ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

感謝すること

2018-08-23 | アメリカ事情

 http://clipart-library.com/

 


感謝しています;

 

夕飯はホットドッグよ、と言っている妻に。何故なら彼女は夫の私と一緒に家にいて、誰か他の人と一緒にいるのではないから。


https://commons.wikimedia.org


カウチでカウチポテト*になっている夫に。 彼は妻の私と一緒に家にいて、一人でバーに出かけていないのですから。


https://gifer.com

世界で最も可愛いカウチ・ポテト


*カウチポテトとは、カウチ(ソファ)に座り込んだ(寝そべった)まま動かず、テレビを見て、だらだらと長時間を過ごす人を、「カウチ(ソファ)に転がっているジャガイモ」に例えて揶揄した、アメリカの俗語的表現である。怠惰で運動不足の上、ポテトチップスなどのジャンクフードばかりを食べ、肥満などの不健康な生活状態にあること。


食後の皿洗いに不満を表明しているティーンエイジャーに。何故ならば彼女は家にいて、通りを目的もなくほっつき歩いているのではないからです。



私が支払う税金に。それは私が雇用されていることを意味するからです。


http://summitsettlements.com


パーティーの後片付けに。何故ならば私は友達に囲まれているからです。


stock.adobe.com


ちょっとぴったり過ぎの服に。それは私には十分な食べ物があると言う意味です。


https://www.livestrong.com


私が働くのを見る私自身の影に。私が明るい日差しの中にいることを意味するからです。


芝刈りが必要な芝生、掃除が必要な窓、修理が必要な雨樋に。それは私に住む家があるという意味だからです。




istockphoto.com



政府についての不平不満に。何故ならば、そこに言論の自由があるからです。


https://www.timeshighereducation.com


駐車場の一番端の遠い所にやっと見つかった駐車スポットに。何故ならばそれは私が歩くことができ、また私には運転できる車があるという意味だからです。


私の巨大な光熱費請求書に。私が寒い日々家の中で暖かく過ごせ、酷暑の夏には快適に過ごせることを意味します。


https://www.sparkenergy.com/


教会ですぐ後ろに座っている女性の音階がひどくずれていて、つまりとても音痴なことに。何故ならば私には、それを聞ける耳があるからです。


山のような洗濯とアイロンかけに。それは私が着る服を持っていることを意味するからです。


https://www.thesun.co.uk


一日の終わりに痛む筋肉と疲労に。それは私が一生懸命働くことができたことを意味するからです。


早朝に鳴り響く目覚まし時計に。それは私が生きていることを意味するからです。


ー作者不詳



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間違いから学ぶ

2018-08-21 | アメリカ事情

http://gvsigmini.org

 



トーマス・エジソンは電球のフィラメントの材料を探して、2千種類の物を試した。その一つも 満足に働かなかった時、彼の助手は、愚痴をこぼした。「私たちのしてきたことはすべて無駄です。 私たちは何ひとつ学んではいません。」


 

エジソンは非常に自信を持って答えた。「ああ、私たちは長い道のりを歩み、多くを学んだよ。 良い電球を作るのに、2千種類の材料は、使えないということがわかったじゃないか。」


 

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ヴァンゴッホの耳 その2

2018-08-19 | アメリカ事情

“Self-Portrait with Bandaged Ear,” 1889, by Vincent Van GoghPrivate Collection/Bridgeman Images

 

 

ヴァンゴッホの耳 その1の続き。

 

彼女はアーヴィング・ストーンの史料のありかを、カリフォルニア大学バークレー校のバンクロフト図書館へと辿り、公文書保管者のデイヴィッド・ケスラーに問題の文書を検索してもらうよう電子メールでやりとりをした。その小さな図は二つに折り畳まれていたので、(見逃されがちだろうと検討をつけていた)彼女はそれがとうとう見つけられるまでに、5回も、「もう一度見てください」、としつこく頼まなければならなかった。しかし、この極めて重大な発見をした後でさえ、昨夏(2015年夏)ヴァンゴッホ博物館でそのスケッチを発表するまで、我慢強くその立証を強化しつつ、静かに沈黙を守った。


「それに何か価値があることは分かっていましたが、誰も私が誰であるか知らないことを知っていました。私がそれ(図)がどういうものかを証明しようとするなれば、議論の余地がないほどしっかりと証明するために、あらゆる角度でそれを論証する準備をしなければなりませんでした。」と彼女は言う。「人々はいつも別説を信じてきたので、真実の話がどこでどう間違ってしまったのか、を知る必要があったのです。」


