つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

いしかわ動物愛護センター見学記。

2024年05月19日 08時00分00秒 | 日記
                      
我が愛犬「りくすけ」が亡くなってから3ヶ月以上になる。
彼の命日は今年(2024)の立春・2月4日。
季節は流れ本日(2024/05/19)は立夏の末。
時は止まらず、季節は巡り、過去はどんどん遠のき忘却してゆくのが常だ。
しかし、まだ愛犬の死は鮮明に脳裏に刻まれている。
しかも、奇妙なことに実感が極めて薄い。
僕の腕の中で息絶えた姿はハッキリ覚えているのに、どうも腑に落ちないのである。

やはり生き物は二度死ぬのだと思う。
一度目は、生命を維持できなくなり迎える肉体の死。
二度目は、その死を受入れてから訪れる精神の決別。
どうやら僕にはまだ、彼の二度目の死は到来していないようだ。

--- さて、枕が長くなってしまった。

人生の相方とも言えるペットだが、
犬と猫に限っても、国内に於ける飼育頭数は1,600万近い。
数が増えれば、問題も出てくる。
周囲とトラブルになったり、動物虐待になったり、終生飼育を放棄したり。
様々な理由で飼育継続が困難になるケースもあるだろう。
石川県なら自然災害「令和6年 能登半島地震」が顕著な事例である。

そんな世の中の情勢を反映して、津幡町の県森林公園に犬や猫の保護・譲渡を推進する施設
いしかわ動物愛護センター」(LINKアリ)が、先々月(2024/04/14)整備された。





センター本館は、木造平屋建て。 
広さが延べ1000平方メートル。
森林公園内の間伐材だった「スギ」、石川県を代表する木材「能登ヒバ」が材料になっていて、
真新しい館内エントランスに一歩足を踏み入れれば、爽やかな木の香りが包み込んでくれる。
森林公園の敷地内にあるだけに、街のノイズは届かない。
耳にする音と言えば梢を渡る風くらい。
環境の良さは折り紙付きである。





内部には、保護された犬猫の心身への負担を減らすべく温度・湿度を保つ「飼育室」。
シャンプー、トリミング用の「グルーミング室」。
譲渡希望者が動物との相性を確認できる「マッチング室」などがある。
また「研修室」では、今後“社会化ボランティア”の研修も予定していると聞いた。
これは人馴れしていない動物を預かり家庭内で飼育することで、
人間社会への適応を図り、譲渡推進につなげるのが目標。
現在、被災地で保護された犬猫が多く収容されていて、
中にはストレスを感じ社会化が進みづらい個体もいるとか。
致し方なく、解消するための取り組みは意義深い。





保護された動物の譲渡手順は以下のとおり。
まずセンタースタッフの説明を聞きながら見学。
譲渡基準を確認し講習を受講。
個別面談を経て正式譲渡。 
大切な何かを学ぶ経験になり、動物を慈しむ心を教えてくれる場所。
それが「いしかわ動物愛護センター」だ。



屋外には、2000平方メートルのドッグランを整備中で、
来月・7月下旬に運用を始める予定。
今後の活動~発展に期待したい。
◆開館時間:午前9時から午後5時まで
◆休館日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合、翌平日)、12/29~1/3
機会と時間が許すなら、足を運んでみてはいかがだろうか。
                           
                            
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あの日のスイッチ。

2024年05月01日 10時00分00秒 | 日記
                            
本日(2024/05/01)「令和6年能登半島地震」発災から4ヶ月が経つ。
節目にあたり、各種メディアやネットで話題になる機会は少なくない。
当然だが、その露出回数、度合いは徐々に縮小している。
時は決して止まらず、何事も次第に過去へと押し流されてゆくのは避けようがない。
僕自身も以前に比べれば、地震について考えていない時間が増えた。

だが「あの日」--- 僕の心には「スイッチ」ができた。
「あの恐怖」を思い出させる真にもって厄介な装置である。
・何度も襲い掛かってくる大地の震え。
・何度も繰り返し耳にした大津波警報。
・音を立てて軋む中で物が倒れる光景。
・ただ無事を祈るしかない無力な自分。
--- それらの記憶は、呼び覚ますと少しだけ動悸を早くする。

