つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

遠い道のり。

2024年01月28日 16時33分33秒 | 日記
                        
一昨日、昨日(2024/01/26~27)の2日間、石川県・輪島市を訪問。
令和6年能登半島地震の被災地で避難所設置の業務に従事した。
久しぶりに足を運んだそこは、幾つかの意味で「遠いところ」に感じた。

距離的・時間的な間遠」。

そもそも能登半島は広い。
日本海側の海岸線で突出する半島としては最も面積が大きく、
金沢-輪島間の距離は100キロを超える。
平時でも車で2時間ほどを要するのだが、到着まで倍以上の時間を費やした。
地震によって道路状況が悪化、所々凹凸やヒビ割れが発生、片側交互通行も。
加えて、季節は冬。
降雪、路面凍結、渋滞が行く手を阻む。
奥能登は一層の遠隔地となり、支援が届き難いのは納得するしかない。





能登半島の奥に進むに従い、空気が重苦しくなってゆく。
上掲2つの画像にある様な「山滑り」や「倒壊家屋」が視界に。
それは間違いなく気の滅入る光景なのだが、まだほんの序章に過ぎなかった。

遥か遠くに霞んで見えない復旧」。

自然災害から立ち上がる際、人の心理は概ね次のように推移するという。

① 被害の全体像がつかめた
② 不自由な暮らしが当分続くと覚悟した
③ 毎日の生活が落ち着いた
④ もう安全だと思った
⑤ 仕事・学校が元に戻った
⑥ 家計への災害の影響がなくなった
⑦ 住まいの問題が最終的に解決した
⑧ 地域の活動が元に戻った
⑨ 自分が被災者だと意識しなくなった
⑩ 地域の道路が元に戻った
⑪ 地域経済が災害の影響を脱した











発災から1ヶ月が経つ輪島では、まだ①「被害の全体像」を掴み切れていない方も少なくない。
⑪「地域経済が災害の影響を脱した」実感に辿り着くまで、
どれだけの時間がかかるのか想像もつかない。
逆に、これから進む道が遠く困難なことは容易に分かってしまう。
そんな中、いやでも明瞭に浮かび上がるのは②「不自由な暮らしが当分続くと覚悟」。
ほんの短時間の滞在ながら、垣間見た街の人々には笑顔がなかった。
勿論、非常時なのだから致し方ないのは当然だが「無表情」が多く見受けられた。

--- 「ポーカーフェイス」には2つの種類があると思っている。
一つは、野心家の過剰な演出。
一つは、消失がもたらす喪失。
この場合はやはり後者である。

遠く彼方へ去った記憶」。







この地震で象徴的な存在となったのが「横倒しのビル」と「朝市の焼け跡」だろう。
報道を通じて何度も接してきたのだが、いざ目の当たりにすると衝撃は小さくない。
それは僕の記憶とはあまりに違う。
あまりの変わりように茫然とする。
思い出は、あっという間に遠く彼方へ過ぎ去ってしまったのだ。



設置した避難所のテントが少しでも役に立つことを願う。
---と同時に一日も早く用済みになり、遠い過去になることも祈って止まない。
                          
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北陸は憂いながらも、生きている。

2024年01月20日 21時02分21秒 | 日記
                            
最大震度7を観測した「令和6年能登半島地震」の発災から20日あまりが経った。
この間、滲む涙を何度拭ったことだろう。
未だ悲しみは深く、落ち着かない日々が続いている。
           
石川県によると、全壊や半壊、一部破損を含む住宅被害棟数は、
2024年1月20日現在で3万1659棟。
自治体別では、七尾市で8342棟、能登町で5000棟、
志賀町で3454棟、金沢市で3034棟など。
これまで集計が追いつかず「多数」となっていた奥能登・輪島市は、
少なくとも870棟が被害を受けたと明らかに。
珠洲市は引き続き「多数」となったまま。
被害の全容は明らかになっておらず、住宅被害の数字は今後大きくなってゆく。



