいへん楽しく聴きました。

指揮者は、1st-Vn、2nd-Vn、Vla、Vc のそれぞれトップを立たせて拍手を受け、そして楽員全員が起立して聴衆の拍手を受けます。紫色の上下の森さんは厳しくもあり、また心やさしい方のようで、犬伏さんと時々言葉をかわしながら、うれしそうです。

ここで15分の休憩です。当記事も、前半で休憩です。以下は、夜に追記したものです。

演奏会の後半、指揮者とともに本日のソリスト、山響主席ホルン奏者の八木健史さんの登場です。モーツァルトのホルン協奏曲第3番、第1楽章アレグロはオーケストラだけで始まり、ホルンは「お待ちかね!」といった風情で開始します。ところがこれが、朗々と鳴る音に思わず魅了されるという仕掛けです。カデンツァの部分も、ラッパの内部に突っ込んだ右手を駆使しているのでしょうか、ちょっとヴァイオリンの重音みたいな面白い音を出しています。ご本人はいたって普通の顔で、安定して吹いていますので、思わずすごいぞ~と感嘆!
第2楽章:ロマンツェ、ラルゲット。音域の広いホルンの奏者は、モーツァルトにとって愛すべきキャラクターなのでしょうか、それともロイトゲープという奏者が愛すべきキャラクターだったのでしょうか。楽器を自在に操り牧歌的な旋律を歌う八木さんの様子は、堂々たる貫禄なのですけれど。
第3楽章:アレグロ。楽しい狩りのロンドです。オーケストラに対し、ホルンが強い音で主張したかと思うと、ぐっと弱い音でリズミカルなフレーズを吹きます。しかも、やすやすと吹いているように見えます!いやー、素晴らしい!思わずブラボーの声が飛び、山響の管楽器セクションの奏者の皆さんもニコニコです。

協奏曲の醍醐味を味わった後で、こんどは 交響曲ニ長調K.95 です。ステージ中央にフルート(2)、オーボエ(2)、バロック・トランペット(2)が加わります。おやおや、解説ではティンパニが入るとありますが、実際にはティンパニは加わらず、ファゴットの高橋さんが加わります。
第1楽章:アレグロ、ニ長調、2分の2拍子、ソナタ形式。
第2楽章:アンダンテ、ト長調、4分の3拍子。第2ヴァイオリンの持続音を背景に、フルートが明るく活躍します。弦の上に乗るフルートの音色は、あくまでも素直です。
第3楽章:メヌエット、ニ長調、4分の3拍子。けっこう活発な生気に富む音楽だと思っていると、一転して表情を曇らせ、また生気を取り戻したように、オーボエ、ファゴット、トランペットが身振りのはっきりした旋律を奏します。
第4楽章:アレグロ、ニ長調、4分の2拍子。フルートはお休みで、弦楽に加えてオーボエ、ファゴット、トランペットが働きます。ちょいと後年のモーツァルトを思わせるような力強さを持った、晴れやかで明快な音楽のフィナーレです。こういう言い方もなんですが、モーツァルトの少年時代、現代ならば中学生頃の作品とはとても思えない、けっこう面白い立派な作品ですね~。気持ちよく堪能いたしました。



終演後、例によってファンの集いが開かれました。なんだか今回はずいぶん人数が多いような気がします。もしかすると、森悠子先生目当ての弦楽器ファンや、ホルン協奏曲の感激さめやらぬ学生吹奏楽部員なども混じっているのでしょうか。ずっと後ろの方から、ようやく写真が撮れました。



そうそう、配布されたチラシの中に、うれしいニュースもありました。以前、ベートーヴェンの七重奏曲を聴く機会を得た「パストラーレ室内合奏団」が、第2回めの演奏会を開くというのです。4月1日というから、まさかエイプリルフールではないでしょうが、曲目がなんとシューベルトの八重奏曲!たしか、前回のリクエストに書いたような気がします。もう一つは、ベートーヴェンの弦楽四重奏曲第3番。6時45分、文翔館議場ホールにて。一般は前売2,000円、当日2,500円。うーん、行きたいぞ~。年度初めの平日、さて間に合うかどうか?

(*1):長岡京室内アンサンブル
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