マーフィーは(事件後に描かれた)ヴァン・ゴッホの自己肖像画を手掛かりに研究していった。地元の救急医務室医師に相談したところ、(肖像画での画家の)絆創膏の下の詰め物の分厚さから、切断された耳たぶからだけよりも多くの出血を示していると言うことだった。マーフィーが、もう一度読み返したヴァンゴッホの書簡によれば、抗生物質がない時代ひどい外傷を負うことにつきものだった感染と発熱のあったことが書かれており、入院してから二週間後に退院したことは、回復が複雑な道を辿り、また多量の失血をしていたことを示していた。


1888年の事件直後にヴァンゴッホを訪ねた友人の画家、ポール・シニャックによる目撃談の、ヴァンゴッホは、ただ耳たぶだけを切り取ったというのが、根強い確信の由来であった。 1921年の手紙で、ポール・シニャックはヴァンゴッホが「耳全体ではなく耳たぶを切り取っている」と回想している。

 

「私はフランス語を読みますが、(シニャックの)手紙のほんの些細な抜粋を除いて、そのすべてが、全く出版されてはいません。」とマーフィーは言う。 「彼の完全な手紙には、彼が最後にヴァンゴッホを見た折に、頭に包帯を巻き、その上に毛皮の帽子を被り、いつものような服装だった、と言っています。彼(ヴァンゴッホ)は『ビンゴ(ゲーム)に行ってきた』と言い、頭に巻かれていた包帯のせいで、実際にヴァンゴッホの耳を完全に(シニャック)は見てはいませんでした。」


彼女は、他の記述や談話を鑑みても、ヴァンゴッホは、いつも耳を覆っていたということであったので、シニャックの言い回しが、あたかも福音のように固定観念として根付いたのだろうと観ている。


「おそらく、ポール・シニャックは少し残っていたのが耳たぶだったので、少々ヴァンゴッホ(の真の状態)を誤解したようだ」と彼女は言う。 「私は、彼(シニャック)が包帯に覆われていない状態を一度も見ていなかったと理解してからは、話は、(ヴァンゴッホが)大量失血した、ということで、停滞したのです」と語った。

 

ヴァン・ゴッホがその夜、切り落とされた耳を、いつも単に 「レイチェル」と呼んでいた売春宿の女性に持っていったのだが、その女性が何者なのかもわかっておらず、これまた大きな質問の一つだった。マーフィーは当時の国勢調査記録を捜し出し、そこに「レイチェル」という娼婦を見つけようとしたが、どこにもその名はなかった。しかし同時に彼女は新しく見つけた報道されていた報告のひとつに、この女性が「ギャビー(Gaby)」と名づけられていることに気付いたのだった。そして、確かに、彼女はガブリエル(ギャビーはガブリエルの短い名前)が国勢調査に載っているのを発見した。


彼女はアルルで少数の人に電話をかけて、その女性ギャビーの子孫を追跡することに成功した。子孫らは素性を明らかにされたくはなかったが、ガブリエルは狂犬病の犬にかまれて、1888年1月にルイ・パスツールがその頃ちょうど狂犬病ワクチンを発見したばかりのパリに送られてきたのだった、と語った。ガブリエルがアルルに戻った時、彼女は売春婦ではなく、売春宿で女中として仕事を始め、(狂犬病治療の)医療費を支払う助けにしたのだった。


マーフィーは彼女(ガブリエル)の医療記録を発見し、ヴァンゴッホの書簡を再検討したところ、パスツール研究所に狂犬病を疾病した女性達が住んでいたという下りを見つけたのだった。この偶然が、マーフィーに、ヴァンゴッホとガブリエルは、パリで初めて出会い、画家は1888年2月にアルルへと引き払ったのだ、という説を思いつかさせた。


しかし、マーフィーによる彼の耳についての発見とは異なり、この物語の第1章に成るべく章は、単なる推論に過ぎない。


「世界中のあらゆる場所の中から、なぜ、ヴィンセントはアルルに行ったのか、誰も知り得ないのです。論理に叶う場所はマルセイユ(パリでヴァンゴッホと出会ったかもしれないポール・セザンヌのような印象派画家に影響を与えた都市)でした。 多分彼は印象派の人々にパリで会ったことは会ったかもしれませんが。」とマーフィーは言う。 「それは証明できるものではなく、単なる可能性です。」


https://nypost.com  

      

“Van Gogh’s Ear, The True Story” 著者バーナデット・マーフィ女史とその著書日本語版

 

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ヴァンゴッホの耳 その1

2018-08-17 | 調査・探求

ヴァンゴッホの「包帯された耳のある自画像」1889年 Credit: The Samuel Courtauld Trust

 

 

美術館で、どんな小学生や観覧客にでも、画家ヴィンセント・ヴァンゴッホについて、なにをご存知か尋ねると、「星空の夜」や他の傑作については挙げない。
彼らはこう答える: 「彼は自分の耳を切リ落としました。」と。

 

しかし、1888年12月23日の運命の夜に起こったことについての真相はーこの画家は一瞬の狂気の沙汰で、耳すべてを切り落としたのか、それとも耳朶(耳たぶ)を切ってしまっただけだろうか?ー 数十年にわたり美術史家達を分割していた、昨年(2015年)の夏までは。 アマチュア歴史家のバーナデット・マーフィーが、事件後ゴッホを治療した医師がスケッチした、画家が左耳たぶのほんの小片を除くすべてを切り落としたことを示す図を含む本を出版したのだ。

 

出版された本と併せてドキュメンタリー「死者の秘密:ヴァンゴッホの耳」が制作され、 PBS局(米国・公共放送サーヴィス)で水曜日夜10:00から放映される(注:2016年12月のことだが、2018年8月初旬にも再放送された)が、これは、このミステリーに焦点を当て、フランスに住む英国人が、どのようにして真相へのヴェールを最終的に破ったか、その証拠を明らかにしていくものである。

 

バーナデット・マーフィー(58歳・2016年当時)は、33年前に英国からフランスのプロヴァンスに移住し、アルルから約1時間運転したところにある人口800人の村に住んでいる。アルルに、ヴァン・ゴッホは1888〜89年の16ヶ月間住み、 そこで200枚の絵画を描いた。マーフィーが、家族や友人と頻繁にアルルの町を訪れると、話は常にゴッホについてだった。

 

「私はアルルの史料館の庭を歩き回っては、ガイドが『彼は耳全体ではなく耳たぶを切り取っている』と言うのを聞くかと思うと、もう一人のガイドは、『彼は 耳すべてを切り落とした』と言うのも聞いたのです。何故真相を知ろうとせず、馬鹿げた言い合いをしているのだろうか、と見えたのです。」とマーフィーはポスト紙に語る。「警察が呼び出されたにもかかわらず、その夜に何が起こったのかは、実際には分かってはいなかったのです。 これに関しての医療記録があったはずです。」

 

当時35歳のヴァン・ゴッホは、その年の12月に、常軌を逸した行動を見せ、わずか2ヶ月で同居していた画家ポール・ゴーギャンを新進芸術家コロニーから追い出してしまったほどだった。12月23日、ヴァンゴッホはパリに住む弟ティオから、婚約した、との手紙を受け取り、これで弟からの財政的援助や感情的支援を失うのではないか、と恐れ、どうやらそのせいで、自身の耳を切り落とす行動に出たようだ。

 

2008年後半にマーフィーが病気療養で家にひき籠った時、彼女はその(ゴッホの)事件について読み始めた。読み進むうちに、彼女は、事件の不一致性に興味を持ち、最近の姉の死をきっかけに、自分の人生のこれからは重要なことを達成していこう、と動機づけられ 、 地元の美術学校での教職を辞めて、それからの7年間のほとんどを、証拠収集や、その発見を本「ヴァンゴッホの耳」に書くのに費やした。

 

「(ヴァンゴッホの事件のあった)この地域に住んでいると、(ヴァンゴッホの事件についての)話には、小さな間違いや、真実を伝えてはいないことに気が付いたのです。」と彼女は言う。「それを見極める唯一の方法は、探偵や刑事が、未解決事件を再調査するようなことでした。そして私はそれをしたのです。こんなに長い時間がかかるとは思いませんでした。」

 

マーフィーは若い時から好奇心が旺盛であった。ロンドン郊外で労働者階級の八人の子供の最後に生まれ、読書や、公立図書館を利用することを、奨励されて育った。そして過去に彼女のアイルランドの家系を探求・研究をしてきた経験から、公式の記録を超えて史実が往々にしてあることを教えられたと、彼女は信じている。

 

彼女がヴァンゴッホの研究を開始したばかりの頃、あの運命の夜についての当時の新聞記事は、一つしか存在しなかったー50以上の新聞社や資料館に電話をかけたり、足を運んだり(その多くは現在のように記録がデジタル化されてはいなかった)することで、彼女はさらに4件の記事・記録(彼が剃刀を使用したことを裏付ける記録を含む)を掘り返した。この画家の書簡類を読んでわかったことは、誰も彼のオランダ姓を発音できなかったので、名前の "Vincent"ヴィンセントとだけ署名するよう心得ていたことである。記事記録は、"Van Gogh"ヴァンゴッホという姓を含んでいなかったし、それ故彼についての書かれたいくつかの新聞記事は、以前の調査で見逃されていたのだった。

 

