四菱の家紋に囲まれた義久の墓
墓の下の池にある供養塔
尼子義久は、戦国時代に中国地方11カ国を制圧した
山陰の勇将・尼子経久の曾孫に当たります。
父・晴久の代までは、出雲の守護としての威風を誇っていました。
しかし、義久の代になると毛利元就の台頭によって、
本拠である出雲国に侵攻を許し、永禄9年 ( 1566 ) には月山富田城が落城、
ついには毛利氏の軍門に降りました。
義久は安芸長田の円明寺に幽閉された後、
関が原の合戦に敗れた毛利輝元の長州転封に従って、阿武町奈古に移住。
この地で千石余りの給付を与えられ客分として過ごし、
後に出家して 「 友林 」 と称すが、
慶長15年 ( 1610 ) に70年の生涯を閉じた。
義久が帰依した光応寺の住職・恵心和尚は、
義久の法号 「 大覚寺殿 」 によって寺号を 「 大覚寺 」 と改め、
同寺には義久の位牌と木像が寺宝として保管されています。
境内の裏山には四菱の家紋に囲まれた義久の墓が、
400余年経った今もひっそりと佇んでいる。
また、子孫によって保管されていた尼子氏を代表する武将・尼子経久と晴久の肖像画は、
県指定有形文化財として、現在は山口県立博物館に保管されている。