つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

Have You Ever Seen the Rain.

2022年06月25日 14時14分14秒 | 音とアート。
                 
きのう(2022/06/24)石川県内にフェーン現象が発生。
各所で35℃を超え、今年初めての猛暑日となった。
加えて、加賀で70ミリ、能登で50ミリの雨が降り、
蒸し暑く寝苦しい夜を過ごした。



それから一転。
今日は朝から快晴に恵まれ暑くなっているものの
湿度が、きのう程じゃないのが救いである。

気象庁が先日発表した1ヶ月予報によれば、
向こうひと月の降水量は、北日本と沖縄・奄美では「ほぼ平年並み」。
一方、東・西日本では「平年並みか少ない」らしい。
ここ北陸も、梅雨前線や湿った空気の影響を受けにくく、
梅雨明けが早まる可能性が高まったかもしれない。
大雨は困りものだが、少雨もまた同じ。
やはりレイニーシーズンは、それなりであってもらいたいのである。



さて、そんな「雨乞い気分」に浸っていると、ある曲のタイトルが思い浮かんだ。
「Creedence Clearwater Revival」のナンバー
「Have You Ever Seen the Rain(邦題:雨を見たかい)」。
有名な作品だから、ファンならずとも聴き覚えがあるかもしれない。

サビの歌詞---
“I want to know, have you ever seen the rain
 (知りたいんだ、雨を見たことあるかい?)
Coming down on a sunny day”
 (晴れた日に、空から降り注ぐ雨を)
--- この「雨」は「暗喩」だとする説がある。

曲がリリースされた70年代初頭は、ベトナム戦争のさ中。
つまり晴天に降る雨は、米軍がジャングルに落としている「ナパーム弾」だと、
当時、多くのリスナーが捉えた。
制作者は否定しているが、時代はそうは思わず、
反戦のメッセージを重ね合わせて、耳を傾けた。

折しも、ロシアがウクライナへ軍事侵攻に踏み切って(2022/02/24~)から、
丸4ヶ月が経った。
この機会に、反戦のメッセージを重ね合わせ耳を傾けてみてはいかがだろうか。

Have you ever seen the rain CCR Vietnam combat footage


Someone told me long ago
(ずいぶん前、誰かが言ってた)
There’s a calm before the storm
(嵐の前は静かになるものだって)
I know and it’s been coming for some time
(このところ、そんな気配がしていたんだ)

When it’s over so they say
(さらにあいつ等はこうも言う)
It’ll rain a sunny day
(晴れた日にも雨は降る)
I know shinin’ down like water
(閃光が雨水のように降り注ぐと)

I want to know, have you ever seen the rain
(知りたいんだ、雨を見たことあるかい?)
I want to know, have you ever seen the rain
(なあ教えてくれ、見たことあるんだろ?)
Coming down on a sunny day
(晴れた日に、空から降り注ぐ雨を)

Yesterday and days before
(昨日も、一昨日も、その前も)
Sun is cold and rain is hard
(陽の光は閉ざされ、雨は激しくなるばかり)
I know, been that way for all my time
(このところ、周りはいつもそんな感じなんだ)
Till forever on it goes
(どこまでゆけば終わりが見えるのか)
Through the circle fast and slow    
(速くなったり、遅くなったりするけど、結局堂々巡り)
I know, and I can’t stop my wonder
(まったくもって不可解だけど、何も変わらない)

I want to know, have you ever seen the rain
(知りたいんだ、雨を見たことあるかい?)
I want to know, have you ever seen the rain
(なあ教えてくれ、見たことあるんだろ?)
Coming down on a sunny day
(晴れた日に、空から降り注ぐ光の雨を)

<作詞作曲:John Fogerty /意訳:りくすけ>



想像してみて欲しい。
貴方が暮らす町の空から、鉄と火薬、核の炎が降り注ぐ光景を。
そんなものは、誰も見たくないはずだ。
                     
コメント (4)
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聖夜のスタンダード考、のようなもの。

2021年12月25日 00時30分00秒 | 音とアート。
                  


クリスマスである。
冒頭の画像は「津幡町文化会館シグナス」の玄関ロビーにて、数日前に撮影したもの。
毎年12月になると登場し、来館者の目を楽しませているクリスマスツリーだ。
根本あたりからだろうか?
小さな音量でお馴染みのメロディーが流れている。

さて、今回はクリスマス・ソングのスタンダードナンバーから筆を起こそう。

『I'm dreaming of a white Christmas.
 夢見ているのは、ホワイト・クリスマス。
 懐かしい日々そのままに。
 木々の梢は輝き、子供たちは耳をすませる。 
 雪の中を走る そりの鈴の音に。