調査を始めてから一年後の2010年1月、彼女はこの謎解きに重要な、いわゆる「硝煙の立ちのぼる銃」(=決定的証拠)を発見したのだ―ヴァンゴッホの医師、フェリックス・レイ博士が描いた、彼の耳が耳たぶの一部を残してすべて切り落とされているのを示す図である。アムステルダムにあるヴァンゴッホ美術館研究図書室での、非常に衝撃的な発見への手がかりは、以前は見逃されていたタイム誌編集者からの1955年付けの手紙であった。それは、ヴァンゴッホが自分の耳全てを切り落とした、という記事を間違いだと批判した読者のクレームへの返信だった。 その編集者は、クレーム者への返信に、1934年に生まれたヴァンゴッホの”Life for Lust”(邦題:「炎の人」)小説を書いた著者アーヴィング・ストーンが、画家が何をしたかを正確に示した図を所有している、と述べたのだ。

 

「1955年のこの手紙に述べられている図が、未だ存在しているのかと、私はずっと考え続けていましたが、確かにそれはまだ存在していたのです」とマーフィーは言う。

 

 

ヴァンゴッホの耳がすこしの耳たぶを残して切り取られたのを示すヴァンゴッホの医師による図:バンクロフト図書館(University of California, Berkeley)

 

  

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旅立ちの年

2018-08-16 | アメリカ事情

https://www.uhaul.com



ついこの間、長男がカリフォルニア州からフロリダ州へ、引っ越ししたが、先週末は、末娘夫婦が、サンディエゴへ越した。今月末から法学校へ夫が進む。末娘もカリフォルニア大学付属病院に採用された。引っ越しは、カリフォルニア州内である。


だが、ここからサンディエゴまで交通がスムーズならば、五時間ちょっとかかるが、娘達は七時間かかってしまった。州間高速道路5号線を南に行くと、中央カリフォルニアと南カリフォルニアの間にあるグレイプ・ヴァインとよばれる1,410フィート(457 m)の標高の山を通るが、そこから渋滞がロサンジェルスまでずっと続いた。時は夏、今週から、あるいは来週から新学期の始まるカリフォルニア州で、最後の家族ヴァケイションを楽しもうとする人々の車で、すっかり混みあうのが常だ。


このグレイプ・ヴァインは、1933~1934年に拡張され、山中でもほぼまっすぐな道になったとはいえ、冬季は積雪・凍結で閉鎖されることが多く、物流の主要幹線道路である故に、大きなセマイ・トラックが、五マイルは続く16度の勾配に苦労し、タイヤを破裂させたり、ブレーキが利かなくなったりすることがあり、そうしたトラック用に、道路の下向きの部分の両側から分岐するエスケープランプがある。つまりここを運転する折は、常に周りにいるそうした大型トラックの事情に気を付け、事故に巻き込まれないようにしなければならないし、今回は引っ越し用に借りたU-hallトラックを娘の夫とその父親が運転していくので、その後ろをセダンで行く娘は、ハラハラと運転したそうだ。


グレイプ・ヴァイン:滅多にないが、すいている状態。夏は山火事、冬は積雪・凍結で閉鎖されることがたびたびある。



住居はサンディエゴ・ダウンタウンにある高層アパートで、法学校へは徒歩で行けるほど近い。例の小室圭氏ではないが、娘の夫も、法学校から奨学金(アメリカの奨学金は返済不要)を獲得し、幸先のよいスタートとなった。これから三年、しっかり頑張って勉強してくれることを願う。彼の兄弟の一人も現在北加の法学校に在籍し、父親も弁護士なので、これから先アドヴァイスを得るには、事欠かないことだろう。



 http:/ce.org

ダウンタウン・サンディゴ

 


今年は子供五人のうち三人にとっては、大きな飛躍があり、また引っ越しの年である。次男は一月にハワイからドイツへ、前述の長男も然り、そして今月は、末娘夫婦である。それぞれ新しい地で、新しい仕事と学校である。 どの地においても、どの職業や学校で、最善を尽くし、全力を尽くして頑張れるよう、心から祈る。各地に点在する子供達だが、それぞれが助け合い、協力し、健康に幸せにやってくれれば、私(夫も)は、他になにも望まない。フロリダには、すでに二人の息子家族がいるので、カリフォルニアに比べてヨーロッパに近いこともあり、感謝祭やクリスマスや復活祭は、次男一家も簡単にやって来れる。今度はマイアミで家族揃おうか、などと、もうそんな話も出ている。


十二人の子や孫が訪問していた今年の夏も終わり、我が家はやっと、潮が引いたように、しーんとして、毎食事時十四人前(私達夫婦も含めて)の食事を用意する忙しさも遠い日の喧噪になりつつある。まるでエコーが返ってきそうな静けさと空間のある家で、私が「おーい、」と呼べば、夫の声だけが、どこからか「なあにー?」と返ってくるだけだ。それもまた善きこと哉。



Photo Credit: GETTY

巣がカラになると、つまり、こんなことだって、できちゃうわけね。


 

 

 

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