『おい、忘れるんじゃねえぞ』

まるで普段は心の牢獄に閉じ込めた魔物が、そう囁いているかのようだ。
奥能登全域や、液状化が激しい隣町の比ではないが、
わが津幡町でも散見できる地震の爪痕に近づいた時などに、
突然スイッチが入ったりする。




(※津幡町内跨線橋のひび割れ 2024/04/28撮影)

令和6年4月末現在、
石川県内の避難者数内訳は、学校や公民館など1次避難所に2千人以上。
被災地から離れたホテルや旅館など2次避難所に2千人近く。
断水は、被害が大きかった奥能登のおよそ4千戸あまりを除き解消。
しかし家屋内の配管損傷が激しく通水できないケースが多い。
また、自治体が所有者に代わり建物を解体・撤去する「公費解体」は、
審査・申請があまり進んでいないという。


(※津幡町役場裏で給水に並ぶ行列 2024/01/05撮影)

さて、先日、輪島に住む知人女性と電話で話をした。
度々スマホに登録してある番号をタップしようとしたが、躊躇していた。
果たしてどんな状況にあるのか?
そもそも無事でいるのかどうか?
安否も確認できていなかったが、SNSが更新されているのを見て電話をかけた。
すると、今も避難所にいるとの事。
復興はおろか復旧にも程遠い暮らしぶり、発災からの心情を聞き、胸が痛んだ。

話を終える間際、
大変な状態に置かれているにも拘わらず---
『わざわざありがとう。嬉しかった。健康に気を付けて』
---と優しい言葉に落涙しそうになり、
慌てて素っ気なく電話を切ってしまった。
そして「スイッチ」が入った。

牢獄の鎖から解き放たれた魔物が、脳裏を暴れまわる。
周囲が揺れているような気がしたのは、そいつのせいばかりではない。
嗚咽を漏らす僕の身体が小刻みに震えていた。
                           
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小品、花曼荼羅。

2024年04月28日 16時31分31秒 | 日記
                              
本日(2024/04/28)は、本州付近に暖かい空気が流れ込み各地で気温が上昇。
全国的に「夏日」。
今年初の「真夏日」となったところも少なくない。
この先、明日・昭和の日も暑さが続く予報。
体が暑さに慣れていない時期は、熱中症に注意が必要と聞く。
最高気温が25℃程度でも体内の熱を放出しにくく、体調を崩す要因になり得る。
大型連休中は屋外で過ごす時間が長くなりがち。
お互いに熱中症対策を疎かにしたくないものだ。



さて、そんな陽気のお陰か---
津幡町内では「サツキツツジ」が盛りを迎えている。
名前からも分かる通り、本来の開花時期は皐月。
現在の暦では5月半ば以降にあたる。
撮影したのは今投稿の5日前。
一足早く咲いた格好だ。



何と鮮やかな紅(くれない)だろうか。
その主張の強い咲きっぷりは、
「花曼荼羅」とでも形容したくなるのである。
                
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企画展「あそびの道具」に寄せて。

2024年04月21日 13時13分13秒 | 日記
                    
わが津幡町の施設「津幡ふるさと歴史館 れきしる」に於いて、
企画展「あそびの道具」が始まった。

<昔から、土地の風土や文化に根付いた多くの玩具が作られてきました。
 縁起物として子供に買い与えられたり、身近な素材で作ったりと、
 玩具の文化から子供たちへのやさしいまなざしが感じられます。
 木製のコマやガラス製のおはじき、
 手作りの木馬やブリキ製のおもちゃなどが中心であった昭和時代。
 そして平成に入ると電子機器を利用した遊び・おもちゃの道具へと様変わりしてきました。
 今回は、大切に使われたおもちゃや手作りのおもちゃなど、
 貴重なものをお借りできました。
 主な展示品は、手作りおもちゃ、動かして遊ぶおもちゃ、カードゲームやミニカー、
 テレビゲームなど263点余です。
 懐かしいおもちゃや今でも使っている、遊んでいるおもちゃがあります。
 時代によっておもちゃを使った遊び方が違っていること、
 移り変わってきていることを感じていただければ幸いです。
 どうぞごゆっくりご覧ください。>

(※   >内、企画展リーフレットより引用/原文ママ)



