つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

古代史に刻まれた、津幡町。

2010年05月31日 23時44分05秒 | 日記
前回の投稿と同じ「津幡町・加茂」には、古代史に名前を刻む遺跡がある。

ここで、日本全国初めて平安時代の「お触れ書き」が見つかった。
その内容から律令政府がおこなった農業政策や
国家政策の伝達方法を具体的に知ることができる。

「加茂遺跡」は、河北郡津幡町の加茂・舟橋地内に位置し、
かつて西側には、金沢平野の北端を占める河北潟が広がり、
東側丘陵部の谷からは舟橋川が流れ出していたそうだ。

今、僕が目にしている道路などない当時、人々が暮らした様子はいかばかりか…。
都の華やかさとは無縁だったろうが、水辺の自然と向き合う真摯な営みが偲ばれる。
しばし1000年前の古に思いをはせた、ロマン漂う初夏の散歩。
なかなか味わい深い時間だった。
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津幡町・加茂にて、鴨に遭う。

2010年05月29日 12時23分03秒 | 自然
津幡町では、早朝の散歩中、鳥に驚かされることが時々ある。
過去には、何度か大きなサギと接近遭遇したが、今朝は「鴨」。
…鳥類については詳しくないのだが、正確には「カルガモ」だろうか。
確か「マガモ」や「コガモ」は渡り鳥だから、
日本にいるのは冬の間だけだったような…。

とにかく、道路脇の農業用水路に身を潜めていたのだと思うが、
近くを通りかかったとき、急に大きな羽音共に飛び上り、水田へと飛び移った。
まったく予想をしていなかった「りくすけ」と僕は、少なからずビックリする。

一方、我々を騒がせた「鴨」は、悠然としたもの。
水中に口ばしを突っ込んで餌を探したり、首をもたげて辺りを見渡したり…。
その姿を写真に収めようとして、道路に座り込んだ僕とは一定の距離を保ちつつ、
成長し始めた稲と稲の間を、スイスイと泳いでいた。

こうした水鳥との出逢いは、津幡町の環境のおかげだ。
川、潟、昔に比べて減ったとはいえ点在する水田。
豊かな水辺があればこそだ。

加茂で出遭った鴨は、改めてそんな気付きを与えてくれた。
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津幡町、新緑に包まれて。

2010年05月28日 12時24分02秒 | りくすけ
今日の1枚は、散歩途中の「りくすけ」と新緑萌える並木道。

最近は、野山や木々の傍を歩くと独特の香りが漂ってくる。
言葉では何とも表現しがたい、まさに「新緑の香り」だが、
その正体は「フィトンチッド」。
植物が成長・活動をする際に放つ揮発性の物質である。
春から初夏、植物にとって最も活動的な今が、フィトンチッドの量も多く、
風薫る季節だ。

この薫風…本来は5月あたりの季語だが、旧暦のカレンダーは、
僕らが使う太陽暦とはおよそ1ヶ月のずれがある。
だから薫風の本番はこれから。
「五月晴れ」は、梅雨の合間の晴れの事。
「五月雨」は、シトシトとそぼ降る梅雨の雨の事のようだ。

せっかく四季のある国に暮らしているわけだから、
季節感は大切にしたいと考えているのだが、近年は、どうも勝手が違う。
ちなみに、2010年の初夏は寒い。
先週から気温が上がらない日が多く、心なしか木々の緑も遠慮がちに思える。
このまま、去年同様の冷夏になれば、農作物、飲料、食品、家電、レジャーなど
色んなところに影響が出るだろう。
情緒の点でも、経済的な面でも、やはり夏は暑いほうがいい。

ところで、今朝の散歩途中、「りくすけ」が津幡川沿いの草むらに滑り落ちた。
ま、リードを付けているから、大事に至ることはない。
昨夜からの雨で濡れた草の中から、ヨレヨレと道へ登る様子は、何ともおかしかった。
普通に歩いていただけなのだが、時々、こういうポカをする。

無事、登り切り、体をブルルルル!っと震わせて水気を振り払った後、
彼は、小さな体からは信じられないほど大きなため息をついた。



 
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ラジオペッパーの甘くて苦い思い出。

2010年05月26日 23時14分27秒 | 日記
今日掲載した写真は、かつて電気屋だった建物。「庄中町振興館」の隣にある。
今では看板すら残っていないので、うろ覚えだが、確か「本田電気」だったと思う。
大型家電量販店が「家電テーマパーク」とすれば、街の電気屋さんは「家電の箱庭」。
限られたスペースに、あらゆるジャンルの製品が所狭しと並んでいた。

僕は、小遣いを貯め、この店で「ラジオペッパー」を買った。

決して安くはなかったはずの、ナショナルの超・薄型ラジオ。
ボディはシルバー一色。長方形の正面にスピーカーがあり、
その上にボリュームとチューニング用のダイヤルがそれぞれ1つづつ。
立方体で、真黒な革のカバーで覆われた無骨なラジオのイメージを覆す、
スタイリッシュでカッコいいデザインだった。
しかも、宣伝は「ペッパー警部」を歌う「ピンクレディー」。
新しい感覚のラジオだった。

「ピンクレディー」に夢中だった僕は、
ボリュームのダイヤルを回して電源を入れ、
厳かにチューニングして、ラジオライフを楽しんでいたのだが…。
ある日、突然、消えてしまった。

当時、日本社会党の党員だった父親が北朝鮮へ旅立つ際に「ペッパー」を持っていき、
そのまま現地でプレゼントしたというのだ。
「とっても喜んどったぞ。」
…と、帰国後、喜色満面で話す父親を、憤りの眼差しで睨んだ。
あれ以来、「ペッパー」のスピーカーから聞こえる音は幻になった代わりに、
北京経由で、ピョンヤンからの郵便物が届くようになった。

(追記:正しくは「本田時計電機店」「庄振興館」でした。5/28)
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店屋物。

2010年05月25日 23時50分33秒 | 日記
実家の近所、国道沿いには「本多食堂」があった。
正確に言えば、建物はまだ残っているが機能はしていない。
先日、散歩の折、改めて正面入口を見てみると、張り紙があった。
そこには、長年商売を続け、地域に世話になった旨と感謝の気持ちが綴られていて、
また、営業停止の理由として、土地買収による製麺所の閉鎖が挙げられていた。
日付を見ると、割と最近まで営業していたようだが、
果たして、どのくらいの人が利用していたのだろう?

何度か出前もしてもらった事もあったように思う。
確か「きつねうどん」とか「カツ丼」や「ラーメン」を食べたはずだ。
残念ながら、その味の記憶は殆どない。
ただ、とても嬉しかった記憶はある。
出前の兄ちゃんが、カブの荷台から「岡持ち」を降ろし、
ラップがかかった丼を出す仕草を嬉々として見ていたものだ。

普段の食事が不味かった訳ではないが、祖母や母親以外の人…
曲がりなりにもプロが作った料理なんて、滅多に口にできなかった。
実家の仕事が立て込んでいたり、旅行・出張などで片親が不在だったり、
グッドタイミングがないと「店屋物」は口にできなっかった。
今でこそ「ココイチ」とか「8番」とか「スガキヤ」「ケンタ」「マック」など
津幡町でも色んなメニューを気軽に口にできるが、当時、30年前は何もなかった。
「本多食堂」は貴重な存在だったのである。

今思えば、ラップの内側に水滴が付いた様子や、
メニューの湿気による岡持ちの木の匂い、
プンと鼻をくすぐるカツオ出汁の香りなどは、昭和の光景だった。





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