「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

普天間移設代替案 今度は伊江島?

2012-07-30 21:05:58 | 沖縄



普天間移設代替案にあがっている伊江島補助飛行場








空から見た伊江島に3本の滑走路が見える
上から伊江空港・伊江島補助飛行場・米軍が利用する滑走路








島内の米軍施設には鉄条網が張り巡らされている








米軍基地内にある管制塔( 監視塔? )








備瀬から見た伊江島のシンボル 「 伊江島タッチュー ( ぐすくやま ) 」





米軍再編に関する米国防総省第三者機関の報告書には、
米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設が実現しない場合について、
二つの県内移設代替案が記されていた。
ひとつは、過剰なまでの離着陸を繰り返す那覇空港の未着工の那覇空港第2滑走路。
二つ目は、伊江島補助飛行場(伊江村)である。
民主党政権誕生後、県外移設を訴えてきた沖縄では、
県内移設に固執する米国への反発の声が改めて上がった。

沖縄本島北部にある本部から約5キロに浮かぶ伊江島。
ここは 「 沖縄戦の縮図 」 と言われるほどの激戦地だった。

 「沖縄戦で壊滅した伊江島に移設するなんて、言葉で表せないほどの怒りを覚える。
沖縄中が反対している県内移設にこだわるのは県民をばかにしている」。
伊江村の反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」館長の謝花(じゃはな)悦子さんは声を震わせた。

今回の那覇空港にしても伊江島にしても普天間移設については、
辺野古移設計画を断念させたように思わせるアメリカのトリックだと思う。
鹿児島の徳之島にしても馬毛島にしても然りである。
オスプレイではないが、いくら地域住民が反対しても 「 搬入ありき 」 である。
今度も 「 辺野古ありき 」 だろう。


6月23日、糸満市の摩文仁で行なわれた沖縄全戦没者追悼式で、
野田総理は、「 沖縄県民斯く戦えり 」
「 県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを 」 で締めくくられた電文を引用したにもかかわらず、
オスプレイ搬入や普天間移設の昏迷は、沖縄県民にとって 「 特別の御高配 」 と言えるだろうか!






熊本県宇城市  「 日本古碑・浄水寺跡石碑群 」

2012-07-30 20:32:47 |  滝 ・ 名所 ・ 神社仏閣



灯籠竿石および塔の路盤







浄水寺南大門碑







右から灯籠竿石および塔の路盤・妙法経碑・浄水寺寺領碑







浄水寺四碑補修碑








妙法経碑






浄水寺南大門碑の前に建つ浄水寺四碑補修碑







日本古碑・浄水寺跡石碑群のある浄水寺入り口












日本には古碑と呼ばれるものが24基あるが、
現存するものは17基しか残っていない。
その内の4基が浄水寺跡に残されている。

石碑群は、九州のほぼ中央に位置する熊本県宇城市豊野町小熊野川の
谷間にのぞむ丘陵地の浄水寺にある。

先日、紹介した御手洗水源の上にある浄水寺跡は、
奈良時代末期に建立された古代寺院の跡で、
境内には延暦9年(西暦790年)創建の碑、
延暦20年(西暦801年)に建造された燈楼の竿石、
天長3年(西暦826年)の寺領の碑は、
国内に類例がなく、詳細な寺領に関する碑文は、
極めて貴重な歴史資料である。
石碑はほぼ方柱で、第一面には、寺を建てた由来。
第二面・第三面には、当時の条理呼称法に則り、
浄水寺の料田が細かく記録されている。
第四面 ( 南面 ) には、文字は記されていない。

康平7年(西暦1064年)の如法経塔があり、
また塔の跡と考えられる礎石郡が残っている。

天長5年(西暦828年)には定額寺となり、
奈良時代の終わりから平安時代のはじめにかけての30数年間で
肥後有数の大寺院に発展した貴重な寺院跡である。
昭和34年12月8日に県の重要文化財に指定されている。




沖縄県那覇市  ・  ウエイトリフティング 「 大城みさきの手 」

2012-07-30 19:43:13 | スポーツ








ロンドンオリンピック、ウエイトリフティング48キロ級で銀メダルに輝いた三宅宏実。
スナッチの1回目。差し挙げたのは83キロ。
その重量は、今まで沖縄の大城みさきが持っていた日本記録である。
そして2回目、三宅は85キロを挙げて日本記録を更新し、
3回目はさらに87キロを挙げて日本新記録を伸ばした。
第一回目が一番緊張するという重量をいきなり大城の持つ83キロから臨んだのは、
三宅自身がつけたかった区切りとこれから挙げてゆく重量への自信だったのではなかろうか。
この成功を皮切りに銀メダルへと一気に進んだ。


2008年の北京オリンピックでウエイトリフティング女子48キロ級8位の
大城みさきの手型が那覇の沖映通りにある。
その手形と重ね合わせてみたが、
小さくてとても日本記録保持者とは思えないものだった。
「 こんな小さな手で83キロもの重さを一気に頭上まで差し挙げていたのか 」 と感嘆しまった。

彼女のスナッチは自他共に認める一級品である。
重量挙げはしゃがんだ姿勢で踏ん張るため、
普通はかかとの高さ3センチほどの専用シューズを使う。
だが、大城はスナッチに限り、かかと部分を切除した平らなシューズを履いていた。
シューズも独特ならば、フォームも独特であった。
通常は、垂直に近い軌道でバーベルを挙げるのが基本とされるが、
大城のスナッチは 「 振り回すイメージ 」 で挙げるときに
ピョンと20センチ近く後ろに下がるのである。

このスタイルには理由がある。
沖縄県南部の南風原 ( はえばる ) 高校2年の時、比嘉敏彦監督の勧めで競技を始めたが、
当時から足首が柔らか過ぎて、しゃがむと尻が床につくことがあった。
ルール上は失敗になるため試行錯誤を重ねた結果、
卒業から2年後、独特なフォームとシューズにたどり着いたのである。

 同じ階級で、ジャークとトータルの日本記録を持つ三宅宏実について、
「 雲の上の人。でも、スナッチだけは負けない 」 と大城は云う。
自分だけの得意技に、強い自負があったのだろう。