上記のとおり、展示室内には昭和を中心に明治~平成と、
近現代150年に亘り町民が使ってきた玩具の数々が並ぶ。
来場者の年齢・人生のバックボーンにより、
感情や感慨を抱く対象、度合いは違う。
よって、今投稿は僕(りくすけ)個人の視点で、幾つか紹介してみたい。



画像奥が「任天堂ファミリーコンピューター」(昭和58年)。
手前に陣取るのは「任天堂スーパーファミコン」(平成2年)。
両機共に稼働していて体験可。
遊んだ思い出の多い方にとっては、過去を追体験できるだろう。
--- 僕は「直撃世代」という事になるのだろうが、正直余り馴染みはない。
ファミコンが世の中を席巻していた1980年代半ば~90年代初頭、
漫画や本、映画、お絵描き、旅などに時間を費やしていた。



「木製トラック」と「ブリキ製飛行機」(共に昭和30年代)。
僕の子供時代(昭和40年代)、類する玩具はあったが少数派の感。
おもちゃの素材は、ビニールやプラスチックなど石油由来がメイン。
ソフビ怪獣人形、プラモデル、レゴブロックなどが遊び相手だった。



「凧」と「ゴム動力模型飛行機」。
年代特定はされてないが、昭和少年の僕はコレでよく遊んだ。
どちらも天候・風に影響を受けた事をよく覚えている。
往時の遊び場は基本屋外。
田畑など空が開けた場所が多く、自動車の交通量も少なかったのだ。





ハンドメイド「複葉飛行機・スクーター・三輪車・自転車模型」(竹製)。
ハンドメイド旧海軍艦船模型(戦艦陸奥・駆逐艦朝霧/空母加賀・伊号潜水艦)。
この2つは、今展示の白眉。
完成品はもちろん、部品一つ一つに至るまで手作りなのだから恐れ入る。
僕には到底真似できない。
見て楽しむ意味で玩具に分類されるかもしれないが、立派な「作品」である。
微に入り細に亘って、暫くしげしげと見入ってしまった。



「東京名家名物入電車案内双六(すごろく)」(明治43年発行)。
広告を兼ねた沿線マップのようなものと推測。
中央「上り」が皇居ではなく「宮城」と表記されているのも「時代」なのである。

---と、ここで少し話題は逸れる。
上掲の双六が世に出た頃、こんな詩文が発表された。

【長二(ちょうじ)は貧乏の家に生まれて
 おもちゃも持たずに死んでしまった。
 美しいガラス張りの店頭(みせさき)に、
 西洋のぜいたくな小間物や、
 赤、紫に、塗ったゴムまりや
 ぴかぴかと顔の映る銀笛(ぎんてき)や、らっぱや、
 なんでも子供の好きそうなものが
 並べてあるのを見ると、
 店のガラス戸を砕いて
 それらのものをめちゃめちゃにたたき壊してやりたくなる。
 隣に住んでいた、
 あの貧しかった、哀れな長二のことを思い出したときに。】

(※  】内、「おもちゃ店」/作:小川未明)

幼くも熱い友情。
若さゆえの衝動。
貧富と格差社会。
硝子張りの憧れ。
西欧への劣等感。
短い文面に込めた光景は実に多彩だ。

「おもちゃ店」が読売新聞に掲載された明治40年(1907年)。
日本は日露戦争後の恐慌にあえいでいた。
国家予算数年分に相当する戦費と多大な犠牲を払い大国に辛勝したが、
見返りが少なく国内景気がダウン。
乱暴に言うなら---暗い時代である。
詩文の語り手と友人(長二)に象徴される当時の少年少女とって、
おもちゃは希望や光明に思えたのかもしれない。



--- 閑話休題 ---

「津幡ふるさと歴史館 れきしる」の企画展「あそびの道具」は、
この後、七夕(2024/07/07)まで開催。
もうすぐ大型連休もある。
時間と機会が許せば、足を運んでみてはいかがだろうか。
同施設、直近は5月5日(日)ナイトミュージアムとして20時まで開館。
5月5日~11日は、児童福祉週間に即し親子来館は入場無料。
おススメである。
                       