わが津幡町も無縁ではない。
実数は不明ながら、各所で建物の損壊が見受けられる。
また、地盤の液状化によると思われる地盤沈下や隆起も少なくない。



上掲2つの画像は、いづれもご近所で撮影したスナップだが、
隣接の内灘町、かほく市の一部では、より多大な被害が出た。
ビルの1階部分が地中に沈み込んでいたり、アスファルトがめくれ上がっていたり、
まるで町全体が歪んでしまったような箇所がある。
地震による影響は、石川県内だけに留まらず富山県~新潟県と広範囲に及び、
手酷い場所の復旧は時間を要する。
ただ、強調しておきたいのは、北陸が「全滅した訳ではない」ということ。
昨今の報道では、健在地の旅行キャンセルなど風評被害が出ていると聞く。
不安に感じる人心は如何ともしがたいが、僕たちはここで生きているのだ。
                       
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

揺籃の地は異界。

2024年01月14日 17時17分17秒 | 手すさびにて候。
                             
中国大陸の奥、遥かチベット高原の氷河に源を発し、
6000kmもの旅を経て東シナ海へそそぐ「長江」。
その大河の最下流「黄浦江」沿いに位置する大都会が「上海」。
20世紀初頭のそこは一種のブラックホール。
世界中から人と富を呑み込み、妖しい魅力を放っていた。

川沿いに立ち並ぶ堂々とした欧風建築。
摩天楼の灯りが濁った水面に揺らめく。
陸に上がれば、人の海。
鞭髪、黒髪、金髪、赤毛、ブルネット。
丈の長い中国服、白いリネンのスーツ、チャイナドレス。
人種も服装も多彩。
乗用車やトロリーバスの間を縫って走る人力車や馬車、大八車に移動式屋台。
それらが混ざり合う混沌が表の顔だとすれば、裏側はさらに複雑怪奇。
渦巻く権謀術数、生と死、欲望が醸す臭気が漂い、あらゆる快楽がひしめいていた。

美酒、美食、美女、阿片、賭博。
--- そして「ジャズ(Jazz)」。
“魔都”は“楽都”でもあったのだ。

ほんの手すさび 手慰み。
不定期イラスト連載 第二百三十三弾「ジャズシンガー(1924年/上海)」。



19世紀半ば「阿片戦争」でイギリスに敗れて以降、アジアの黄龍・大清国の斜陽は明らか。
列強との不平等条約に甘んじ譲歩・割譲が進んだ。
その1つで象徴的な存在が上海。

戦前、上海には「租界(そかい)」と呼ばれる「外国の飛び地」があった。
本来は単なる土地貸与に過ぎなかったが、
支配者が治外法権・行政自治権を持つ事実上の「領土」。
イギリスとアメリカなどが一緒に管理する「共同租界」。
フランスが単独で管理する「仏租界」があった。
それぞれ母国の生活様式・文化を持ち込んだそこから、上海は国際都市へと変容。
経済的な繁栄を背景に、欧米スタイルのショービズも盛んになる。
取り分けアメリカからは、大恐慌と禁酒法にあえぐ一流ミュージシャンが、
本国よりも景気が良い上海を目指し始めた。

--- やがて、日本の同業者の耳にも噂が届く。
『上海なら、ギャラがいいうえに本場の技術やセンスを学べるらしい』
『ジャズを演るなら上海だ』
渡航気運が盛り上がったという。

当時、長崎から上海へはわずか26時間あまりの船旅。
船賃1等客席45円、三等客席18円(現在の価値に置き換えれば3万円~1万円)。
パスポートなしで行ける一番近い異国・上海行はブームになる。
学生や会社員、技術者、軍属、商売人、官吏、アウトロー。
種々雑多な輩が共同租界の一角に日本人コミュニティを作り上げ、
外国人最大勢力となっていた。