 I'm dreaming of a white Christmas.
 夢見ているのは 真っ白な雪のクリスマス。
 全てのクリスマス・カードには、こう書綴られている。
 あなたにきらめく幸せな日々がありますように。
 そして、クリスマスが一面の銀世界に包まれますように。』
(White Christmas/意訳:りくすけ)
 


耳にした記憶がある方も多いであろう楽曲「ホワイト・クリスマス」。
舞台と銀幕を股にかけ活躍したアメリカのエンターテイナー、
「ビング・クロスビー」の代表的な持ち歌だ。
彼が1942年に主演したミュージカル映画の主題歌。
つまり、発表のタイミングは第二次世界大戦のさ中である。

清らかな白銀のクリスマス、無邪気だった子供の頃のクリスマス、
平和なクリスマスを連想させる歌は、戦時体制下のアメリカで大ヒット。
以降、スタンダードナンバーとして5000万枚を売り上げ、ギネス記録に認定。
カバーや、収録されたアルバムを含めると、1億枚以上がセールスされたと考えられている。

上掲のバージョンを歌っているのは「ヘレン・メリル」。
歌唱力はそれなりだが、
“ニューヨークのため息”と呼ばれるハスキーなアルトボイスが魅力的だ。

続いては、やはりスタンダードナンバーと言っていい、
彼女の代表的レパートリーを取り上げてみたい。



『君の待つ家に帰れたら、なんて素敵だろう。
 空高く木枯らしが子守唄を歌うとき、暖炉のそばに君がいてくれたなら。
 僕が望んでいるのはただそれだけ。
 冬に凍える星の下でも。
 灼けつく八月の月明りの下でも。
 君を思い浮かべれば耐えられる。
 You'd be so nice,
 You'd be paradise to come home to and love.
 可愛い君、
 愛する君がいる家は、楽園以外の何物でもないんだ。』
(You’d Be So Nice Come Home To/抜粋意訳:りくすけ)

邦題は「大橋巨泉」が付けた『帰ってくれたらうれしいわ』。
この曲も元々は戦時下のアメリカで公開された映画主題歌だった。
凍える星の下、灼けつく八月の月明かりの下とは、異国の戦場。
この戦争が終わったら五体満足で家に帰りたい。 
故郷で待つ笑顔に再会したい。
そんな最前線に身を置く兵士の気持ちを代弁しているように思える。
 
スタンダード---「標準」とか「基準」とされる音楽がある。
その呼び名は、生まれ落ちた時代の耳に届き、心に届き、
時の流れがもたらす風化を耐えてきた勲章のようなものだ。
                         
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Man cannot live by bread alone.

2021年11月06日 19時19分19秒 | 音とアート。
                    
生命維持に必要不可欠ではないことに時間と労力を費やし、
そこに「価値」や「意味」を見出す生き物は、人間だけかもしれない。
たとえば「芸術」。
絵画も、書も、写真も、映画も、演劇も、文芸も陶芸も、音楽も、
空腹を満たしてはくれない。
しかし、人間は、物質だけでなく、精神的に満たされることを求める。
つまりは「心の飢餓」を解消するために、有ってしかるべきなのだと思う。
今日は、そうした、人ならではの欲求の発露を拝観してきた。





きのう(2021/11/05)から「第17回 津幡美術作家協会展」がスタート。
会場の津幡町文化会館シグナスには、
日本画、洋画、工芸(刀工)、書、写真、70点余りの作品が展示してある。
力作揃いの中、つい興味は絵画に向く。
題材を選び、構想・構図を練り、画材を手に試行錯誤。
それは「生みの苦しみ」かもしれないし「至福の時間」でもある。
好みはそれぞれだが、僕は手仕事の結実に惹かれるのだ。

 

紀元前から人は「絵」に親しんできた。
ビジュアルで何かを伝える手段に於いて、絵画は高い地位にあった。
19世紀、写真の登場によって事態は変化する。
“画家に描いてもらうより早いくて安い”と、
風景画や肖像画のジャンルは深刻な打撃を受けたという。
しかし、絵画は写真によって「写実という呪縛」から解放されたとも言える。



さて、今投稿のタイトルは、英語の慣用句だ。
正確には---
「Man cannot live by bread alone,
 but on every word that comes from the mouth of God」
「人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る言葉によって生きる」
---となる。

「モーセ」が発し「イエス」に受け継がれた有名なフレーズ。
素直に受けとれば「神の言葉(存在)はパンを超越している」となるだろうが、
これが記載された聖書を読み込んでいない僕は、勝手にこう解釈している。
「人は糧を得てこそ、神の言葉に耳を傾け生きがいを見い出す」
日本人の感性には「衣食足りて礼節を知る」に近いだろうか。
何にせよお腹のふくれない芸術を楽しめるのは、まあまあ幸せな証だ。