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城址や 兵どもが 夢の跡。

2024年03月31日 08時19分19秒 | 日記
                           
津幡町から中能登町の災害ゴミ受け入れ現場へ向かう際、
必ず通過するのが「宝達志水町(ほうだつしみずちょう)」だ。



宝達志水町の場所は、石川県の中部。
上掲地図画像を見てお分かりのように、能登半島の付け根---旧能登国最南部に近く
「口能登」(くちのと)に位置する。
北は羽咋(はくい)市、南はかほく市と津幡町。
西は日本海、東は富山県氷見(ひみ)市と高岡市に隣接。
平成17年(2005年)3月1日、
羽咋郡志雄町(しおまち)と押水町(おしみずまち)が合併して発足した。



行き帰りの道すがら、常々気になっていたのが「末森城跡」の大看板。
よく晴れた先日、陽が西へ傾き始めた頃、城址を訪問した。
歴史ファン、戦国ファンならご存じの通り、ここは戦いの舞台となったところ。
「前田利家」と「佐々成正」の軍勢が刃を交えた「末森合戦」である。



『末森山(標高138.8メートル-3等三角点)にある中世から近世初期の山城跡です。
 現在は本丸門の礎石、通称「本丸」、「二の丸」「若宮丸」のあった跡や、
 空堀が草叢ながら歴然と遺っています。
 天正12年(1584)越中富山城主 佐々成政による攻撃を受けましたが、
 城主 奥村永福がこれを死守し、前田利家の来援により落城を免れています。
 この戦いが加賀百万石の基礎となったと伝わる「末森合戦」です。

 昭和59年度から城郭分布踏査を開始。
 60年度から3カ年で城域の踏査・測量、城郭の一部発掘調査を国庫補助を得て実施し、
 約36ヘクタールの踏査範囲の内、主要郭の本丸から若宮丸部分が
 石川県の史跡指定となっています。
 城郭南側国道沿いに案内板、本丸に説明板を設置し、
 登山道(個人作業用林道)に道順案内表示と、主要郭である、
 「本丸」「二の丸」「若宮丸」にそれぞれ標柱を設置いたしました。』
(※『   』内、宝達志水町HPより引用/原文ママ





元々「前田利家」と「佐々成政」は、どちらも「織田信長」の精鋭部隊に属し、
信長の下で何度も死線を搔い潜ってきた、いわば同僚で戦友だった。
しかし、本能寺の変で「信長」が倒れ状況は一変。
「豊臣秀吉」と「徳川家康」による天下取りのせめぎ合いが始まると、
「利家」はかねてから親交のあった秀吉側に加担。
「成正」は家康側に同調し、2人は敵対関係となる。
そして「末森合戦」で両雄が激突。



天正12年(1584年)年9月9日(※日程諸説アリ)、
「成政」が1万5000の大軍を率いて末森城を包囲。
翌10日から攻撃を開始した。
これに対し、城を守る前田兵は籠城して必死に抵抗。
成政軍の猛攻により、二の丸や三の丸は落とされたが、
本丸だけは死守し、現地に踏みとどまる。
末森城ピンチの一報は10日午後には、金沢城にいる「利家」の耳に届く。
もし加賀・能登・越中の国境にある交通の要所が落ちれば、
領土分断の憂き目に遭う。
急ぎ援軍を出すことを決定した。

利家軍は金沢からの進軍途中、わが故郷の母校が建っていた場所「津幡城」に立ち寄り、
息子の「前田利長」の軍と合流。
総数2500は「成正」軍に対し数の上では劣勢。
津幡城内で軍議を開き、作戦を練ったという。
9月10日深夜、城を出て雨の中海岸沿いを北上。
翌11日未明、成政軍の背後をつき奇襲をかけた。
本丸籠城中の味方も援軍に呼応し、挟み撃ちの恰好となった「成正」は、
末森城を諦め、越中に退却した。

死傷者は両軍合わせて2000近くになると伝わる末森合戦。
特に、寡兵の前田勢の損害は相当のものだったという。
激戦だったのである。





そんな城址を登ること20分あまり。
ようやく山頂付近の本丸跡に立つ。
兵(つわもの)たちの鬨の声も、ここで流された血と汗も時の彼方に消えてしまった。
ただ春のそよ風が吹き抜けるのみ。
僕は日本海に沈みゆく夕日を眺め感慨に浸ったのである。


                           
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