そんな背景もあって、上海を訪れた邦人ジャズマンは多い。
現地のナイトクラブで腕を磨いた彼らが持ち込んだ“最先端のサウンド”は、
成長の途について間もない日本の音楽ビジネスに取り込まれていく。
ジャズを筆頭に、タンゴ、シャンソンなど、
洋楽のエッセンスを取り入れたヒットの花が開いた。
(代表作:ディック・ミネ-ダイナ/淡谷のり子-別れのブルース/笠置シヅ子-ラッパと娘 )

しかし、戦火が激しくなると状況は一変。
“退廃的な敵性音楽”への風当たりは強くなる一方。
太平洋戦争開戦直後、内務省が米英文化排除を打ち出し、
ジャズミュージシャンたちは目の敵にされ、職を失った。

そして、敗戦を機に歴史はまたも掌を返す。
進駐軍のための演奏需要が急増するのである。
アメリカは、日本各地の焼け残った土地建物を接収。
軍用施設や軍人用住宅に作り替えた。
フェンスの看板には「Japanese Off Limits」の文字。
入国を許され米兵キャンプ・クラブ回りからキャリアを築いたビッグネームを挙げてみよう。

ジョージ川口(ドラムス)。
中村八大(ピアノ/作曲家)。
渡辺晋(ベース/芸能事務所経営)。
原信夫(サックス/シャープス&フラッツのマスター)。
渡辺貞夫(サックス)。
松本英彦(サックス)。
穐吉敏子(ピアノ)。
江利チエミ、雪村いづみ、ペギー葉山、フランク永井、松尾和子ら歌い手も輩出している。

戦前は「上海租界」。
戦後は「東京租界」。
中国に在りながら中国ではない処。
日本に在りながら日本ではない処。
2つの“異界”が音楽の揺りかごになった。

(※文中敬称略)
                                   
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小品、冬鷺。

2024年01月13日 11時11分11秒 | 自然
                                 
冷たい雨が降る昨日(2024/01/12)の午後、
金沢へ向かい車を走らせていたところ助手席に置いたスマホが鳴った。
電話をかけ直すため、一旦バイパス下の運動公園を目指す。
そこは冬季閉鎖されていて駐車場には入れない。
側道に車を停めようとすると路面を歩く白い鳥を発見。
大鷺(ダイサギ)である。



体長は 1m近く。
羽毛は白一色で、脚と首、嘴(くちばし)が長い。
かなり近づいても道の真ん中を悠然と闊歩している。
彼は解っているのだ。
人っ子一人いない冬は、ここが害のない「楽園」だということを。

大鷺は、アジア南部~オーストラリア~南北アメリカなどに広く分布。
日本には夏鳥として渡来する個体もいて夏の季語の1つだが、
季節的な移動をせず、同じ地域に一年中生息し繁殖をする「留鳥」も少なくない。
これを「冬鷺」とか「残り鷺」と呼ぶとか。

鷺の食物は、魚類、ザリガニ、カエルなど水辺の小動物。
近くの水田や川が、いい餌場になっているのだろう。
雪が積もれば辺りに溶け込んでしまうかもしれないが、
曇天の下、枯野に囲まれていれば実によく目立つ。
観察しながらシャッターを切るうち、能登のいで湯のエピソードを思い出した。

<時代を遡ることおよそ1200年、薬師嶽の西側で温泉が湧き出しました。
 これが和倉温泉の開湯となります。
 しかし、それから250年程が経った永承年間(1046年~1053年)に地殻変動が起こり、
 湧き口が沖合60メートルの海中に移動し、湯の谷の温泉は枯れてしまいました。
 ところがある日、和倉に暮らしていた漁師夫婦が、ぶくぶくと泡立っている海に、
 傷ついたシラサギが身を癒しているのを見つけます。
 不思議に思って近づき海に手を入れると、熱い温泉だということがわかりました。
 これが“湯の湧き出づる浦(涌浦)”ということで、
 和倉の海で温泉を発見した最初といわれています。>