「第17回 津幡美術作家協会展」は、11月10日(水)まで開催。
期間中各日午前9:00~午後5:00(最終日は午後4:00)。
もちろん、写真も書も工芸も見応え充分。
入場無料。
時間と都合が許せば足を運んでみてはいかがだろうか。
                  
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津幡の川に陽は落ちて。

2021年08月08日 20時35分35秒 | 音とアート。
             
2021年8月8日現在、
9号と10号、2つの台風が列島をかすめて移動中。
ここ北陸の空は、時折、雨がパラつくものの、幸い今のところ大事なし。
気象ニュースによれば、避難指示や土砂災害警戒を促す地域もあると聞く。
拙ブログをご覧の皆さまの周辺はいかがだろうか?
ともあれ無事を祈ります。

--- さて、雲量の多い夏の夕空は趣き深い。
暑熱が落ち着き、傾く太陽が空に描く景色は、実に美しいのである。



夕陽は日本海に落ちてゆくが、わが津幡町に海はなく、
代わって津幡川の川面に、茜が映える。
刻々と変わる様子は、見ていて飽きない。
そして、気が付くと「歌」を口ずさんでいた。

遠き山に 日は落ちて
星は空を ちりばめぬ
今日の業(わざ)を なし終えて
心軽く 安らえば
風は涼し この夕べ
いざや 楽しき まどいせん

やみに燃えし かがり火は
ほのお今は 鎮まりぬ
眠れやすく 憩えよと
誘うごとく 消えゆけば
やすき御手(みて)に 護られて
いざや 楽しき 夢を見ん




『遠き山に日は落ちて』は「ドヴォルザーク」の
『交響曲第9番 ホ短調 作品95』の第二楽章のメロディに歌詞をつけた歌。

チェコ・ボヘミア生まれの作曲家「ドヴォルザーク」は1892年に渡米。
4年に亘り、ニューヨークの「ナショナル音楽院」で教鞭をとった。
この期間に作ったのが『交響曲第9番 新世界より』だ。

当時のアメリカは大陸横断鉄道が開通し、第二次産業革命の真っただ中。
“発明王”「トーマス・エジソン」が人類史を変える製品を次々と世に送り出し、
“自動車王”「ヘンリー・フォード」が起業し、
大都市に高層ビルが林立し始めていた。

新興国の発展を支えたのが、世界中からの移民達。
「ドヴォルザーク」の故郷・中欧ボヘミアの同胞も大勢いた。
彼等の暮らしに思いを馳せながら創ったのが、
『交響曲第9番 新世界より』第二楽章の温かく素朴なメロディ。
郷愁を感じる旋律には、アメリカで初めて接した、
アフリカ系やネイティブ・アメリカンの音楽要素も盛り込まれているという。

「堀内敬三(ほりうち・けいぞう)」氏による日本語歌詞も味わい深い。
僕はボーイスカウトの一員だった頃、この歌を教えてもらった。
もうかれこれ40年以上前のことだ。
未だに、鮮明に覚えている。

「名曲」の持つ素晴らしいチカラを再認識した。


コメント (2)
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花は涙か、ため息か。

2021年04月04日 09時36分36秒 | 音とアート。
          
きのうの投稿では、満開を迎えた染井吉野の画像を掲出した。
春爛漫の津幡町、他にも目を楽しませてくれる花は多い。
「白木蘭(ハクモクレン)」もその一つだ。



木蘭はかなり古い時代の姿を留めているという。
花言葉は「自然への愛」「崇高」「持続性」。
気候変動や環境の変化を生き抜いた大ぶりの美しい花に相応しい。
また、上に向って開く様子は「人の手」にも例えられる。

このスナップを撮影したのは、町営「鷹の松墓地公園」。
場所柄からか?
青空へ結ぶ「仏の手印」に見えない事もない。
花を見つめながら、連想の要因が「あの歌」にあると思い至る。



毎年、木蓮の花が咲くころ、亡くなった人の面影が浮かぶ。
また逢いたい。
逢えないと分かっているから哀しい。
90年代のヒットバラード「木蘭の涙」をご存知の方も少なくないだろう。
知らず知らずのうちに意識に染みているのは、歌の持つチカラである。

そんな諸々を思考した後、
墓地の木蘭の側を離れた僕は、ある光景にハッとした。
大袈裟に言うなら、軽い衝撃を覚えた。



無造作に打ち捨てられた仏花。

人が、人の都合で育て、
人の都合で切り取られ、
人の勝手でゴミにされる。
花は、本来、種子植物の生殖器官である。
花の立場にすれば、たまったものではないだろう。
哀しくて仕方がないだろう。

--- とまあ柄にもないことを考えてしまったのは、
やはり、切ないラブバラードの旋律と無縁ではないかもしれない。
コメント (4)
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