(※和倉温泉観光協会・和倉温泉旅館協同組合HPより抜粋/引用)

全国各地の温泉場では、しばしば白鷺が源泉の発見に寄与した故事を耳にするが、
「地殻変動」が関わるそれは、あまり見かけた記憶がない。
そんな伝説を持つ石川県七尾市の和倉温泉は、
現在(2024/01/13)すべての温泉旅館が休業に追い込まれている。
「令和6年能登半島地震」の影響だ。



不意に鳥が大地を離れた。
僕との距離が危険レベルに達し、逃げ去ったのである。
あっという間に舞い上がり遠ざかってゆく。
その飛翔を見送りながら、下手な歌を詠んでみた。

冬鷺や 揺れ来りなば 翼持ち
空へはばたく 君を羨む

                           
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

自戒の念。

2024年01月07日 10時00分00秒 | 日記
                       
きのう(2024/01/06)の拙ブログ投稿で「令和6年能登半島地震」について書き、
以下の文面で締めくくった。

『全力を尽くして助けようとする人がいる一方、
 窮地から容赦なく剝奪しようとする輩もいる。
 これが浮世の現実なのだ。』

被災地での火事場泥棒的な犯罪や悪質商法の具体的な事例として、
オンライン記事へのリンクも添えた。
その内容は以下のとおり。

<地震被災者の避難所となっている県立穴水高校で自動販売機が壊され、
 中から飲料と金銭が盗まれていたことが5日、目撃者の証言でわかった。
 被害を目撃した避難者の30歳代男性や同校によると、発生したのは地震発生直後の1日夜。
 当時、避難者が続々と校内に集まり、100人ほどが身を寄せ合っていた。
 学校は地震の揺れでほとんどのガラスが割れており、誰でも自由に入れる状態だった。
 同日午後8時頃、校庭に金沢ナンバーの車が見え、
 40〜50歳代の男女4、5人の集団が校内に入ってきた。
 集団は「緊急だから」とだけ話し、女の指示を受けた複数の男が
 チェーンソーとみられる道具を使って自動販売機を破壊し、飲料水や金銭を盗んだという。
 目撃者の男性は「けたたましい音が学校中に響き渡っていた。
 避難所はパニックになり、誰も止められなかった」とおびえた表情で語った。
 同校の島崎康一校長は「避難者も不安に感じているので、許せない」と憤った。>

(※読売新聞記事より抜粋引用/原文ママ)

ところが昨深夜、以下の「続報」を発見。

<能登半島地震の避難所となっている穴水町の穴水高で1日夜、男女数人が自動販売機を壊し、
 同校の避難者用に飲料水を置いていったとみられることが6日、同校などへの取材で分かった。
 自販機を壊した人は「自分も避難者で、飲み物を確保するために自販機を壊していいか
 (管理者に)確認した」と話しており、石川県警は事件性はないとの見方を示している>
(※北國新聞記事より引用/原文ママ)

どちらが真実なのだろうか?
現時点では分からない。
出来事を捉える視点によって評価は異なるだろう。
やがて明らかになるかもしれないし、折り重なる情報の中に埋没するかもしれない。

混乱の現場では、誤解や誤報も混在している。
“事件性”に反応して載せたのは、僕の勇み足だった。
「鵜呑み」はいけない。
行間を読み、考えるべきだった。
反省し、強く自らを戒めた次第だ。



上掲画像は「事件の自販機」ではなく、津幡町・大西山に設置された「災害救援ベンダー」。
バッテリー内蔵型で、有事に非常用電源に切り替わり無料販売になる。
確かに、すべて「売り切れ」ランプが点灯していた。



業界団体を通じた農林水産省の要請に基づき、
大手飲料各社は5日までに30万本の飲料提供を表明。
被災地に向けて輸送されているという。
また、飲料各社は義援金の提供も発表した。
--- これは間違いのない情報である。
                           
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする